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洞春寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年8月20日 (土)
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- | '''洞春寺''' | + | [[File:洞春寺_(3).jpg|thumb|500px|洞春寺本堂]] |
+ | '''洞春寺'''(とうしゅんじ)は、山口県山口市水の上町にある[[臨済宗]]寺院。'''[[豊栄神社|毛利元就]]'''の菩提寺。[[臨済宗建仁寺派]]。本尊は[[観音信仰|十一面観音]]である。安芸、広島、萩、山口と遷った。[[十刹]]。[[毛利家祭祀|山口藩(萩藩)毛利家]]における祖霊祭祀の中心であった。山号は正宗山。 | ||
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | 1573年(天正1年) | + | [[File:萩城跡・洞春寺跡-02.jpg|thumb|500px|萩城跡の洞春寺跡]] |
+ | [[File:萩城跡・模型・洞春寺・仰徳神社・明倫センター003.jpg|thumb|500px|萩城模型(萩明倫学舎展示)の洞春寺(左)と仰徳神社(中央)と天守閣(左手前)]] | ||
+ | 1573年(天正1年)、毛利輝元が毛利元就の菩提寺として'''嘯岳鼎虎'''を招いて吉田郡山城に創建。以来、毛利家配下の筆頭寺院として厚遇された。その後、毛利家の移転に伴い、広島、山口、萩を転々とし、明治初年に現在地に移転した。 | ||
- | + | 開山の嘯岳鼎虎は幻住派の重鎮で、洞春寺に迎えられる以前に既に幻住派の拠点の高源寺住職を3度務めていた。朝鮮や明にも渡海し、大内氏の外交に携わっていたとみられる。毛利系小早川家ゆかりの竹原妙法寺(現在の西方寺)の住職を務めていたのをきっかけに毛利家と関係ができたという。外交・政治手腕を持ち、1561年(永禄4年)には高橋鑑種を大友家家臣から毛利家に寝返させるのに活躍した。1571年(元亀2年)に毛利元就が亡くなるとその葬儀の導師を勤めた。現在、吉田郡山城には洞春寺跡のほか、嘯岳鼎虎の墓や、[[毛利家吉田郡山城跡墓地]](毛利元就、毛利隆元、歴代城主の墓)、[[常栄寺]]跡、毛利元就火葬所がある。 | |
- | + | 広島移転の年代は明確でない。しばらく新旧併存してやがて広島に一本化されたという。 | |
+ | 広島城時代には現在の広瀬神社の位置にあったという。 | ||
- | + | 1576年(天正4年)、毛利輝元は四至を定めた。 | |
- | + | 1587年(天正15年)8月12日、足利義昭によって[[諸山]]に列格され、21日に[[五山十刹|十刹]]に昇格した。毛利輝元は毛利家中で洞春寺を首位とし、常栄寺を次位とすることを通達した。1597年にも再度通達している。 | |
- | + | 1603年(慶長8年)、毛利家の山口入城に伴い、山口に移転。1606年(慶長11年)、毛利家が萩へ移転するとそれに従った。さらに1863年(文久3年)に毛利家が山口に藩庁を移すと、1869年(明治2年)、山口に移転。最初は旧大通院の伽藍を接収して移転。開山の別号にちなんで'''万年寺'''と改称した。改称は毛利家が菩提寺を廃止したことに伴ったものではないだろうか。1869年(明治2年)萩妙玖寺を合併。 | |
+ | 1871年(明治4年)、旧[[常栄寺]]の現在地に移転した(常栄寺は[[妙寿寺]]の地に移転して、妙寿寺は廃絶となった)。1899年(明治32年)、再び洞春寺と称した。 | ||
+ | |||
+ | ===毛利家祖霊の祭祀=== | ||
+ | *1571年(元亀2年)6月14日:毛利元就死去。葬儀の導師を嘯岳鼎虎が勤めた。 | ||
+ | *1573年(天正1年):洞春寺創建。 | ||
+ | *1585年:(石見長安寺に毛利元就木像造立) | ||
+ | *1603年(慶長8年):洞春寺、山口移転。[[香積寺]]に毛利元就の位牌を奉安した。 | ||
+ | *1606年(慶長11年):洞春寺、萩に移転。 | ||
+ | *1608年(慶長13年):伽藍竣工。 | ||
+ | *1620年:毛利元就50回忌? | ||
+ | *1670年:毛利元就100回忌? | ||
+ | *1684年(貞享1年):[[徳川家]]歴代の「天下御位牌」を祀る。 | ||
+ | *1684年(貞享1年):石見長安寺([[石見・豊栄神社]])の毛利元就木像を萩洞春寺に奉遷(防長寺社由来)。 | ||
+ | *1662年(寛文2年):毎年3月14日から16日まで法華千部会を始める。 | ||
+ | *1720年:毛利元就150回忌 | ||
