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祠宇
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年2月4日 (土)
祠宇(しう)は戦前の教派神道制度において認められた施設の一種。当初は通常の教会所と異なり、仏教寺院と同様に葬儀の執行が認められていた(のち教会所でも可能に)
芳村忠明「祠宇について」によると、祠宇は、1882年(明治15年)1月22日に制定され(「内務省戊第1号達」「内務省乙第4号達」)、2年後に新設が禁止された。芳村は、祠宇制度が制定された理由については本文中にて述べていないが、葬儀執行のために制定されたことを示す史料を文末に掲げている。新設が禁止された理由については、やはり文末史料の註釈にて、1884年(明治17年)に家屋での葬儀執行が認められたため、教会所で葬儀が可能となったことにあることを述べている。祠宇の法的性格は祠宇と教会所との違いは法人格の有無にある。教会所は民法上の「組合」であり、祠宇は法人である。芳村によると祠宇はほぼ社寺と同等の権能を与えられたという。堂宇形式、葬儀執行、守札発行、衆庶の参拝、域内への教会所設置などについて社寺に準ずる扱いがなされた。教会が法人格を有することが可能となったのは、1939年(昭和14年)の宗教団体法に始まる。同法においては、祠宇は、「法人たる教会」とみなされた。ただし、宗教団体法後も祠宇に附されていた従来の権能は維持されるという見解を芳村は示している。教派神道の祠宇の事例を挙げ、神道修成派10、大成教3、大社教2、扶桑教1、神習教1、神道本局3の合計20祠あったことを記している。執筆当時、その半数以上の所在地が不明であることを嘆いている。祠宇がわずか20祠しか創設されなかった理由について、境内地150坪以上、建物50坪以上という条件があったこと、祠宇新設はわずか2年で廃止されたこと、都市部における創設には多大の経費が必要だったことを挙げている。しかしながら芳村が挙げたもの以外にも祠宇が存在しており、全貌は不明である。
- 祠宇が存在したのは、神道大教・神道修成派・神宮教・大社教・扶桑教・大成教・神習教の7教派。
- 黒住教・実行教・御嶽教・禊教・神理教・金光教・天理教には祠宇はなかった。
- 青山斎場も当初は神道青山祠宇と呼ばれた。祠宇と名付けたのは葬儀場であることを強調するためか。
集計
年 | 神道 | 黒住 | 修成派 | 神宮教 | 大社教 | 扶桑教 | 実行教 | 大成教 | 神習教 | 御嶽教 | 神理教 | 禊教 | 金光教 | 天理教 | 合計 |
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1914年(大正3年)12月31日(『日本帝国文部省年報』42) | 3 | 10 | 2 | 3 | 1 | 19 | |||||||||
1915年(大正4年)12月31日(『日本帝国文部省年報』43) | 3 | 10 | 2 | 3 | 1 | 19 | |||||||||
1916年(大正5年)12月31日(『日本帝国文部省年報』44) | 3 | 10 | 2 | 3 | 1 | 19 | |||||||||
1916年(大正5年)文部省宗教局編『宗教要覧』 | 3 | 7 | 2 | 3 | 1 | 16 | |||||||||
1917年(大正6年)1月刊行『文部省統計摘要』 | 3 | 10 | 2 | 3 | 1 | 19 | |||||||||
1917年(大正6年)12月31日(『日本帝国文部省年報』45) | 3 | 10 | 2 | 1 | 3 | 1 | 20 | ||||||||
1918年(大正7年)12月刊行『文部省統計摘要』 | 3 | 10 | 2 | 3 | 1 | 19 | |||||||||
1918年(大正7年)12月31日(『日本帝国文部省年報』46) | 3 | 10 | 2 | 1 | 3 | 1 | 20 | ||||||||
1919年(大正8年)12月末日(『日本帝国文部省年報』47) | 3 | 10 | 2 | 1 | 3 | 1 | 20 | ||||||||
1920年(大正9年)1月刊行『文部省統計摘要』 | 3 | 10 | 2 | 1 | 3 | 1 | 20 | ||||||||
