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東山・法皇寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年8月28日 (日)
法皇寺は京都府京都市左京区法皇寺町付近にあった臨済宗寺院。中世禅宗寺院としての乙訓寺の後身寺院。南禅寺牧護庵に併合。鎮守の満足稲荷神社が旧地に残る。山号は大慈山。(参考:同名寺院法皇寺)
1831年の「改正京町絵図細見大成」[1]には要法寺の東に描かれる。 山城国乙訓郡の古刹乙訓寺が起源。空海の旧跡として知られる。宇多法皇が乙訓寺を行宮とし、法皇寺と呼ばれるようになったという。 室町時代、寺内で争論が起きたところ、将軍足利義満は真言宗の寺僧を追放して南禅寺大寧院の伯英徳俊(南禅寺53世)に与え、南禅寺の別院とした。南禅寺大寧院末となる。 江戸時代の1693年3月、護持院隆光は、南禅寺金地院の剛室崇寛に対し、乙訓寺の合体霊像は空海の像であり、禅宗の祖師の像ではないと訴え、金地院もこれを認めた。 6月、隆光は東山文殊院の地を南禅寺に替え地として提供することを将軍徳川綱吉に請願し、7月に許可を得た。(豊山伝通記、京都金地院公文帳) よって禅宗寺院としての法皇寺は、今熊野日吉(智積院の東側あたりか)にあった文殊院に移転した。 文殊院は、天正から慶長頃に高野山応其が建立した文殊院か(『日本歴史地名大系』)。1696年の京大絵図[2]に妙法院の東に文殊院が描かれている。 法皇寺はまもなく智積院の学寮建設のために二条川東(左京区法皇寺町・北門前町・東門前町付近)に移転した(東山名勝図会)。魚藍観音を祀る観音堂があった。推古天皇、宇多天皇、足利義満の位牌があった。 1878年12月、南禅寺金地院に移転。ただし住民の請願が満足稲荷神社は残された。 1888年11月、南禅寺牧護庵に移転合併し、法皇寺と称した。のち牧護庵に復した。 牧護庵に寺号碑がある。