+ | *1723年(享保8年):法華千部会を三百部会に縮小。 | ||
+ | *1741年(寛保1年):「掛御位牌」を藩命で改正。2幅とし、一幅には大江音人から毛利家歴代の正統([[平城天皇]]や[[阿保親王]]などは除かれた)、もう一幅には毛利元就から毛利綱広までの連枝を記した。 | ||
+ | *1770年3月7日:洞春寺本堂裏に[[顕西殿]]を建立し、石見から将来した毛利元就木像を祀る。 | ||
+ | *1770年6月7日〜14日:毛利元就200回忌 | ||
+ | *1841年(天保12年):掛御位牌を新調。阿保親王など記入。 | ||
+ | *1818年(文政1年)9月17日:藩庁、毛利元就250回忌を洞春寺で実施することを通達。 | ||
+ | *1819年(文政2年):客殿屋根葺き替えの際に位牌を御書院に仮遷座。 | ||
+ | *1820年(文政3年):毛利元就250回忌。 | ||
+ | *1850年(嘉永3年)6月1日:大洪水で寺の裏山が崩れ、洞春寺宗廟(顕西殿?)が倒壊した。 | ||
+ | *1863年(文久3年)5月6日:藩庁、霊社の神主を[[長門・椿八幡宮]]へ、洞春寺・[[天樹院]]・[[妙玖寺]]にある位牌・木像を[[大照院]]に奉遷を命じる。攘夷決行に備えての避難。6月6日に遷座した。 | ||
+ | *1864年(元治1年)3月1日:藩庁、例祭(法華千部会か)執行のため、大照院から位牌を洞春寺に戻すことを命じる。記録はないがこの時、戻されたとみられる。 | ||
+ | *1869年(明治2年)2月:([[明治天皇]]、毛利元就に「[[豊栄神社]]」の神号を下賜) | ||
+ | *1869年(明治2年)7月5日:水害で裏山が崩壊。毛利元就木像を布施清介が運び出して救出したという。 | ||
+ | *1869年(明治2年)7月18日:藩庁、洞春寺(当時の名称は万年寺)に山口移転と、顕西殿の毛利元就木像の遷座を命じた。この頃、妙玖寺を合併し、妙玖寺殿などの位牌を受け継いだとみられる。 | ||
+ | *1869年(明治2年)10月13日:洞春寺、山口の[[大観寺]]跡地に仮に移転。位牌や木像も同時に奉遷されたと思われる。 | ||
+ | *1869年(明治2年)10月:藩庁、従来の寺料を改め、位牌料150石、寺料100石とした。 | ||
+ | *1870年(明治3年)1月:藩庁、掛御位牌の従来の施餓鬼をやめ、例年1月に簡単な供養を行うように達す。1月14日を供養の日とする。 | ||
+ | *1870年(明治3年)2月:祖先祭祀の神祭改変にともない、洞春寺を廃絶する意向だったが洞春寺は存続を訴えた。 | ||
+ | *1870年(明治3年)3月18日:藩庁、祖先祭祀の仏祭を廃止し全て神祭に改めることを達する。位牌料150石から100石に削減。 | ||
+ | *1870年(明治3年)5月6日:藩庁、毛利元就以前の正統男子の位牌木像の霊揚げの供養を行い、位牌は洞春寺へ、木像は宝庫(豊栄神社の?)へ納めるように達した。 | ||
+ | *1870年(明治3年)6月:藩庁、毛利元就位牌を霊揚げ後、すぐに焼却するように達する。 | ||
+ | *1870年:毛利元就300回忌? | ||
+ | *1870年(明治3年)7月:藩庁、施餓鬼料を廃止し、位牌料内で施餓鬼を行うのように達す。 | ||
+ | *1870年(明治3年)8月:[[准円寺]]の清光院位牌を洞春寺に合一するように指示。 | ||
+ | *1870年(明治3年)10月:藩庁、毛利隆元、毛利輝元、毛利秀就の霊祭も仏祭をやめ神祭に改め、位牌は霊揚げして洞春寺へ納めるに命じた。[[高野山安養院]]の毛利元就の位牌や[[大徳寺黄梅院]]の位牌も同様に洞春寺に納めるように命じられた。 | ||
+ | *1871年(明治4年)1月25日:藩内の各寺の位牌を残らず「元常栄寺御位牌殿」に移すように命じた。 | ||
+ | *1871年(明治4年)6月16日:洞春寺で位牌の霊揚げが簡単に行われた。 | ||
+ | *1871年(明治4年)6月18日:位牌殿(現在の本堂)の普請が完成し、洞春寺、大観寺跡地から現在地に移転。 | ||
+ | *7月28日:位牌料37石5斗に削減。 | ||
+ | *9月14日:位牌殿で位牌安置供養を兼ねて法華三百部会を執行。 | ||
+ | *1873年(明治6年)4月:毛利家の東京移住にともない、東京の毛利家邸で祖霊を祀るため([[毛利本家祖霊社]])、改めて仏祭停止を禁止し、22日に県内の位牌の霊揚げ供養を命じる。 | ||
+ | *1873年(明治6年)4月21日:毛利家先祖の位牌の霊揚げ供養を行う。 | ||
+ | |||
+ | ===毛利家功臣の祭祀=== | ||
