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喜光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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のち[[興福寺一乗院]]の隠居寺となり、隣接地には[[一乗院宮喜光寺墓地]]がある。 | のち[[興福寺一乗院]]の隠居寺となり、隣接地には[[一乗院宮喜光寺墓地]]がある。 | ||
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1499年12月18日、攻めてきた赤沢朝経の軍勢が法華寺や西大寺と共に焼失させた。 | 1499年12月18日、攻めてきた赤沢朝経の軍勢が法華寺や西大寺と共に焼失させた。 |
2018年6月28日 (木) 時点における版
喜光寺(きこうじ)は、奈良県奈良市(旧平城京内)にある行基ゆかりの南都仏教寺院。本尊は阿弥陀如来。菅原氏の氏寺。行基建立四十九院の一つで、行基の没地という。行基が東大寺大仏殿を造営する前に試しに本堂を建てたとされる。中世には興福寺一乗院末となり、一乗院宮喜光寺墓地が隣接する。また叡尊が復興して西大寺末にもなる。鎮守は、菅原天満宮。 現在は法相宗別格本山。東大寺関連旧跡、興福寺関連旧跡、薬師寺関連旧跡。菅原寺、菅原喜光寺、歓喜光寺、歓喜光律寺。山号は清涼山。
目次 |
歴史
古代
『菅原寺記文遺戒状』では715年、元明天皇の勅願で創建。 『行基年譜』では721年に寺史乙丸が自宅を寄進し、翌年2月10日に起工したとある。 平城京右京三条三坊に当たる。 元々は土師氏、菅原氏の氏寺で、周辺は一族の拠点となった地。菅原天満宮が近くにある。
748年、聖武天皇が行幸した際、本尊の阿弥陀如来の眉間から光が放たれたため、天皇から歓喜光寺の名を与えられたという。 749年2月2日、行基は喜光寺東南院で死去したという。
中世
のち興福寺一乗院の隠居寺となり、隣接地には一乗院宮喜光寺墓地がある。 1275年10月、一乗院門跡の信昭から叡尊に寄進され、復興された。叡尊門下の性海が入った。 1283年2月8日、叡尊が大般若経転読を行った(『興正菩薩御教誡聴聞集』)。
1499年12月18日、攻めてきた赤沢朝経の軍勢が法華寺や西大寺と共に焼失させた。
江戸時代
1602年、徳川家康から朱印地30石を寄進された。
近現代
明治元年、神仏分離令にあたり、住職が復飾神勤することを主張し、菅原天満宮の神職を名乗ったため地元を巻き込み混乱。 西大寺末を離れたらしい。
1897年、薬師寺末になる(日本大百科全書)。 1969年、発掘調査。
日本歴史地名大系、国史大辞典
伽藍
組織
中世〜近世
- 叡尊
- 性海
- 尊成:復飾して菅田英直と名乗る。神職となり、神職を解任された後も喜光寺に住み続けたため混乱した。