ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
結城神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
(?歴史) |
(?境内) |
||
69行: | 69行: | ||
*本社 | *本社 | ||
*結城宗広墓 | *結城宗広墓 | ||
+ | *([[津八幡神社]]) | ||
+ | *([[北畠満雅戦没地]]) | ||
==組織== | ==組織== |
2022年5月13日 (金) 時点における版
結城神社 ゆうき じんじゃ | |
境内の墓碑には「結城神君之墓」とある | |
概要 | 南朝忠臣を奉斎する神社。 |
奉斎 | 結城宗広 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 三重県津市藤方2341 |
所在地(旧国郡) | |
所属(現在) | 神社本庁 |
格式など | 別格官幣社・別表神社 |
関連記事 | 南朝英雄奉斎神社 |
目次 |
概要
結城神社(ゆうき・じんじゃ)は、三重県津市にある、結城宗広を祀る霊社。宗広の墓所の伝承地は、境内にあるが、他に福島県白河市の関川寺、三重県伊勢市の伊勢・光明寺にもある。
歴史
- 1338年11月21日:結城宗広、死去。
- 1632年:藤堂高次が結城明神のそばに千歳山の八幡宮を遷座
- 1823年:藩儒津阪孝綽が建議。「結城神君之墓」建立。従来の六地蔵は埋めた。
- 1824年:藤堂高兌が社殿造営。
- 1874年:結城神社、無格社となる。[1]
- 1876年10月:川口常文参拝。祭祀再興を決意。[2]
- 1879年9月:村社に列格。[3]
- 1879年11月17日:結城宗広、親光、殉難諸士合祀[4]
- 1880年7月5日:明治天皇巡幸に際して幣帛料15円下賜。侍従萩昌吉を墓所に差遣。[5]
- 1880年9月6日:神社改造のため明治天皇から200円下賜。[6]
- 1882年1月24日:別格官幣社に列格[7]
- 1882年5月1日:告祭式に勅使として三重県令岩村定高差遣[8]
- 1882年6月30日:例祭日を5/1と定める[9]
- 1882年10月5日:序列を藤島神社の次位と定める[10]
- 1883年8月6日:従四位贈位。[11]
- 1883年9月10日:結城宗広贈位式。[12]
- 1884年4月25日:結城親光、殉難諸士配祀[13]
- 1884年5月20日:新社殿造営。[14]
- 1905年11月6日:贈位上奏
- 1905年11月12日:結城宗広に正三位贈位。結城親光に正四位贈位[15]
境内
組織
宮司
- 川口常文(1842-1892)<>:伊勢出身。1874年(明治7年)、本居宣長を祀る山室山神社創建に尽力。さらに1882年(明治15年)、結城神社官社昇格に尽くし宮司となった。
- 東吉貞()<?-1907>:1907/4/30退任
- 河村常造(1868-?)<1907-1909>:1907年(明治40年)5月1日結城神社宮司。1909年(明治42年)11月19日、石上神宮宮司。(略歴は石上神宮#組織を参照)
- 青木陳実(1854-1918)<>:1910年(明治43年)頃、結城神社宮司、1913年(大正2年)2月6日、平安神宮宮司。(略歴は宮崎神宮#組織を参照)
- 亀井真澄()<1913->:1913年3月4日、結城神社宮司。
- 伊藤真広()<-1917>:1917年(大正6年)5月26日まで結城神社宮司。岩木山神社宮司に転任。
- 藤井秀任(1857-1915)<1917->:岩木山神社宮司を経て1917年(大正6年)5月26日、結城神社宮司(伊藤真広と交代)。(略歴は霊山神社#組織を参照)
- 櫟本憲政()<>:1918年在職。
- 樋口忠延()<>:1923年9月27日まで。
- 石上清治()<>:竈山神社宮司を経て1923年9月27日結城神社宮司。(略歴は橿原神宮#組織を参照)
- 大西重俊()<>:1938年5月4日まで。
- 田島仲康()<>:1938年5月4日から
- 結城豊太郎()<1947->:
- 宮崎吉保()<>:
- 宮崎吉章(1941-2014)<>:
- (宮崎吉史)()<>:
画像
参考文献
- 土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』