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喜光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年4月27日 (火)
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- | '''喜光寺'''(きこうじ)は、奈良県奈良市(旧[[平城京]]内)にある[[行基]]ゆかりの[[南都仏教]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[菅原氏]]の氏寺。[[行基建立四十九院]]の一つで、行基の没地という。行基が[[東大寺大仏殿]]を造営する前に試しに本堂を建てたとされる。中世には[[興福寺一乗院]]末となり、[[一乗院宮喜光寺墓地]]が隣接する。また[[叡尊]]が復興して[[西大寺]] | + | [[ファイル:3FB3188A-C0AF-443E-AFE8-37BC2D6DD66B.jpeg|thumb|300px|(国土地理院空中写真より)]] |
+ | '''喜光寺'''(きこうじ)は、奈良県奈良市(旧[[平城京]]内)にある[[行基]]ゆかりの[[南都仏教]]寺院。本尊は[[阿弥陀如来]]。[[菅原氏]]の氏寺。[[行基建立四十九院]]の一つで、行基の没地という。行基が[[東大寺大仏殿]]を造営する前に試しに本堂を建てたとされる。中世には[[興福寺一乗院]]末となり、[[一乗院宮喜光寺墓地]]が隣接する。また[[叡尊]]が復興して[[西大寺]]末にもなる。[[関東祈祷所]]。鎮守は、[[菅原天満宮]]。 | ||
現在は[[法相宗]][[南都仏教の本山寺院|別格本山]]。[[東大寺関連旧跡]]、[[興福寺関連旧跡]]、[[薬師寺関連旧跡]]。'''菅原寺'''、'''菅原喜光寺'''、'''歓喜光寺'''、'''歓喜光律寺'''。山号は清涼山。 | 現在は[[法相宗]][[南都仏教の本山寺院|別格本山]]。[[東大寺関連旧跡]]、[[興福寺関連旧跡]]、[[薬師寺関連旧跡]]。'''菅原寺'''、'''菅原喜光寺'''、'''歓喜光寺'''、'''歓喜光律寺'''。山号は清涼山。 | ||
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
===古代=== | ===古代=== | ||
- | + | 『菅原寺記文遺戒状』では715年、[[元明天皇]]の勅願で創建。 | |
『行基年譜』では721年に寺史乙丸が自宅を寄進し、翌年2月10日に起工したとある。 | 『行基年譜』では721年に寺史乙丸が自宅を寄進し、翌年2月10日に起工したとある。 | ||
- | + | 平城京右京三条三坊に当たる。寺史乙丸の出自は不明。 | |
元々は[[土師氏]]、[[菅原氏]]の氏寺で、周辺は一族の拠点となった地。[[菅原天満宮]]が近くにある。 | 元々は[[土師氏]]、[[菅原氏]]の氏寺で、周辺は一族の拠点となった地。[[菅原天満宮]]が近くにある。 | ||
+ | 菅原の地には喜光寺に先立ち、母を世話した[[佐紀堂]]があったという説もある。 | ||
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748年、[[聖武天皇]]が行幸した際、本尊の阿弥陀如来の眉間から光が放たれたため、天皇から歓喜光寺の名を与えられたという(『行基菩薩伝』)。 | 748年、[[聖武天皇]]が行幸した際、本尊の阿弥陀如来の眉間から光が放たれたため、天皇から歓喜光寺の名を与えられたという(『行基菩薩伝』)。 | ||
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1283年2月8日、叡尊が大般若経転読を行った(『興正菩薩御教誡聴聞集』)。 | 1283年2月8日、叡尊が大般若経転読を行った(『興正菩薩御教誡聴聞集』)。 | ||
