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大御輪寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年2月1日 (木)
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- | '''大御輪寺'''(だいごりんじ)は、大和国にあった[[真言]][[律宗]]寺院。[[大神神社]] | + | '''大御輪寺'''(だいごりんじ)は、大和国にあった[[真言]][[律宗]]寺院。[[大神神社]]の神宮寺。[[西大寺]]末だった。[[真言律宗西大寺流]]開祖[[叡尊]]が中興。[[三輪流神道]]の拠点の一つとなった。[[関東祈祷所]]。神仏分離で廃絶となり、本尊[[十一面観音]]は[[聖林寺]]に遷された。堂宇は[[大直禰子神社]]本殿となった。仏堂でありながら従来から神社のような構造も有していた特異な建築だったらしい。'''大神寺'''、'''三輪寺'''とも称した。[[大神神社関連旧跡]]も参照。 |
==歴史== | ==歴史== | ||
- | + | 三所寺と呼ばれた大御輪寺、[[大和・平等寺|平等寺]]、[[浄願寺]]の三つの神宮寺の一つであり、最も古い。元は大神寺と称した。『延暦僧録』の文室浄三の伝記に、浄三(693-770)は[[鑑真]]から菩薩戒を受けた大神寺で六門経を講じたとあるので、没年の770年(宝亀1年)以前には大神寺が成立していたことが分かる。『今昔物語集』には「三輪寺」とあり、大神高市麻呂の住居を後に寺としたものという。1987年(昭和62年)、旧若宮本地堂である大直禰子神社本殿の解体修復と発掘調査が行われ、奈良時代の建築を修理を経ながら使われていたことが分かった。 | |
- | 平安時代には[[天台宗]][[ | + | 平安時代には[[天台宗]]多武峰[[大和・妙楽寺|妙楽寺]]の末寺だった。 |
- | 鎌倉時代の1285年(弘安8年) | + | 鎌倉時代の1285年(弘安8年)西大寺中興の叡尊が訪れ、人々に菩薩戒を授けた。これが縁で律寺として復興。西大寺末となった。同年に若宮本地堂を改築したという記録があり、修復時の調査でも鎌倉期の改造が確認されている。 |
中世以降は三輪神道の拠点として重視された。鎌倉時代末には別当として平等寺のほうが実権を握った。 | 中世以降は三輪神道の拠点として重視された。鎌倉時代末には別当として平等寺のほうが実権を握った。 | ||
大御輪寺の本尊の変遷ははっきりしない。古くは大宮本地堂と若宮本地堂の2堂あったことと、江戸時代後半には若宮本地堂(現在の大直禰子神社本殿)のみとなっていることとの関係もよく分からない。 | 大御輪寺の本尊の変遷ははっきりしない。古くは大宮本地堂と若宮本地堂の2堂あったことと、江戸時代後半には若宮本地堂(現在の大直禰子神社本殿)のみとなっていることとの関係もよく分からない。 | ||
- | + | 当初の本尊は[[薬師如来]]だったと推測されている。本社([[大物主命]])の本地仏だったと思われる。現在、[[正暦寺]]本堂に大御輪寺から移されたという伝日光菩薩・伝月光菩薩の像があり、薬師三尊として祀られていた可能性がある。大宮本地堂の跡地は不明で廃絶時期も不明である。『大和志』には「大宮若宮両本地仏堂二宇」があったとある。 | |
- | 若宮本地堂(大宮本地堂の廃絶後は大御輪寺の本堂)の本尊は1688年(元禄1年) | + | 若宮本地堂(大宮本地堂の廃絶後は大御輪寺の本堂)の本尊は1688年(元禄1年)には現在聖林寺にある十一面観音となっていた。叡尊の復興のときに本尊としたともいう。ただし十一面観音は若宮の本地仏ではなく、若宮の母の[[玉依姫命]]の本地仏ともいう。若宮本地堂の本尊なら若宮の本地仏である[[文殊菩薩]]を本尊とすべきようにも思える。十一面観音は本尊ではなく「相殿に祀っていた」という記述もある。 |
- | 1688年(元禄1年) | + | 1688年(元禄1年)の時点では十一面観音を中尊に、向かって右に[[不動明王]]、向かって左に[[地蔵菩薩]]を祀っていた。 |
- | 1772年(安永1年) | + | 1772年(安永1年)に大御輪寺を訪れた[[本居宣長]]は『菅笠日記』で本尊の十一面観音の向かって右脇に若宮を祀っていたと記す。若宮の神像である。1808年(文化5年)に訪れた伊能忠敬も三尊と若宮を記す。十一面観音についてはやはり「活玉依姫命」の本地仏とする。 |