+ | 1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを洞春寺におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ[[毛利本家祖霊社]]内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦) | ||
本堂(十一面観音)および観音堂(聖観音)がある。山門は、もともとこの地にあった大内氏菩提寺の[[周防・国清寺]]創建当時(1404年(応永11年))のものだと言われている。 | 本堂(十一面観音)および観音堂(聖観音)がある。山門は、もともとこの地にあった大内氏菩提寺の[[周防・国清寺]]創建当時(1404年(応永11年))のものだと言われている。 | ||
井上馨の墓がある(東京の[[江戸・長谷寺|長谷寺]]にもある)。 | 井上馨の墓がある(東京の[[江戸・長谷寺|長谷寺]]にもある)。 | ||
- | <Gallery widths=" | + | ==寺地変遷== |
+ | *吉田郡山城時代:1573年(天正1年)創建。洞春寺跡が残る。 | ||
+ | *広島時代:年代不詳。現在の広瀬神社の位置にあったという。 | ||
+ | *第一次山口時代:1603年(慶長8年)山口移転。現在の浄瑠璃寺の地。 | ||
+ | *萩時代:1606年(慶長11年)萩に移転。1608年(慶長13年)竣工。 | ||
+ | *第二次山口時代:1869年(明治2年)山口の現在地(常栄寺跡)に移転。 | ||
+ | ==伽藍== | ||
+ | ===萩時代=== | ||
+ | *本堂: | ||
+ | *顕西殿:毛利元就木像。本堂の裏にあった。 | ||
+ | *霊牌殿:徳川家康ほか歴代将軍の位牌。本堂の横にあった。 | ||
+ | |||
+ | ===近現代=== | ||
+ | *本堂:文政年間に再建された常栄寺時代の本堂をそのまま洞春寺本堂として使用している。 | ||
+ | *観音堂:隣地にあった大通院の堂を1915年に移築した。 | ||
+ | *庫裡:本堂と同じく文政年間の再建。 | ||
+ | *山門:国清寺時代のものを常栄寺時代を経て洞春寺時代も引き続き用いている。 | ||
+ | |||
+ | ==組織== | ||
+ | |||
+ | ===歴代住職=== | ||
+ | *1嘯岳鼎虎(1528-1599)<1573-1597>:博多出身。1528年(享禄1年)生。当初は[[夢窓派]]に属し、嘯岳昌虎を名乗った。1548年(天文17年)対馬宗氏が作り出した日本国王の偽使に同行して朝鮮に渡海。また2回、明に渡ったと伝承され、1544年(天文13年)・弘治年間の遣明船が候補に挙げられている。[[幻住派]]の湖心碩鼎に師事して[[幻住派]]にも所属。その法嗣となり、鼎虎と改名した。1562年(永禄5年)6月頃、[[高源寺]]住職。1565年(永禄8年)5月、奉書により高源寺住職再任。1570年(元亀1年)8月29日、[[正親町天皇]]綸旨で高源寺住職に3度目の就任。[[小早川家]]ゆかりの竹原妙法寺の縁で毛利家と関係ができた。1571年(元亀2年)、毛利元就の葬儀の導師を勤めた。1573年(天正1年)洞春寺の開山に招かれた。1575年(天正3年)4月5日、[[足利義昭]]公帖で[[三聖寺]]住職。11月14日、同公帖で[[博多聖福寺]]住職。1576年(天正4年)3月10日、同公帖で[[建仁寺]]住職。1577年(天正5年)4月6日、同公帖で[[南禅寺]]住職。1592年(文禄1年)、[[豊臣秀吉]]朝鮮出兵で毛利家に属して従軍。1597年(慶長2年)隠居。1599年(慶長4年)10月5日、広島で死去。吉田郡山城に埋葬された。門下の済陰玄宏は[[臨川寺]]や[[天龍寺]]に入寺して幻住派が[[京都五山]]に本格的に進出するきっかけを作り、その末流は[[足利学校]]など関東地方にも広がった。 | ||
+ | *2充甫玄棟(?-1597)<1597-1597>:嘯岳鼎虎の法嗣。1582年(天正10年)2月14日、足利義昭公帖で[[景徳寺]]と[[臨川寺]]の住職に就任。1597年(慶長2年)9月1日、毛利輝元裁許状で洞春寺住職。のちの天桂碩祐が語ったところによると、就任年に死去したという。『防長寺社由来』の1587年(天正15年)5月17日死去は誤りとみられる。 | ||
+ | *3〓渓玄轍(1562-1612)<1600-?>:備中国出身。嘯岳鼎虎の法嗣。1599年(慶長4年)1月27日、[[安芸安国寺]]住職(公帖発給は1603年(慶長8年)9月11日)。2月28日、[[禅興寺]]住職(公帖発給は1604年(慶長9年)2月23日)。1600年(慶長5年)4月2日、毛利輝元安堵状で洞春寺住職。安国寺を継ぐ予定が充甫玄棟の急死により、嘯岳鼎虎の懇請で後継者となったという。1610年(慶長15年)2月16日、徳川秀忠公帖で建仁寺住職298世。同年4月5日、徳川秀忠公帖で南禅寺住職。紫福村の見性院に隠居。1612年(慶長17年)2月25日死去。〓渓景轍。(〓は「竹均」) | ||
