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粉河寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | *[[ | + | *[[誓度院]]:1292年4月5日、心地覚心、誓度院上々規式を制定。以後、臨済宗化する。1429年、粉河寺と争論。畠山満家の裁定で那賀郡猪埴に移転。1430年、足利義教から大慈山誓度寺の名を認められた。[[無本覚心]]の旧跡。[[興国寺]]末の[[臨済宗]]寺院となる。 |
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2022年6月8日 (水) 時点における版
粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河にある、観音信仰の天台宗寺院。千手千眼観音を祀る。西国三十三所霊場第3番札所。修験道当山派の正大先達の一つ。粉河観音宗総本山。紀伊国那賀郡。山号は補陀落山、風猛山。 粉河観音。
歴史
770年(宝亀1年)、大伴孔子古という猟師が山中に庵を営んでいたところに童男の行者が訪れ、千手観音像を与えて姿を消した。孔子古は行者が観音の化身だと知り、殺生を止め寺院を建てたという。
縁起から大伴氏の氏寺だったとの見方も可能で、定額寺として国家の支援を受けた。当初はもっと北方の山中にあったとみられている。
観音霊場として都の貴族からも注目され、藤原教通や藤原頼通が参詣。西国三十三所観音霊場に組み込まれた。
平安時代末には浄土教の聖たちの住処となる一方、葛城修験の霊場としても発展。修験寺院の組織化を進める聖護院末となる。
中世には足利将軍家の庇護を受けた。寺内組織は衆徒方・行人方・方衆方に別れ、戦国時代に最盛期を迎え、550の堂舎があったという。しかし1585年(天正13年)の豊臣秀吉の根来攻めで焼失。
江戸時代には浅野幸長や和歌山徳川家の支援で復興。延暦寺横川末に転じた。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
伽藍
- 本堂
- 御位牌堂:歴代の紀伊徳川家当主を祀る。
- 六角堂
- 鐘楼
- 御供所
- 丈六堂
- 地蔵堂
- 茶所
- 籠所
- 中門
- 太子堂
- 不動堂
- 大門
- 念仏堂
- 粉河産土神社:地名を「六社壇」というように6社を合祀していた。その6社は丹生大明神・若一王子・伊勢大神宮・熊野権現・吉野三十八所・三百余社という。