+ | 一乗院の隠居寺となり、信昭、覚実、良昭、良兼が喜光寺に隠棲した。 | ||
+ | 隣接地には[[一乗院宮喜光寺墓地]]がある。 | ||
1499年12月18日、攻めてきた赤沢朝経の軍勢が法華寺や西大寺と共に焼失させた。 | 1499年12月18日、攻めてきた赤沢朝経の軍勢が法華寺や西大寺と共に焼失させた。 | ||
1544年頃に現在の金堂を再建。 | 1544年頃に現在の金堂を再建。 | ||
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1730年、住職寂照が行基像を造立した。この像は西大寺に移されて現存。 | 1730年、住職寂照が行基像を造立した。この像は西大寺に移されて現存。 | ||
===近現代=== | ===近現代=== | ||
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1897年、[[薬師寺]]末になる(日本大百科全書)。 | 1897年、[[薬師寺]]末になる(日本大百科全書)。 | ||
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==伽藍== | ==伽藍== | ||
- | * | + | *金堂:本堂。阿弥陀如来を祀る。建物は室町時代の1544年の再建。「試みの大仏殿」と呼ばれる。 |
- | * | + | *行基堂:2014年建立。行基像は旧竹林寺像(唐招提寺蔵)の複製。 |
- | * | + | *南大門:2010年再建。 |
+ | *弁天堂:宇賀神を祀る。 | ||
*[[菅原天満宮]]: | *[[菅原天満宮]]: | ||
*[[一乗院宮喜光寺墓地]]: | *[[一乗院宮喜光寺墓地]]: | ||
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*尊成(生没年不詳):復飾して菅田英直と名乗る。神職となり、神職を解任された後も喜光寺に住み続けたため混乱した。 | *尊成(生没年不詳):復飾して菅田英直と名乗る。神職となり、神職を解任された後も喜光寺に住み続けたため混乱した。 | ||
===近現代=== | ===近現代=== | ||
+ | *山田法胤 | ||
+ | ==資料== | ||
+ | ===典籍=== | ||
+ | *『菅原寺記文遺戒状』 | ||
+ | *『清涼山歓喜光律寺略縁起』:『清涼山歓喜光律寺略縁記』 | ||
+ | *『喜光寺之記』 | ||
+ | ===文献=== | ||
+ | *天沼俊一1923「喜光寺金堂」『歴史と地理』12-6 | ||
+ | *福山敏男1948「菅原寺」『奈良朝寺院の研究』高桐書院 | ||
+ | *1969『喜光寺旧境内緊急発掘調査報告書』 | ||
+ | *1981『伏見町史』伏見町史刊行委員会 | ||
+ | *細川涼一1981「中世大和における律宗寺院の復興―竹林寺・般若寺・喜光寺を中心に」『日本史研究』229:1987『中世の律宗寺院と民衆』吉川弘文館に再録。 | ||
+ | *大西貴夫2013「菅原寺及び周辺出土の瓦からみたその造営背景」『橿原考古学研究所論集』14 | ||
+ | *若井敏明2017「行基と菅原寺」『奈良学研究』19 | ||
+ | *山田法胤2007『喜光寺―行基終焉の古刹』柳原出版 | ||
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+ | *足立康「喜光寺の占地に就いて」1986『足立康著作集1』中央公論美術出版 | ||
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2021年4月27日 (火) 時点における最新版
喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市(旧平城京内)にある行基ゆかりの南都仏教寺院。本尊は阿弥陀如来。菅原氏の氏寺。行基建立四十九院の一つで、行基の没地という。行基が東大寺大仏殿を造営する前に試しに本堂を建てたとされる。中世には興福寺一乗院末となり、一乗院宮喜光寺墓地が隣接する。また叡尊が復興して西大寺末にもなる。関東祈祷所。鎮守は、菅原天満宮。 現在は法相宗別格本山。東大寺関連旧跡、興福寺関連旧跡、薬師寺関連旧跡。菅原寺、菅原喜光寺、歓喜光寺、歓喜光律寺。山号は清涼山。
目次 |
歴史
古代
『菅原寺記文遺戒状』では715年、元明天皇の勅願で創建。 『行基年譜』では721年に寺史乙丸が自宅を寄進し、翌年2月10日に起工したとある。 平城京右京三条三坊に当たる。寺史乙丸の出自は不明。 元々は土師氏、菅原氏の氏寺で、周辺は一族の拠点となった地。菅原天満宮が近くにある。 菅原の地には喜光寺に先立ち、母を世話した佐紀堂があったという説もある。
748年、聖武天皇が行幸した際、本尊の阿弥陀如来の眉間から光が放たれたため、天皇から歓喜光寺の名を与えられたという(『行基菩薩伝』)。
749年2月2日、行基は喜光寺東南院で死去した。
中世
1275年10月、一乗院門跡の信昭は西大寺叡尊に喜光寺復興を託した。律寺となり叡尊門下の性海が入った。 1283年2月8日、叡尊が大般若経転読を行った(『興正菩薩御教誡聴聞集』)。 一乗院の隠居寺となり、信昭、覚実、良昭、良兼が喜光寺に隠棲した。 隣接地には一乗院宮喜光寺墓地がある。
1499年12月18日、攻めてきた赤沢朝経の軍勢が法華寺や西大寺と共に焼失させた。 1544年頃に現在の金堂を再建。
江戸時代
1602年、徳川家康から朱印地30石を寄進された。 1730年、住職寂照が行基像を造立した。この像は西大寺に移されて現存。
近現代
明治元年、神仏分離令にあたり、住職が復飾神勤し、菅原天満宮の神職を名乗ったため地元を巻き込み混乱。 のち西大寺末を離れたらしい。(『近代の西大寺と真言律宗』)
1897年、薬師寺末になる(日本大百科全書)。 1969年、発掘調査で基壇跡や門跡が確認されたが、伽藍の全体像は分かっていない。
日本歴史地名大系、国史大辞典
伽藍
- 金堂:本堂。阿弥陀如来を祀る。建物は室町時代の1544年の再建。「試みの大仏殿」と呼ばれる。
- 行基堂:2014年建立。行基像は旧竹林寺像(唐招提寺蔵)の複製。
- 南大門:2010年再建。
- 弁天堂:宇賀神を祀る。
- 菅原天満宮:
- 一乗院宮喜光寺墓地:
- 東南院:行基の没地。
- 長岡院:近くにあったらしい。
組織
中世〜近世
喜光寺長老を称する
- 叡尊():中興。
- 性海(1235-?):覚証房。叡尊の側近で著作が多い。同じ叡尊門下の如性房性海とは別人
- 寂照(生没年不詳):江戸時代の住職。行基像を造立。、
- 尊成(生没年不詳):復飾して菅田英直と名乗る。神職となり、神職を解任された後も喜光寺に住み続けたため混乱した。
近現代
- 山田法胤
資料
典籍
- 『菅原寺記文遺戒状』
- 『清涼山歓喜光律寺略縁起』:『清涼山歓喜光律寺略縁記』
- 『喜光寺之記』
文献
- 天沼俊一1923「喜光寺金堂」『歴史と地理』12-6
- 福山敏男1948「菅原寺」『奈良朝寺院の研究』高桐書院
- 1969『喜光寺旧境内緊急発掘調査報告書』
- 1981『伏見町史』伏見町史刊行委員会
- 細川涼一1981「中世大和における律宗寺院の復興―竹林寺・般若寺・喜光寺を中心に」『日本史研究』229:1987『中世の律宗寺院と民衆』吉川弘文館に再録。
- 大西貴夫2013「菅原寺及び周辺出土の瓦からみたその造営背景」『橿原考古学研究所論集』14
- 若井敏明2017「行基と菅原寺」『奈良学研究』19
- 山田法胤2007『喜光寺―行基終焉の古刹』柳原出版
- 足立康「喜光寺の占地に就いて」1986『足立康著作集1』中央公論美術出版