+ | *4如天玄勲(?-1651)<1623-1651>:〓渓玄轍の法嗣。1622年(元和8年)3月5日、徳川秀忠公帖で景徳寺住職。同年5月10日に同公帖で聖福寺住職。1623年(元和9年)4月5日、毛利輝元安堵状で洞春寺住職。1651年(慶安4年)11月25日死去。 | ||
+ | *5義天玄瑞(?-1677)<1651?-1677>:如天玄勲の法嗣。1663年(寛文3年)5月14日、徳川家綱公帖で安国寺住職。6月14日、同公帖で[[真如寺]]住職。1667年(寛文7年)7月5日、徳川家綱公帖で建仁寺住職。1677年(延宝5年)死去。 | ||
+ | *6江峰碩尹(?-1730)<1677-1691>:義天玄瑞の法嗣。1677年(延宝5年)、奉書で洞春寺住職。1691年(元禄4年)隠居。1711年(正徳1年)建仁寺住職。1730年(享保15年)、建仁寺で死去。初名は江峰碩尹だっだが、上京後、江峰宗澄に改名したとみられる。 | ||
+ | *7天桂碩祐(?-1721)<1691-1720>:義天玄瑞の法嗣。1691年(元禄4年)、洞春寺住職を相続したが当時は上京中で実際に入寺したのは2年後という。1703年(元禄16年)8月12日、徳川綱吉公帖で安国寺住職。9月15日、同公帖で真如寺住職。1710年(宝永7年)12月17日、徳川家宣公帖で建仁寺住職。1720年(享保5年)隠居。1721年(享保6年)死去。 | ||
+ | *8愚渓碩賢(?-1735)<1720-1734>:天桂碩祐の法嗣。1720年(享保5年)相続。毛利元就150年遠忌を営む。1721年(享保6年)、建仁寺西堂か。同年10月14日、徳川吉宗公帖で安芸安国寺住職。同年12月5日、同公帖で真如寺住職。1734年(享保19年)死去。若年で死去したため建仁寺住職に就かなかった。 | ||
+ | *9永明碩孝(?-1769)<1734-1766>:愚渓碩賢の法嗣。1734年(享保19年)、相続。1739年(元文4年)1月20日、徳川吉宗公帖で安国寺住職。2月24日真如寺。1754年(宝暦4年)2月11日、徳川家重公帖で建仁寺330世。1766年(明和3年)隠居。1769年(明和6年)死去。 | ||
+ | *10仙巌玄覚(?-1792)<1766-1792>:永明碩孝の法嗣。1766年(明和3年)相続。1769年(明和6年)12月8日、徳川家治公帖で安国寺住職。翌年1月18日、同公帖で真如寺住職。1784年(天明4年)12月16日、徳川家治公帖で建仁寺住職。1792年(寛政4年)死去。 | ||
+ | *11越岸玄珠(?-1822)<?-1822>:入寺年月不明。1794年(寛政6年)6月26日、徳川家斉公帖で安国寺住職。7月5日、同公帖で真如寺住職。1811年(文化8年)12月20日、徳川家斉公帖で建仁寺住職。1822年(文政5年)死去。 | ||
+ | *12古渓禅誌(?-1823)<1822-1823>:1822年(文政5年)相続。既に高齢だった。1823年(文政6年)死去。 | ||
+ | *13洪川玄基(?-1867)<1823-1846>:1823年(文政6年)相続。1831年(天保2年)12月20日、徳川家斉公帖で安国寺住職。1832年(天保3年)1月12日、同公帖で真如寺住職。毛利家の財政改革のため、献納金の用意ができず建仁寺住職になるタイミングを逃したという。1846年(弘化3年)隠居。1867年(慶応3年)死去。 | ||
+ | *14泰邦玄〓(?-1885)<1846->:1846年(弘化3年)相続。1860年(万延1年)6月30日、徳川家茂公帖で安国寺住職。7月20日、同公帖で真如寺住職。1885年(明治18年)死去。(〓は「人廷」) | ||
+ | *15実宗恵参(?-1885)<>:1885年(明治18年)死去。 | ||
+ | *16玉翁真乗()<>: | ||
+ | *17徳巌玄寿()<>: | ||
+ | *18怡山至俊(?-1910)<>:1910年(明治43年)死去。 | ||
+ | *19棟雲道隆(1860-1927)<>:荒川道隆。1894年(明治27年)6月26日、建仁寺西堂から東堂に昇級。1895年(明治28年)改衣。1900年(明治33年)11月15日、管長公帖で建仁寺住職。1904年、日露戦争の戦災孤児らを保護するため山口育児院を創設。 | ||
+ | *20夾山泰祐(1886-1954)<1921->:中村泰祐。建仁寺417世。[[建仁寺派]]管長6代。1921年(大正10年)洞春寺住職。 | ||
+ | *21圭明泰巌(1933-1998)<>:高山泰巌。[[南禅僧堂]]師家。1998年(平成10年)死去。古清軒。 | ||
