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当麻寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年3月19日 (月)
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- | '''当麻寺''' | + | '''当麻寺'''(たいまでら)は、奈良県葛城市にある[[浄土教]]・[[南都仏教]]の寺院。[[葛城山]]の二上山の東麓に位置する。大和国葛下郡。現在は[[当麻曼荼羅]]が本尊だが、元は[[弥勒如来]]を本尊としていたという。[[中将姫]]の伝説で知られる。元は当麻氏の氏寺だったとみられている。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。[[当麻寺中之坊|中之坊]]などの[[高野山真言宗]]の寺院と[[当麻寺奥院|奥院]]などの[[浄土宗知恩院派]]の寺院により、護持されている。'''禅林寺'''、'''万法蔵院'''ともいう。山号は二上山。 |
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
===創建=== | ===創建=== | ||
- | + | 創建ははっきりしないが、推古20年(612)、[[用明天皇]]皇子の麻呂子皇子(生没年不詳、当麻皇子)が兄の[[聖徳太子]]の教えを受けて二上山の西麓の河内国山田に創建したという。現在、[[科長神社]]のそばに当麻寺旧地と伝える寺院跡がある。 | |
- | 当麻国見が現在地に移転。土地は[[役小角]] | + | |
+ | 当麻国見が現在地に移転。土地は[[役小角]]が寄進したと伝える。天武9年に着工し、天武13年に竣工したという(天武10年ともいう)。当初の伽藍は通常の古代寺院と同じく南面し、竹内街道に面していた。日本[[三論宗]]初伝の恵灌(生没年不詳)を導師として落慶法要を行ったという。以後、三論宗寺院となる。当初の本尊は[[弥勒如来]]。この弥勒像は現存し、菩薩形ではなく如来形を取る。弥勒像の中には役小角が祀った[[孔雀明王]]を納めたと伝える。麻呂子皇子の子孫の当麻氏が氏寺とした。 | ||
===古代=== | ===古代=== | ||
- | + | 天平宝字7年(763)、[[中将姫]]が蓮の糸で観無量寿経変相図、いわゆる[[当麻曼荼羅]]を織り上げたという。 | |
中院(現在の[[当麻寺中之坊]])を創建した実雅は中将姫の師僧とされる。 | 中院(現在の[[当麻寺中之坊]])を創建した実雅は中将姫の師僧とされる。 | ||
弘仁14年(824)、[[空海]]が参籠したとの伝承もある。中院の実弁が空海に帰依して当麻寺は[[真言宗]]になったという。 | 弘仁14年(824)、[[空海]]が参籠したとの伝承もある。中院の実弁が空海に帰依して当麻寺は[[真言宗]]になったという。 | ||
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- | 平安時代後期には大和国の他の寺院と同様に[[興福寺]]末となり、[[一乗院門跡]] | + | 平安時代後期には大和国の他の寺院と同様に[[興福寺]]末となり、[[一乗院門跡]]の支配下に置かれた。 |
- | + | 全国的な[[浄土教]]の興隆と共に中将姫と当麻曼荼羅の伝承が広まる。現在も行われている聖衆来迎練供養会式は寛弘2年(1005)に当麻郷出身の天台宗僧[[源信]]が始めたという。既に比叡山で始めていた行事を故郷に導入した。 | |