- | また1583年(天正11年) | + | また1583年(天正11年)2月21日に「若宮」を訪れた[[本願寺]][[顕如]]は本堂の中に入ると「神前の構え」だったと記している。 |
- | + | 中世の絵図によると[[三輪山]]の三峰の本地仏が不動、薬師、地蔵とされており、不動と地蔵は若宮ではなく本宮に配すほうがふさわしいように考えられる。十一面観音の宝龕の後板には薬師如来の群像が描かれていたといい、大宮本地堂が廃れた後に薬師如来の宝龕と不動・地蔵を若宮本地堂に移したのかもしれない。 | |
江戸時代の朱印地は大神神社125石のうち35石だった。 | 江戸時代の朱印地は大神神社125石のうち35石だった。 | ||
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三輪流神道の後継者は聖林寺住職の大心しかいなかったため、本尊十一面観音、御前立の十一面観音、地蔵菩薩は聖林寺に託された。 | 三輪流神道の後継者は聖林寺住職の大心しかいなかったため、本尊十一面観音、御前立の十一面観音、地蔵菩薩は聖林寺に託された。 | ||
ひとまず桜井市橋本にあった大心の実家に移された。1868年(明治1年)のことか。 | ひとまず桜井市橋本にあった大心の実家に移された。1868年(明治1年)のことか。 | ||
- | 1873年(明治6年) | + | 1873年(明治6年)7月、聖林寺に移された。地蔵菩薩は同年、聖林寺から[[法隆寺北室院]]に移された。大御輪寺も聖林寺も北室院も同じ律宗系の寺院である。御前立ちは戦後、神戸金剛福寺の本尊となった。 |
- | + | 不動明王は聖林寺に移されず、[[玄賓庵]]に移された。 | |
- | + | [[長岳寺]]にも大御輪寺から移されたという増長天と[[多聞天]]がある。 | |
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==組織== | ==組織== | ||
===歴代住職=== | ===歴代住職=== | ||
- | * | + | *[[叡尊]](1201-1290):[[西大寺]]中興。 |
*信空(1231-1316):西大寺2世 | *信空(1231-1316):西大寺2世 | ||
- | * | + | *光淳(1463-1538):西大寺38世。 |
- | * | + | *賢瑜(1585-1668)<>:西大寺49世。高順房。 |
*高遵 | *高遵 | ||
*真盛()<-1773->:三輪流神道を復興。平等寺大智院範雄より伝授された。 | *真盛()<-1773->:三輪流神道を復興。平等寺大智院範雄より伝授された。 | ||
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*「三輪山大御輪寺記」:1688年(元禄1年)。月譚道登著。 | *「三輪山大御輪寺記」:1688年(元禄1年)。月譚道登著。 | ||
*「三輪山神宮大御輪寺略縁起」:幕末 | *「三輪山神宮大御輪寺略縁起」:幕末 | ||
+ | *『大三輪町史』「大御輪寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/3015319/1/272] | ||
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2024年2月1日 (木) 時点における最新版
大御輪寺(だいごりんじ)は、大和国にあった真言律宗寺院。大神神社の神宮寺。西大寺末だった。真言律宗西大寺流開祖叡尊が中興。三輪流神道の拠点の一つとなった。関東祈祷所。神仏分離で廃絶となり、本尊十一面観音は聖林寺に遷された。堂宇は大直禰子神社本殿となった。仏堂でありながら従来から神社のような構造も有していた特異な建築だったらしい。大神寺、三輪寺とも称した。大神神社関連旧跡も参照。
目次 |
歴史
三所寺と呼ばれた大御輪寺、平等寺、浄願寺の三つの神宮寺の一つであり、最も古い。元は大神寺と称した。『延暦僧録』の文室浄三の伝記に、浄三(693-770)は鑑真から菩薩戒を受けた大神寺で六門経を講じたとあるので、没年の770年(宝亀1年)以前には大神寺が成立していたことが分かる。『今昔物語集』には「三輪寺」とあり、大神高市麻呂の住居を後に寺としたものという。1987年(昭和62年)、旧若宮本地堂である大直禰子神社本殿の解体修復と発掘調査が行われ、奈良時代の建築を修理を経ながら使われていたことが分かった。 平安時代には天台宗多武峰妙楽寺の末寺だった。