+ | *22日下元精()<>:1980年(昭和55年)花園大学卒。南禅僧堂師家。清光軒。 | ||
+ | *23深野宗泉()<2014->:和歌山県出身。1994年(平成6年)花園大学文学部仏教学科卒。南禅僧堂で高山泰巌、日下元精に師事。2014年(平成26年)洞春寺住職。 | ||
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File:洞春寺_(7).jpg| | File:洞春寺_(7).jpg| | ||
+ | file:洞春寺・山門.jpg| | ||
+ | File:萩城跡・洞春寺跡-01.jpg| | ||
+ | File:萩城跡・模型・松陰記念館.jpg|萩城模型(道の駅萩往還・松陰記念館展示) | ||
+ | File:萩城跡・模型・洞春寺・仰徳神社・明倫センター001.jpg|萩城模型(萩明倫学舎展示) | ||
+ | File:萩城跡・模型・洞春寺・仰徳神社・明倫センター002.jpg|萩城模型(萩明倫学舎展示) | ||
</Gallery> | </Gallery> | ||
+ | |||
+ | ==資料== | ||
+ | *「常栄寺差図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13905&s=1] | ||
+ | *「万年寺差図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13906&s=1] | ||
+ | *「万年寺庫裏地差図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13908&s=1] | ||
+ | *「万年寺御悩所寺作事所共地差図」[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/photo.php?t=2&id=13907&s=1] | ||
+ | |||
[[category:山口県]] | [[category:山口県]] |
2022年8月20日 (土) 時点における最新版
洞春寺(とうしゅんじ)は、山口県山口市水の上町にある臨済宗寺院。毛利元就の菩提寺。臨済宗建仁寺派。本尊は十一面観音である。安芸、広島、萩、山口と遷った。十刹。山口藩(萩藩)毛利家における祖霊祭祀の中心であった。山号は正宗山。
目次 |
歴史
1573年(天正1年)、毛利輝元が毛利元就の菩提寺として嘯岳鼎虎を招いて吉田郡山城に創建。以来、毛利家配下の筆頭寺院として厚遇された。その後、毛利家の移転に伴い、広島、山口、萩を転々とし、明治初年に現在地に移転した。
開山の嘯岳鼎虎は幻住派の重鎮で、洞春寺に迎えられる以前に既に幻住派の拠点の高源寺住職を3度務めていた。朝鮮や明にも渡海し、大内氏の外交に携わっていたとみられる。毛利系小早川家ゆかりの竹原妙法寺(現在の西方寺)の住職を務めていたのをきっかけに毛利家と関係ができたという。外交・政治手腕を持ち、1561年(永禄4年)には高橋鑑種を大友家家臣から毛利家に寝返させるのに活躍した。1571年(元亀2年)に毛利元就が亡くなるとその葬儀の導師を勤めた。現在、吉田郡山城には洞春寺跡のほか、嘯岳鼎虎の墓や、毛利家吉田郡山城跡墓地(毛利元就、毛利隆元、歴代城主の墓)、常栄寺跡、毛利元就火葬所がある。
広島移転の年代は明確でない。しばらく新旧併存してやがて広島に一本化されたという。 広島城時代には現在の広瀬神社の位置にあったという。
1576年(天正4年)、毛利輝元は四至を定めた。
1587年(天正15年)8月12日、足利義昭によって諸山に列格され、21日に十刹に昇格した。毛利輝元は毛利家中で洞春寺を首位とし、常栄寺を次位とすることを通達した。1597年にも再度通達している。
1603年(慶長8年)、毛利家の山口入城に伴い、山口に移転。1606年(慶長11年)、毛利家が萩へ移転するとそれに従った。さらに1863年(文久3年)に毛利家が山口に藩庁を移すと、1869年(明治2年)、山口に移転。最初は旧大通院の伽藍を接収して移転。開山の別号にちなんで万年寺と改称した。改称は毛利家が菩提寺を廃止したことに伴ったものではないだろうか。1869年(明治2年)萩妙玖寺を合併。 1871年(明治4年)、旧常栄寺の現在地に移転した(常栄寺は妙寿寺の地に移転して、妙寿寺は廃絶となった)。1899年(明治32年)、再び洞春寺と称した。
毛利家祖霊の祭祀
- 1571年(元亀2年)6月14日:毛利元就死去。葬儀の導師を嘯岳鼎虎が勤めた。
- 1573年(天正1年):洞春寺創建。
- 1585年:(石見長安寺に毛利元就木像造立)
- 1603年(慶長8年):洞春寺、山口移転。香積寺に毛利元就の位牌を奉安した。
- 1606年(慶長11年):洞春寺、萩に移転。
- 1608年(慶長13年):伽藍竣工。
- 1620年:毛利元就50回忌?
