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秋葉寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年6月20日 (月)
秋葉寺(しゅうようじ)は、静岡県浜松市天竜区春野町領家(遠江国山香郡)の秋葉山にある秋葉信仰の曹洞宗寺院。本尊は聖観音菩薩。秋葉神社上社が近くにある。可睡斎の士峰宋山(1543-1635)が中興して以来、可睡斎の末寺となった。現在は8合目の標高836mにある。山号は大登山。
組織
住職
- 「秋葉寺世代一覧」[1]:24世から52世まで。
- 『秋葉山三尺坊大権現』に歴代記載?
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
義法証仁 | 真言宗僧侶か。 | |||
24 | 茂林光播 | ?-1582? | 徳川家康に仕える。1569年(永禄12年)8月7日、徳川家康から別当に任命。1582年(天正10年)7月20日死去。あるいは永禄年間死去とも。禅僧といわれることもあるが不詳。加納坊。叶坊。光幡。 | |
25 | 通峰光達 | 茂林光幡の弟子。 | ||
26 | 山翁昌春 | ?-1622 | 修験者とみられる。大峰山に入峰した。1622年(元和8年)7月17日死去。 | |
27 | 蘆月厳秀 | 1625年(寛永2年)別当在職。可睡斎に接近して幕府の裁定を得て反対派を粛清し、二諦坊の影響力を排除した。廬月厳秀 | ||
28 | 士峰宋山 | 1543-1635 | 可睡斎13世。秋葉寺中興開山とする。名目的なもので赴任していないとみられる。 | |
29 | 道中雲達 | ?-1633 | 可睡斎15世。名目的なもので赴任していないとみられる。道仲雲達。 | |
30 | 黄梅厳宿 | ?-1626? | 道中雲達の弟子か。3世。1600年(慶長5年)蓮福寺に釈迦如来を寄進。鶯梅巌宥か。1626年(寛永3年)2月死去か。 | |
31 | 竹鶯雲松 | |||
32 | 顕岑禅応 | |||
33 | 無禅了能 | |||
34 | 任宗了運 | 享保年間。7世とも。中典任宗か。 | ||
35 | 定水瑟禅 | |||
36 | 逆外了順 | ?-1751 | 1751年(宝暦1年)9月25日死去。 | |
37 | 泰山任超 | ?-1777 | 1752年(宝暦2年)には在職。1777年(安永6年)11月死去。内山真龍と交流。 | |
38 | 義孝任梁 | ?-1798 | 泰山任超の弟子。宝鏡寺宮徳巌理豊女王から「秋葉大権現」額を下賜。1778年(安永7年)勅願所。紫衣勅許。1798年(寛政10年)死去。11世とも。 | |
39 | 泰栄逸堂 | 文化年間。12世とも。 | ||
40 | 悟山鳳吟 | |||
41 | 任柱泰礎 | |||
42 | 祖山観光 | |||
43 | 祥鳳舜瑞 | ?-1872 | 1872年(明治5年)8月17日死去。その後、神仏分離で廃絶となる。 | |
44 | 鼎山則一 | 1805-1892 | 白鳥鼎三。法持寺28世。1805年(文化2年)生。白鳥洞外に得度。大潜に嗣法。六師観音寺、福寿院、黄龍寺に住す。1859年(安政6年)法持寺住職。1869年(明治2年)永平寺西堂。永平寺執事。1873年(明治6年)大教院巡教師。権中教正。秋葉寺を再建し中興とする。1892年(明治25年)11月28日死去。86歳。則一鼎三、即一鼎三とも。(名古屋市史[2]) | |
45 | 慧超泰禅 | ?-1908 | 1885?-? | 牧泰禅。1890年(明治23年)舘山寺を中興。 |
46 | 帰雲春倪 | 1843-1926 | 鴻春倪。鴻雪爪の養子。1843年(天保14年)生。大教院教会新聞、明教新誌の発行に関わる。教導職中講義。1885年(明治18年)北海道に北漸寺を創建。1926年(昭和1年)死去。著書『三条要論』。秋葉寺と名付けたか。 | |
47 | 幽智湛玄 | 千葉湛玄。 | ||
48 | 禅誓策心 | |||
49 | 大忍元龍 | 筑紫元龍。 | ||
50 | 大安豊洲 | 鎌田豊洲。 | ||
51 | 弘道為範 | |||
52 | 大透賢龍 | 藍谷賢龍。 | ||
53 | 藍谷俊雄 | |||
藍谷博文 |