ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
金沢・専光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年6月24日 (月)
専光寺(せんこうじ)は、石川県金沢市本町(加賀国石川郡)にある浄土真宗寺院。真宗大谷派金沢別院の創建の母体となる。東本願寺院家だった。真宗大谷派。吉藤専光寺。大額坊(大糠坊)。山号は吉藤山、元は護方山。 (参考:同名寺院専光寺)
目次 |
歴史
- 1320年:覚如の弟子の志念が石川郡大糠(金沢市大額付近)に創建したという。
- 1437年:この頃には石川郡大野庄吉藤(金沢市専光寺町)にあったとみられる。存如下付の「三帖和讃」に「賀州吉藤専光寺常住也」とある[1]。伝承では文明年間に慶心の時代に富樫氏の命で移転させられたともいう。
- 1471年:蓮如から親鸞絵伝を下付される
- 1482年:大野庄領主の京都臨川寺から「棰之代」として1石と「扇子持参」300文が下付された記録があり、領主から無視できない存在になっていたとみられる。松岡寺に対して、専光寺が臨川寺側の使者を務めたこともある。
- 1488年:加賀一向一揆。磯部聖安寺、木越光徳寺、鳥越弘願寺と共に「四ケ寺ノ大坊主」と呼ばれた。
- 1493年:本願寺から志念絵像を下付される。
- 1531年:享禄の錯乱で、加賀三寺側に付き敗北。
- 1580年:鶴来に移転
- 1596年:金沢城下町に移転
- 1601年:教如絵像を下付
- 1602年2月:<東本願寺分立。
- 1610年:東本願寺末の加賀・越中・能登の三国の触頭となる(のち所轄範囲は縮小)。この頃金沢別院が仮に設置される。
- 元和年間:現在地に移転
- 明治:鶴来掛所を本山に献納し、鶴来別院となる
- 明治24年2月12日:加賀国准連枝となる[2]
- 昭和2年3月:本堂改築
- 昭和8年4月16日:卯辰山近くに東山霊所(墓地)を開設。納骨堂で落慶入仏。
組織
歴代住職
- 1志念(1333-1399)<>:康忠。本願寺覚如の弟子。鎌倉幕府7代将軍の惟康親王の王子という。1320年に寺を開いたというが年代が合わない。1399年(応永6年)死去。67歳。
- 2志栄(?-1408)<>:平康頼の子孫。1408年(応永15年)死去。
- 3栄慶(1388-1414)<>:1414年(応永21年)死去。27歳。
- 4慶志(1398-1469)<>:康教。1469年(文明1年)死去。72歳。
- 5慶心(1443-1479)<>:慶寂。1479年(文明11年)死去。37歳。
- 6玄慶(1450-1512)<>:康盛。1512年(永正9年)死去。63歳。
- 7慶長(?-1554)<>:康淳。1554年(天文23年)死去。
- 8慶栄(1518-1611)<>:康元。興行寺5世蓮恵の子。1611年(慶長16年)死去。94歳。
- 9慶信(?-1624)<>:康宣。1624年(寛永1年)死去。
- 10教授(?-1657)<>:康照。室は東本願寺教如五女の宣妙。1657年(明暦3年)死去。
- 11宣慶(1629-1667)<>:康授。1667年(寛文7年)死去。39歳。
- 12常慶(1657-1718)<>:康秀。1718年(享保3年)死去。62歳。
- 一慶()<>:知応。宮内卿。除歴
- 13真慶(?-1733)<>:教秀。1733年(享保18年)死去。
- 14真授(1721-1742)<>:栄澄。1742年(寛保2年)死去。22歳。
- 15真理(1718-1783)<>:性憲。1783年(天明3年)死去。66歳。
- 16乗覚(1753-1789)<>:康憲。真宗寺超芸の子。1789年(寛政1年)死去。37歳。
- 17乗航(1767-1800)<>:康寛。1800年(寛政12年)死去。34歳。
- 18達授(1788-1817)<>:康盛。1817年(文化14年)死去。30歳。
- 19達成(1806-1879)<>:吉藤朗顕。1879年(明治12年)死去。74歳。
- 20厳界(1870-1928)<>:吉藤勝遵。妻は現如の娘。1928年(昭和3年)死去。59歳。
- 21彰念(1908-1941)<>:連枝。吉藤瑩美。大谷勝信の次男。1941年(昭和16年)死去。34歳。
- 22吉藤暢祥()<>:明治24年2月12日:加賀国准連枝となる[3]。美祥。
- 吉藤雅人()<>:
- 『真宗年表』
- 『金沢専光寺文書』[4]