- 1670年:毛利元就100回忌?
- 1684年(貞享1年):徳川家歴代の「天下御位牌」を祀る。
- 1684年(貞享1年):石見長安寺(石見・豊栄神社)の毛利元就木像を萩洞春寺に奉遷(防長寺社由来)。
- 1662年(寛文2年):毎年3月14日から16日まで法華千部会を始める。
- 1720年:毛利元就150回忌
- 1723年(享保8年):法華千部会を三百部会に縮小。
- 1741年(寛保1年):「掛御位牌」を藩命で改正。2幅とし、一幅には大江音人から毛利家歴代の正統(平城天皇や阿保親王などは除かれた)、もう一幅には毛利元就から毛利綱広までの連枝を記した。
- 1770年3月7日:洞春寺本堂裏に顕西殿を建立し、石見から将来した毛利元就木像を祀る。
- 1770年6月7日〜14日:毛利元就200回忌
- 1841年(天保12年):掛御位牌を新調。阿保親王など記入。
- 1818年(文政1年)9月17日:藩庁、毛利元就250回忌を洞春寺で実施することを通達。
- 1819年(文政2年):客殿屋根葺き替えの際に位牌を御書院に仮遷座。
- 1820年(文政3年):毛利元就250回忌。
- 1850年(嘉永3年)6月1日:大洪水で寺の裏山が崩れ、洞春寺宗廟(顕西殿?)が倒壊した。
- 1863年(文久3年)5月6日:藩庁、霊社の神主を長門・椿八幡宮へ、洞春寺・天樹院・妙玖寺にある位牌・木像を大照院に奉遷を命じる。攘夷決行に備えての避難。6月6日に遷座した。
- 1864年(元治1年)3月1日:藩庁、例祭(法華千部会か)執行のため、大照院から位牌を洞春寺に戻すことを命じる。記録はないがこの時、戻されたとみられる。
- 1869年(明治2年)2月:(明治天皇、毛利元就に「豊栄神社」の神号を下賜)
- 1869年(明治2年)7月5日:水害で裏山が崩壊。毛利元就木像を布施清介が運び出して救出したという。
- 1869年(明治2年)7月18日:藩庁、洞春寺(当時の名称は万年寺)に山口移転と、顕西殿の毛利元就木像の遷座を命じた。この頃、妙玖寺を合併し、妙玖寺殿などの位牌を受け継いだとみられる。
- 1869年(明治2年)10月13日:洞春寺、山口の大観寺跡地に仮に移転。位牌や木像も同時に奉遷されたと思われる。
- 1869年(明治2年)10月:藩庁、従来の寺料を改め、位牌料150石、寺料100石とした。
- 1870年(明治3年)1月:藩庁、掛御位牌の従来の施餓鬼をやめ、例年1月に簡単な供養を行うように達す。1月14日を供養の日とする。
- 1870年(明治3年)2月:祖先祭祀の神祭改変にともない、洞春寺を廃絶する意向だったが洞春寺は存続を訴えた。
- 1870年(明治3年)3月18日:藩庁、祖先祭祀の仏祭を廃止し全て神祭に改めることを達する。位牌料150石から100石に削減。
- 1870年(明治3年)5月6日:藩庁、毛利元就以前の正統男子の位牌木像の霊揚げの供養を行い、位牌は洞春寺へ、木像は宝庫(豊栄神社の?)へ納めるように達した。
- 1870年(明治3年)6月:藩庁、毛利元就位牌を霊揚げ後、すぐに焼却するように達する。
- 1870年:毛利元就300回忌?
