ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
本願寺近松別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
(?歴史) |
|||
3行: | 3行: | ||
== 歴史 == | == 歴史 == | ||
- | 1469年(文明1年) | + | *1469年(文明1年)春:[[園城寺万徳院]]の斡旋で、[[蓮如]]が園城寺南別所に'''近松坊'''を創建。 |
- | + | *1471年(文明3年):蓮如は越前の[[吉崎御坊]]に移るが、親鸞御影は1480年(文明12年)の[[山科本願寺]]建立まで近松坊にあったと考えられている。 | |
- | 1480年(文明12年) | + | *1480年(文明12年)11月18日:「根本御絵像」を近松坊から山科本願寺に遷座した記録が『拾麈記』にある。ただし絵像とあり、現在の本願寺御影堂の像との関係は不詳。のちの記録では開山を蓮如長男の順如としており、山科本願寺建立後に順如が後を任されたらしい。 |
- | + | *順如の死後、蓮淳が入寺。有力な勢力である堅田[[本福寺]]門徒に睨みを利かせた。 | |
- | + | *1529年(享禄2年):蓮淳、河内の西証寺に入り、近江顕証寺の「等身の御影」を奉遷し、顕証寺と改称。近江の顕証寺は大阪府八尾市の[[八尾・顕証寺|久宝寺御坊顕証寺]]の兼帯所となった。 | |
- | 順如の死後、蓮淳が入寺。有力な勢力である堅田[[本福寺]]門徒に睨みを利かせた。 | + | *1532年(天文1年):焼失。 |
- | + | *1570年(元亀1年)9月:[[織田信長]]が下した朱印状によると[[近松寺]]内にあったことが分かる。 | |
- | 1532年(天文1年) | + | *1692年(元禄5年):この年の下寺開基帳によると常住住職はおらず、河内顕証寺が兼務。留守居として正福寺と光現寺があった。 |
- | 1570年(元亀1年) | + | *1902年(明治35年):別格別院となる。 |
- | 1692年(元禄5年) | + | |
- | 1902年(明治35年) | + | |
(日本歴史地名大系) | (日本歴史地名大系) | ||
[[Category:滋賀県]] | [[Category:滋賀県]] |
2022年9月3日 (土) 時点における版
本願寺近松別院(ほんがんじ・ちかまつ・べついん)は、滋賀県大津市札の辻にある浄土真宗寺院。本願寺遷座旧跡。西本願寺の別院。浄土真宗本願寺派。寺号は顕証寺。近松坊、近松顕証寺、大津顕証寺などと呼ばれた。山号は近松山。(参考:同名寺院顕証寺)
歴史
- 1469年(文明1年)春:園城寺万徳院の斡旋で、蓮如が園城寺南別所に近松坊を創建。
- 1471年(文明3年):蓮如は越前の吉崎御坊に移るが、親鸞御影は1480年(文明12年)の山科本願寺建立まで近松坊にあったと考えられている。
- 1480年(文明12年)11月18日:「根本御絵像」を近松坊から山科本願寺に遷座した記録が『拾麈記』にある。ただし絵像とあり、現在の本願寺御影堂の像との関係は不詳。のちの記録では開山を蓮如長男の順如としており、山科本願寺建立後に順如が後を任されたらしい。
- 順如の死後、蓮淳が入寺。有力な勢力である堅田本福寺門徒に睨みを利かせた。
- 1529年(享禄2年):蓮淳、河内の西証寺に入り、近江顕証寺の「等身の御影」を奉遷し、顕証寺と改称。近江の顕証寺は大阪府八尾市の久宝寺御坊顕証寺の兼帯所となった。
- 1532年(天文1年):焼失。
- 1570年(元亀1年)9月:織田信長が下した朱印状によると近松寺内にあったことが分かる。
- 1692年(元禄5年):この年の下寺開基帳によると常住住職はおらず、河内顕証寺が兼務。留守居として正福寺と光現寺があった。
- 1902年(明治35年):別格別院となる。
(日本歴史地名大系)