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- | + | 応保元年(1161)頃、曼荼羅堂が大改造され現在の形となり、寺院の中心となった。南北を中心軸とする古代伽藍を残しつつ、西方浄土を拝む形となる曼荼羅堂が中心に境内が再編成。他に類を見ない伽藍配置を形成した。治承4年(1180)の[[平氏]]の南都焼討と同時に当麻寺も襲撃され、一部の伽藍を失った。金堂は元暦元年(1184)に再建。講堂は遅れて嘉元元年(1303)に再建されて現存する。鎌倉時代初期の建保5年(1227)、当麻曼荼羅の写本(建保本、現存せず)が製作されている。仁治3年(1242)、曼荼羅堂の厨子が改造され、懸垂方式から板貼り方式に改められた。 | |
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+ | 多くの[[浄土教]]の祖師が参詣したが、もっとも重要なのは浄土宗[[西山派]]派祖の[[証空]]の活動である。寛喜元年(1229)に参詣し、曼荼羅に感激した証空は門下で曼陀羅相承の伝授を始めた。証空は当麻曼荼羅の縮小写本を[[善光寺]]など各地に納め、当麻曼荼羅を称揚して全国的な普及に一役買った。[[時宗]]開祖[[一遍]]は弘安9年(1286)に参詣。[[融通念仏宗]]中興の[[法明良尊]](1279-1349)も参詣して名帳を納めたという。 | ||
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+ | 応安3年(1370)、[[知恩院]]12世誓阿が塔頭往生院を創建。誓阿は知恩院の本尊御影像と『法然上人絵伝』を移したと伝えるが不詳。のち「知恩院の奥之院」を名乗って[[当麻寺奥院]]と称した。以後、当麻寺は真言宗と浄土宗の両属となった。文亀2年(1502)、建保本曼荼羅から新たに文亀本が書写された。享禄4年(1531)、寺僧の願で『当麻寺縁起絵巻』を製作。また当麻国行を祖とする当麻派(たえまは)という刀工の一派が当麻寺に属した。 | ||
===近世=== | ===近世=== | ||
- | 300石を領した。 | + | 300石を領した。 |
延宝5年(1677)、厨子から根本曼荼羅が剥がされ、断片化したものが別の絹地に貼られ、掛幅装とされた。 | 延宝5年(1677)、厨子から根本曼荼羅が剥がされ、断片化したものが別の絹地に貼られ、掛幅装とされた。 | ||
貞享2年(1685)、本尊写本が製作された(貞享本)。 | 貞享2年(1685)、本尊写本が製作された(貞享本)。 | ||
江戸時代中期に興福寺末を離れた(国史大辞典)。 | 江戸時代中期に興福寺末を離れた(国史大辞典)。 | ||
- | + | (『日本歴史地名大系』、『国史大辞典』、中之坊ウェブサイト、奥院ウェブサイトほか) | |
==伽藍== | ==伽藍== | ||
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*金堂:弥勒如来を祀る。当初の本堂。 | *金堂:弥勒如来を祀る。当初の本堂。 | ||
*講堂:阿弥陀如来を祀る。 | *講堂:阿弥陀如来を祀る。 | ||
- | * | + | *東塔:三重塔。大日如来を祀る。 |
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- | * | + | *薬師堂: |
- | * | + | *大師堂:空海を祀る御影堂。 |
- | * | + | *糸繰堂: |
*仁王門:東大門 | *仁王門:東大門 | ||
- | * | + | *娑婆堂:来迎会の時は本堂から娑婆堂まで仮設の橋が架けられる。 |