- 1870年(明治3年)7月:藩庁、施餓鬼料を廃止し、位牌料内で施餓鬼を行うのように達す。
- 1870年(明治3年)8月:准円寺の清光院位牌を洞春寺に合一するように指示。
- 1870年(明治3年)10月:藩庁、毛利隆元、毛利輝元、毛利秀就の霊祭も仏祭をやめ神祭に改め、位牌は霊揚げして洞春寺へ納めるに命じた。高野山安養院の毛利元就の位牌や大徳寺黄梅院の位牌も同様に洞春寺に納めるように命じられた。
- 1871年(明治4年)1月25日:藩内の各寺の位牌を残らず「元常栄寺御位牌殿」に移すように命じた。
- 1871年(明治4年)6月16日:洞春寺で位牌の霊揚げが簡単に行われた。
- 1871年(明治4年)6月18日:位牌殿(現在の本堂)の普請が完成し、洞春寺、大観寺跡地から現在地に移転。
- 7月28日:位牌料37石5斗に削減。
- 9月14日:位牌殿で位牌安置供養を兼ねて法華三百部会を執行。
- 1873年(明治6年)4月:毛利家の東京移住にともない、東京の毛利家邸で祖霊を祀るため(毛利本家祖霊社)、改めて仏祭停止を禁止し、22日に県内の位牌の霊揚げ供養を命じる。
- 1873年(明治6年)4月21日:毛利家先祖の位牌の霊揚げ供養を行う。
毛利家功臣の祭祀
1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを洞春寺におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ毛利本家祖霊社内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦)
本堂(十一面観音)および観音堂(聖観音)がある。山門は、もともとこの地にあった大内氏菩提寺の周防・国清寺創建当時(1404年(応永11年))のものだと言われている。 井上馨の墓がある(東京の長谷寺にもある)。
寺地変遷
- 吉田郡山城時代:1573年(天正1年)創建。洞春寺跡が残る。
- 広島時代:年代不詳。現在の広瀬神社の位置にあったという。
- 第一次山口時代:1603年(慶長8年)山口移転。現在の浄瑠璃寺の地。
- 萩時代:1606年(慶長11年)萩に移転。1608年(慶長13年)竣工。
- 第二次山口時代:1869年(明治2年)山口の現在地(常栄寺跡)に移転。
伽藍
萩時代
- 本堂:
- 顕西殿:毛利元就木像。本堂の裏にあった。
- 霊牌殿:徳川家康ほか歴代将軍の位牌。本堂の横にあった。
近現代
- 本堂:文政年間に再建された常栄寺時代の本堂をそのまま洞春寺本堂として使用している。
- 観音堂:隣地にあった大通院の堂を1915年に移築した。
- 庫裡:本堂と同じく文政年間の再建。
- 山門:国清寺時代のものを常栄寺時代を経て洞春寺時代も引き続き用いている。
組織
歴代住職
- 1嘯岳鼎虎(1528-1599)<1573-1597>:博多出身。1528年(享禄1年)生。当初は夢窓派に属し、嘯岳昌虎を名乗った。1548年(天文17年)対馬宗氏が作り出した日本国王の偽使に同行して朝鮮に渡海。また2回、明に渡ったと伝承され、1544年(天文13年)・弘治年間の遣明船が候補に挙げられている。幻住派の湖心碩鼎に師事して幻住派にも所属。その法嗣となり、鼎虎と改名した。1562年(永禄5年)6月頃、高源寺住職。1565年(永禄8年)5月、奉書により高源寺住職再任。1570年(元亀1年)8月29日、正親町天皇綸旨で高源寺住職に3度目の就任。小早川家ゆかりの竹原妙法寺の縁で毛利家と関係ができた。1571年(元亀2年)、毛利元就の葬儀の導師を勤めた。1573年(天正1年)洞春寺の開山に招かれた。1575年(天正3年)4月5日、足利義昭公帖で三聖寺住職。11月14日、同公帖で博多聖福寺住職。1576年(天正4年)3月10日、同公帖で建仁寺住職。1577年(天正5年)4月6日、同公帖で南禅寺住職。1592年(文禄1年)、豊臣秀吉朝鮮出兵で毛利家に属して従軍。1597年(慶長2年)隠居。1599年(慶長4年)10月5日、広島で死去。吉田郡山城に埋葬された。門下の済陰玄宏は臨川寺や天龍寺に入寺して幻住派が京都五山に本格的に進出するきっかけを作り、その末流は足利学校など関東地方にも広がった。
- 2充甫玄棟(?-1597)<1597-1597>:嘯岳鼎虎の法嗣。1582年(天正10年)2月14日、足利義昭公帖で景徳寺と臨川寺の住職に就任。1597年(慶長2年)9月1日、毛利輝元裁許状で洞春寺住職。のちの天桂碩祐が語ったところによると、就任年に死去したという。『防長寺社由来』の1587年(天正15年)5月17日死去は誤りとみられる。
- 3〓渓玄轍(1562-1612)<1600-?>:備中国出身。嘯岳鼎虎の法嗣。1599年(慶長4年)1月27日、安芸安国寺住職(公帖発給は1603年(慶長8年)9月11日)。2月28日、禅興寺住職(公帖発給は1604年(慶長9年)2月23日)。1600年(慶長5年)4月2日、毛利輝元安堵状で洞春寺住職。安国寺を継ぐ予定が充甫玄棟の急死により、嘯岳鼎虎の懇請で後継者となったという。1610年(慶長15年)2月16日、徳川秀忠公帖で建仁寺住職298世。同年4月5日、徳川秀忠公帖で南禅寺住職。紫福村の見性院に隠居。1612年(慶長17年)2月25日死去。〓渓景轍。(〓は「竹均」)