1921年(大正10年)度『文部省統計摘要』 | 3 | 10 | 3 | 1 | 3 | 1 | 21 | ||||||||
1922年(大正11年)度『文部省統計摘要』 | 3 | 10 | 3 | 1 | 3 | 1 | 21 | ||||||||
1922年(大正11年)3月31日調「寺院仏堂教会の檀家信徒及不動産に関する統計」 | 3 | 10 | 3 | 1 | 3 | 1 | 21 | ||||||||
1935年(昭和10年)『神道年鑑』 | 3 | 9 | 3 | 1 | 2 | 1 | 19 |
一覧
教団 | 名称 | 現在 | 所在地 | 備考 | |
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1 | 大教 | 東雲祠 | 札幌祖霊神社 | 北海道札幌市中央区南5条西8丁目1番地 | 「神社明細帳」に記載あり(1997『北海道神社明細帳の分析』)。のちに<神社>化したか。北海道神社庁HPに記載あり。『新札幌市史』第2巻に記述。 |
2 | 大教 | 大三輪祠 | (大神教か) | 奈良県桜井市三輪1198 | 「祠宇について」に所載の史料には「大三和祠」とある。 |
3 | 大教 | 丸山泰祠 | (丸山教) | 神奈川県川崎市多摩区登戸1274 | 丸山教本院。1891年(明治24年)に「信者が百二十万戸に達した記念に」神奈川県の許可を得て、富士吉田から本院に移転した(佐々木千代松『民衆宗教の源流』247)。 |
4 | 修成派 | 金光祠 | (現存不明) | 北海道余市郡仁木町 | 2000『新仁木町史』282・917に記述。 |
5 | 修成派 | 都田祠 | 都田祠 | 静岡県浜松市北区都田町 | 現存。御嶽神社。1940『都田村郷土誌』42-43頁によると修成派傘下の御嶽講が建てたものだという。都田郷土史研究会による郷土文化という雑誌がある。 |
6 | 修成派 | 金幣祠 | (現存不明) | (千葉県内) | |
7 | 修成派 | 印幡祠 | (現存不明) | (千葉県内) | 印旛沼周辺か。 |
8 | 修成派 | 本郷祠 | 本郷祠 | 1東京都文京区西片2-18-18<現・日本基督教団西片町教会> 2東京都杉並区松庵3-15-2 | 修成派の本部。『本郷区史』1194-1195頁に記述あり。俗に「御嶽神社」と呼ばれていたという。 |
9 | 修成派 | 清水祠 | (現存不明) | (徳島県清水<現・三好市三野町>?) | |
10 | 修成派 | 上野祠 | 黒髪神社 | 群馬県北群馬郡榛東村広馬場3615(旧・相馬村) | 「神社明細帳」には記載なし。1988『榛東村誌』1062-1064頁に記述あり。境内に有栖川神社がある。1995『渋川市誌』222 |
11 | 修成派 | 鏑木祠 | 現存 | 千葉県旭市鏑木1984番地2 | |
12 | 修成派 | 大元祠 | 大元祠 | 1埼玉県さいたま市中央区(旧・与野市) 2静岡県磐田市豊岡 3静岡県磐田市敷地938-17 4静岡県磐田市敷地1464-1 | 本部が与野の大元祠に移転したときの文書が1981『与野市史』近代史料編にあり。現在の与野御嶽神社の隣接地にあった。「おんたけさん敬神大教会」のホームページによると、1953年(昭和28年)4月に静岡県磐田市豊岡に遷座。1976年(昭和51年)に磐田市敷地に遷座。現在の「大元祠山下祠」だと思われる。1989年(平成1年)に現在の「大元祠山上祠」に遷座か。 |
13 | 修成派 | 中宝祠 | (現存?) | 長野県長野市戸隠宝光社2332 | 江戸時代までは、宝光院谷に所属していた「広善院」(徳善院?)。戸隠神社宿坊の越志家。現在の「越志旅館」。『長野県史』近代史料編10巻572頁に「神道修成派中宝祠」の記述がある。472頁に1883年(明治16年)9月の管長宛の祠宇建設上申書がある。569にも。『戸隠-総合学術調査報告』161頁によると、1884年(明治17年)ごろの神道修成派に関する文書(「越志家所蔵文書」15・23~37)数点が残っているという。(未見田川幸生2005「明治中期・戸隠神社旧社中による教導職―神職への復権をめぐる活動の中で」[1]) |