*[[当麻山口神社]]:元は境内にあったか(当麻寺古図)。 | *[[当麻山口神社]]:元は境内にあったか(当麻寺古図)。 | ||
- | * | + | *菅原神社:仁王門の門前にある。 |
+ | *影向石:役小角が修法した石。[[四天王]]が飛来し、[[一言主神]]や龍神が現れたという。 | ||
==塔頭== | ==塔頭== | ||
- | *[[当麻寺中之坊|中之坊]] | + | *[[当麻寺中之坊|中之坊]]:真言宗。剃髪堂。稲荷社。龍王社(二上山雌岳から遷座という)。足跡石。 |
*松室院: | *松室院: | ||
*不動院: | *不動院: | ||
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*竹之坊: | *竹之坊: | ||
- | *[[当麻寺奥院|奥院]] | + | *[[当麻寺奥院|奥院]]:浄土宗。本堂御影堂の本尊は[[法然]]。阿弥陀堂と並ぶ。[[法然上人二十五霊場]]第9番札所。[[西山国師遺跡霊場]]第14番札所。 |
*護念院: | *護念院: | ||
*念仏院: | *念仏院: | ||
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*『元亨釈書』 | *『元亨釈書』 | ||
*『当麻寺縁起』(『上宮太子拾遺記』引用) | *『当麻寺縁起』(『上宮太子拾遺記』引用) | ||
+ | *『当麻寺流記』 | ||
*証空『当麻曼荼羅註記』 | *証空『当麻曼荼羅註記』 | ||
*証空『当麻曼荼羅供式』 | *証空『当麻曼荼羅供式』 |
2018年3月19日 (月) 時点における最新版
当麻寺(たいまでら)は、奈良県葛城市にある浄土教・南都仏教の寺院。葛城山の二上山の東麓に位置する。大和国葛下郡。現在は当麻曼荼羅が本尊だが、元は弥勒如来を本尊としていたという。中将姫の伝説で知られる。元は当麻氏の氏寺だったとみられている。聖徳太子建立四十六寺の一つ。中之坊などの高野山真言宗の寺院と奥院などの浄土宗知恩院派の寺院により、護持されている。禅林寺、万法蔵院ともいう。山号は二上山。
目次 |
歴史
創建
創建ははっきりしないが、推古20年(612)、用明天皇皇子の麻呂子皇子(生没年不詳、当麻皇子)が兄の聖徳太子の教えを受けて二上山の西麓の河内国山田に創建したという。現在、科長神社のそばに当麻寺旧地と伝える寺院跡がある。
当麻国見が現在地に移転。土地は役小角が寄進したと伝える。天武9年に着工し、天武13年に竣工したという(天武10年ともいう)。当初の伽藍は通常の古代寺院と同じく南面し、竹内街道に面していた。日本三論宗初伝の恵灌(生没年不詳)を導師として落慶法要を行ったという。以後、三論宗寺院となる。当初の本尊は弥勒如来。この弥勒像は現存し、菩薩形ではなく如来形を取る。弥勒像の中には役小角が祀った孔雀明王を納めたと伝える。麻呂子皇子の子孫の当麻氏が氏寺とした。
古代
天平宝字7年(763)、中将姫が蓮の糸で観無量寿経変相図、いわゆる当麻曼荼羅を織り上げたという。 中院(現在の当麻寺中之坊)を創建した実雅は中将姫の師僧とされる。 弘仁14年(824)、空海が参籠したとの伝承もある。中院の実弁が空海に帰依して当麻寺は真言宗になったという。 東塔は奈良時代に建立。西塔は奈良時代末から平安時代初頭に建立され、曼荼羅堂の前身堂も西塔と同じ頃の建立とみられている。
中世
平安時代後期には大和国の他の寺院と同様に興福寺末となり、一乗院門跡の支配下に置かれた。 全国的な浄土教の興隆と共に中将姫と当麻曼荼羅の伝承が広まる。現在も行われている聖衆来迎練供養会式は寛弘2年(1005)に当麻郷出身の天台宗僧源信が始めたという。既に比叡山で始めていた行事を故郷に導入した。