鎌倉時代の1285年(弘安8年)西大寺中興の叡尊が訪れ、人々に菩薩戒を授けた。これが縁で律寺として復興。西大寺末となった。同年に若宮本地堂を改築したという記録があり、修復時の調査でも鎌倉期の改造が確認されている。 中世以降は三輪神道の拠点として重視された。鎌倉時代末には別当として平等寺のほうが実権を握った。
大御輪寺の本尊の変遷ははっきりしない。古くは大宮本地堂と若宮本地堂の2堂あったことと、江戸時代後半には若宮本地堂(現在の大直禰子神社本殿)のみとなっていることとの関係もよく分からない。 当初の本尊は薬師如来だったと推測されている。本社(大物主命)の本地仏だったと思われる。現在、正暦寺本堂に大御輪寺から移されたという伝日光菩薩・伝月光菩薩の像があり、薬師三尊として祀られていた可能性がある。大宮本地堂の跡地は不明で廃絶時期も不明である。『大和志』には「大宮若宮両本地仏堂二宇」があったとある。 若宮本地堂(大宮本地堂の廃絶後は大御輪寺の本堂)の本尊は1688年(元禄1年)には現在聖林寺にある十一面観音となっていた。叡尊の復興のときに本尊としたともいう。ただし十一面観音は若宮の本地仏ではなく、若宮の母の玉依姫命の本地仏ともいう。若宮本地堂の本尊なら若宮の本地仏である文殊菩薩を本尊とすべきようにも思える。十一面観音は本尊ではなく「相殿に祀っていた」という記述もある。 1688年(元禄1年)の時点では十一面観音を中尊に、向かって右に不動明王、向かって左に地蔵菩薩を祀っていた。 1772年(安永1年)に大御輪寺を訪れた本居宣長は『菅笠日記』で本尊の十一面観音の向かって右脇に若宮を祀っていたと記す。若宮の神像である。1808年(文化5年)に訪れた伊能忠敬も三尊と若宮を記す。十一面観音についてはやはり「活玉依姫命」の本地仏とする。 また1583年(天正11年)2月21日に「若宮」を訪れた本願寺顕如は本堂の中に入ると「神前の構え」だったと記している。
中世の絵図によると三輪山の三峰の本地仏が不動、薬師、地蔵とされており、不動と地蔵は若宮ではなく本宮に配すほうがふさわしいように考えられる。十一面観音の宝龕の後板には薬師如来の群像が描かれていたといい、大宮本地堂が廃れた後に薬師如来の宝龕と不動・地蔵を若宮本地堂に移したのかもしれない。
江戸時代の朱印地は大神神社125石のうち35石だった。
明治の神仏分離で大御輪寺は廃寺となる。1868年(明治1年)5月、仏像の避難と建造物の売却を決め、本堂だけが残った。 1873年(明治6年)8月には工事が完了したという。本堂は大直禰子神社本殿とされた。 三輪流神道の後継者は聖林寺住職の大心しかいなかったため、本尊十一面観音、御前立の十一面観音、地蔵菩薩は聖林寺に託された。 ひとまず桜井市橋本にあった大心の実家に移された。1868年(明治1年)のことか。 1873年(明治6年)7月、聖林寺に移された。地蔵菩薩は同年、聖林寺から法隆寺北室院に移された。大御輪寺も聖林寺も北室院も同じ律宗系の寺院である。御前立ちは戦後、神戸金剛福寺の本尊となった。 不動明王は聖林寺に移されず、玄賓庵に移された。 長岳寺にも大御輪寺から移されたという増長天と多聞天がある。
伽藍
- 大宮本地堂:跡地不詳。
- 若宮本地堂:現在の若宮神殿。
- 三重塔:
- 護摩堂:
- 蔵経堂:
- 伽藍神:
- 書院:桃山時代。安倍文殊院の庫裏として現存。
組織
歴代住職
- 叡尊(1201-1290):西大寺中興。
- 信空(1231-1316):西大寺2世
- 光淳(1463-1538):西大寺38世。
- 賢瑜(1585-1668)<>:西大寺49世。高順房。
- 高遵
- 真盛()<-1773->:三輪流神道を復興。平等寺大智院範雄より伝授された。
- 等玄真昶(?-1856)<>:神鳳寺20世。弟子に聖林寺の大心。
- 廓道
- 大昶(-1896)<>:最後の住職。丈玄房。還俗して神先応田田と名乗る。1896年(明治29年)8月死去。「子孫の訓示」として大御輪寺の廃絶の経緯を残した。
(大神神社史料に一覧?)
資料
- 「三輪大明神縁起」:1318年(文保2年)か。叡尊仮託。
- 「三輪山大御輪寺記」:1688年(元禄1年)。月譚道登著。
- 「三輪山神宮大御輪寺略縁起」:幕末
- 『大三輪町史』「大御輪寺」[1]