14 | 神宮教 | 大神宮祠 | 伊勢祖霊社 | 三重県伊勢市岡本1-17-9 | 「神宮教本院」にあった。『大神神社史料』第7巻、709ページに神道神宮教管長田中頼庸から神宮教各本部に送られた、神宮教本院に「大神宮祠」設置を知らせる1883年(明治16年)3月10日付の文書が収録されている。現在の伊勢祖霊社だと思われる。 |
15 | 神宮教 | 大神宮祠 | 東京大神宮 | 東京都千代田区富士見 | 「神宮教教院」にあった。『東京大神宮沿革史』52に「神宮教祠宇」とある。 |
16 | 大社教 | 大社教本祠 | 出雲大社教神楽殿 | 島根県出雲市大社町杵築東 | 祭神は大国主大神を主神として、天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神、天照大御神、産土大神を祀る(1924(大正13)『出雲大社並大社教本院参拝案内』) |
17 | 大社教 | 大社教東京分祠 | 出雲大社東京分祠 | 1(上二番町<半蔵門のあたり>) 2東京都港区六本木7丁目18-5 | 1882年(明治15年)4月4日に神田神社から移転。1883年(明治16年)5月11日、東京分祠創建(『千家尊福公』) |
18 | 大社教 | (名称不明) | (現存不明) | (栃木県内) | 『宗教制度調査資料』7に掲載の1922年(大正11年)の統計で新たに記載されている。下野分院か。 |
19 | 扶桑教 | 扶桑教本祠 | (名称不明) | 1東京都港区浜松町2丁目(東京府東京市芝区神明町) 2東京都渋谷区桜丘町26-1<現・セルリアンタワー>(渋谷町大和田386) 3松沢<桜上水近辺> 4東京都世田谷区松原1丁目7-20 | 平野栄次によると、宍野半は、1875年(明治8年)1月に芝神明町に拠点を設置。1876年(明治9年)2月に祠宇が完成しているという(祠宇の語法は遡及的に用いているものか。)。計画書によると、同年3月23日、富士山の山麓須走口にて、神鏡に「天照大神」を鎮祭し、つづいて大宮浅間神社にて「造化神」を合祀することを奏上。27日には北口にて「木花佐久夜毘売命」を鎮祭した。同年4月3日に帰京した。1914年(大正3年)『渋谷町誌』92には1890年(明治23年)祠を創建とあるが、このとき「祠宇」になったということだろうか。1898年(明治31年)に芝神明町より移転した(1914年(大正3年)『渋谷町誌』92)。 |
20 | 大成教 | 大成教祠宇 | (現存不明) | 1(小石川区原町44番地) 2(台東区?) | |
21 | 大成教 | 事妙法祠 | (廃絶) | 1北九州市小倉 2東京都港区西新橋2丁目34(東京市芝区田村町5) | 蓮門教の祠宇。教団資料には「大成教蓮門教事妙法本祠」とある。当初、小倉に置かれたが、1889年(明治22年)に東京に遷した(奥武則1988、168参照。)。1889年(明治22年)10月19日ともいい(100ページ)、29日ともいう(101ページ、大成教資料)。愛宕真福寺の目の前にあった。 |
22 | 大成教 | 事妙法分祠 | (廃絶?) | 北海道根室市常磐町(「根室郡常磐町五丁目」) | 蓮門教の祠宇。大成教資料によると、1895年(明治28年)6月25日に設立されたとあるが、1892年(明治25年)5月の蓮門教機関誌にも既に記されている(奥武則1988、102)。根室に置かれた理由は明らかでないが、島村みつの孫、島村仙修が小樽に住んでいたことと関係があるのではないかと推測されている(同104)がそれにしては遠すぎる。 |
23 | 大成教 | (不詳) | (廃絶?) | 京都府 | 『宗教制度調査資料』7に掲載の1922年(大正11年)の統計で新たに記載されている。『平山省斎と明治の神道』130によると、教務庁出張所が上京区平野宮本町32番地ノ1にあったという。 |
24 | 大成教 | (不詳) | (廃絶?) | 京都府 | 『宗教制度調査資料』7に掲載の1922年(大正11年)の統計で新たに記載されている。 |
25 | 神習教 | 神習教本祠 | 桜神宮 | 1東京都千代田区神田小川町2(東京府東京市神田区小川町1) 2東京都千代田区神保町3(東京府東京市神田区今川小路2-5) 3東京都世田谷区新町3丁目21-3 | 1883年(明治16年)9月に祠宇創建(教派神道の形成284)。御嶽信仰の祭神もこのとき、王滝御嶽神社より分霊されたようである(『長野県史 近代史料編10』473ページ)。小泉墨城編 1905年(明治38年)『敷島美観』38コマに今川小路時代の写真あり |