応保元年(1161)頃、曼荼羅堂が大改造され現在の形となり、寺院の中心となった。南北を中心軸とする古代伽藍を残しつつ、西方浄土を拝む形となる曼荼羅堂が中心に境内が再編成。他に類を見ない伽藍配置を形成した。治承4年(1180)の平氏の南都焼討と同時に当麻寺も襲撃され、一部の伽藍を失った。金堂は元暦元年(1184)に再建。講堂は遅れて嘉元元年(1303)に再建されて現存する。鎌倉時代初期の建保5年(1227)、当麻曼荼羅の写本(建保本、現存せず)が製作されている。仁治3年(1242)、曼荼羅堂の厨子が改造され、懸垂方式から板貼り方式に改められた。
多くの浄土教の祖師が参詣したが、もっとも重要なのは浄土宗西山派派祖の証空の活動である。寛喜元年(1229)に参詣し、曼荼羅に感激した証空は門下で曼陀羅相承の伝授を始めた。証空は当麻曼荼羅の縮小写本を善光寺など各地に納め、当麻曼荼羅を称揚して全国的な普及に一役買った。時宗開祖一遍は弘安9年(1286)に参詣。融通念仏宗中興の法明良尊(1279-1349)も参詣して名帳を納めたという。
応安3年(1370)、知恩院12世誓阿が塔頭往生院を創建。誓阿は知恩院の本尊御影像と『法然上人絵伝』を移したと伝えるが不詳。のち「知恩院の奥之院」を名乗って当麻寺奥院と称した。以後、当麻寺は真言宗と浄土宗の両属となった。文亀2年(1502)、建保本曼荼羅から新たに文亀本が書写された。享禄4年(1531)、寺僧の願で『当麻寺縁起絵巻』を製作。また当麻国行を祖とする当麻派(たえまは)という刀工の一派が当麻寺に属した。
近世
300石を領した。 延宝5年(1677)、厨子から根本曼荼羅が剥がされ、断片化したものが別の絹地に貼られ、掛幅装とされた。 貞享2年(1685)、本尊写本が製作された(貞享本)。 江戸時代中期に興福寺末を離れた(国史大辞典)。
(『日本歴史地名大系』、『国史大辞典』、中之坊ウェブサイト、奥院ウェブサイトほか)
伽藍
- 本堂:曼荼羅堂。当麻曼荼羅を祀る。原図を根本曼荼羅と呼び現存するが、現在本堂にあるのは文亀本曼荼羅。裏側には根本曼荼羅を剥がした痕跡が残る「秘仏裏板曼荼羅」がある。当麻曼荼羅を納める厨子は天平時代の製作とみられている。堂内には織姫観音、中将姫、阿弥陀如来、空海、役小角などを祀る。本堂の下には5世紀頃の古墳が発見されている。
- 金堂:弥勒如来を祀る。当初の本堂。
- 講堂:阿弥陀如来を祀る。
- 東塔:三重塔。大日如来を祀る。
- 西塔:三重塔。大日如来を祀る。
- 薬師堂:
- 大師堂:空海を祀る御影堂。
- 糸繰堂:
- 仁王門:東大門
- 娑婆堂:来迎会の時は本堂から娑婆堂まで仮設の橋が架けられる。
- 当麻山口神社:元は境内にあったか(当麻寺古図)。
- 菅原神社:仁王門の門前にある。
- 影向石:役小角が修法した石。四天王が飛来し、一言主神や龍神が現れたという。
塔頭
- 中之坊:真言宗。剃髪堂。稲荷社。龍王社(二上山雌岳から遷座という)。足跡石。
- 松室院:
- 不動院:
- 西南院:
- 竹之坊:
資料
古典籍
- 『古今著聞集』:当麻曼荼羅の由来を載せる
- 『元亨釈書』
- 『当麻寺縁起』(『上宮太子拾遺記』引用)
- 『当麻寺流記』
- 証空『当麻曼荼羅註記』
- 証空『当麻曼荼羅供式』
- 証空『曼荼羅八講論義抄』
- 昌道『当麻曼荼羅科節』
- 証恵『当麻曼荼羅縁起』
- 顕意『当麻曼荼羅聞書』
- 『当麻曼荼羅縁起絵巻』
- 酉誉聖聡『当麻曼荼羅疏』
- 回隆『当麻曼陀羅注記略鈔』
- 義山『当麻曼陀羅述奨記』
- 大順『当麻曼荼羅捜玄疏』
- 当麻寺文書
芸能
- 能『当麻』(たえま):世阿弥作。
文献
- 東京美術学校編『当麻寺大鏡』
- 『大和古寺大観』2
- 『国宝当麻寺本堂修理工事報告書』
- 『国宝綴織当麻曼荼羅』
- 『大和当麻寺銘文集』