- 4如天玄勲(?-1651)<1623-1651>:〓渓玄轍の法嗣。1622年(元和8年)3月5日、徳川秀忠公帖で景徳寺住職。同年5月10日に同公帖で聖福寺住職。1623年(元和9年)4月5日、毛利輝元安堵状で洞春寺住職。1651年(慶安4年)11月25日死去。
- 5義天玄瑞(?-1677)<1651?-1677>:如天玄勲の法嗣。1663年(寛文3年)5月14日、徳川家綱公帖で安国寺住職。6月14日、同公帖で真如寺住職。1667年(寛文7年)7月5日、徳川家綱公帖で建仁寺住職。1677年(延宝5年)死去。
- 6江峰碩尹(?-1730)<1677-1691>:義天玄瑞の法嗣。1677年(延宝5年)、奉書で洞春寺住職。1691年(元禄4年)隠居。1711年(正徳1年)建仁寺住職。1730年(享保15年)、建仁寺で死去。初名は江峰碩尹だっだが、上京後、江峰宗澄に改名したとみられる。
- 7天桂碩祐(?-1721)<1691-1720>:義天玄瑞の法嗣。1691年(元禄4年)、洞春寺住職を相続したが当時は上京中で実際に入寺したのは2年後という。1703年(元禄16年)8月12日、徳川綱吉公帖で安国寺住職。9月15日、同公帖で真如寺住職。1710年(宝永7年)12月17日、徳川家宣公帖で建仁寺住職。1720年(享保5年)隠居。1721年(享保6年)死去。
- 8愚渓碩賢(?-1735)<1720-1734>:天桂碩祐の法嗣。1720年(享保5年)相続。毛利元就150年遠忌を営む。1721年(享保6年)、建仁寺西堂か。同年10月14日、徳川吉宗公帖で安芸安国寺住職。同年12月5日、同公帖で真如寺住職。1734年(享保19年)死去。若年で死去したため建仁寺住職に就かなかった。
- 9永明碩孝(?-1769)<1734-1766>:愚渓碩賢の法嗣。1734年(享保19年)、相続。1739年(元文4年)1月20日、徳川吉宗公帖で安国寺住職。2月24日真如寺。1754年(宝暦4年)2月11日、徳川家重公帖で建仁寺330世。1766年(明和3年)隠居。1769年(明和6年)死去。
- 10仙巌玄覚(?-1792)<1766-1792>:永明碩孝の法嗣。1766年(明和3年)相続。1769年(明和6年)12月8日、徳川家治公帖で安国寺住職。翌年1月18日、同公帖で真如寺住職。1784年(天明4年)12月16日、徳川家治公帖で建仁寺住職。1792年(寛政4年)死去。
- 11越岸玄珠(?-1822)<?-1822>:入寺年月不明。1794年(寛政6年)6月26日、徳川家斉公帖で安国寺住職。7月5日、同公帖で真如寺住職。1811年(文化8年)12月20日、徳川家斉公帖で建仁寺住職。1822年(文政5年)死去。
- 12古渓禅誌(?-1823)<1822-1823>:1822年(文政5年)相続。既に高齢だった。1823年(文政6年)死去。
- 13洪川玄基(?-1867)<1823-1846>:1823年(文政6年)相続。1831年(天保2年)12月20日、徳川家斉公帖で安国寺住職。1832年(天保3年)1月12日、同公帖で真如寺住職。毛利家の財政改革のため、献納金の用意ができず建仁寺住職になるタイミングを逃したという。1846年(弘化3年)隠居。1867年(慶応3年)死去。
- 14泰邦玄〓(?-1885)<1846->:1846年(弘化3年)相続。1860年(万延1年)6月30日、徳川家茂公帖で安国寺住職。7月20日、同公帖で真如寺住職。1885年(明治18年)死去。(〓は「人廷」)
- 15実宗恵参(?-1885)<>:1885年(明治18年)死去。
- 16玉翁真乗()<>:
- 17徳巌玄寿()<>:
- 18怡山至俊(?-1910)<>:1910年(明治43年)死去。
- 19棟雲道隆(1860-1927)<>:荒川道隆。1894年(明治27年)6月26日、建仁寺西堂から東堂に昇級。1895年(明治28年)改衣。1900年(明治33年)11月15日、管長公帖で建仁寺住職。1904年、日露戦争の戦災孤児らを保護するため山口育児院を創設。
- 20夾山泰祐(1886-1954)<1921->:中村泰祐。建仁寺417世。建仁寺派管長6代。1921年(大正10年)洞春寺住職。
- 21圭明泰巌(1933-1998)<>:高山泰巌。南禅僧堂師家。1998年(平成10年)死去。古清軒。
- 22日下元精()<>:1980年(昭和55年)花園大学卒。南禅僧堂師家。清光軒。
- 23深野宗泉()<2014->:和歌山県出身。1994年(平成6年)花園大学文学部仏教学科卒。南禅僧堂で高山泰巌、日下元精に師事。2014年(平成26年)洞春寺住職。