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粉河寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2022年6月12日 (日) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
粉河寺(こかわでら)は、和歌山県紀の川市粉河(紀伊国那賀郡)にある、観音信仰の天台宗寺院。本尊は千手千眼観世音菩薩。西国三十三所霊場第3番札所。大伴氏ゆかり。定額寺。葛城修験の霊場の一つ。修験道当山派の正大先達の一つ。粉河観音宗総本山。山号は補陀落山、風猛山。 粉河観音。
目次 |
歴史
- 770年(宝亀1年)、大伴孔子古という猟師が山中に庵を営んでいたところに童男の行者が訪れ、千手観音像を与えて姿を消した。孔子古は行者が観音の化身だと知り、殺生を止め寺院を建てたという。縁起から大伴氏の氏寺だったとの見方も可能で、定額寺として国家の支援を受けた。当初はもっと北方の山中にあったとみられている。
- 観音霊場として都の貴族からも注目され、藤原教通や藤原頼通が参詣。西国三十三所観音霊場に組み込まれた。
- 平安時代末には浄土教の聖たちの住処となる一方、葛城修験の霊場としても発展。修験寺院の組織化を進める聖護院末となる。
- 鎌倉時代初期:「粉河寺縁起絵巻」成立。
- 中世には足利将軍家の庇護を受けた。寺内組織は衆徒方・行人方・方衆方に別れ、戦国時代に最盛期を迎え、550の堂舎があったという。
- 1585年(天正13年):豊臣秀吉の根来攻めで焼失。
- 江戸時代には浅野幸長や和歌山徳川家の支援で復興。
- 1720年(享保5年):本堂再建。
- 延暦寺横川末に転じた。
- 1953年(昭和28年):天台宗延暦寺派より独立して粉河観音宗を設立(『日本の仏教全宗派付仏教界人名録』)。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
伽藍
- 本堂:現在の堂宇は1720年(享保5年)の再建。欅材。西国霊場の中では最大級の本堂。類例のみない複雑な構造をしており、一重屋根の礼堂と、二重屋根の正堂が結合した複合仏堂となっている。前庭とその下の広場には石組みの庭園がある。
- 千手堂:本尊は千手観音で、左右に歴代和歌山徳川家当主などの位牌を祀る。1760年(宝暦10年)の建立。宝形造。御位牌堂ともいう。
- 六角堂:西国霊場の三十三観音を合祀する。
- 鐘楼:
- 御供所:本尊は阿弥陀如来。1937年(昭和12年)再建。2014年(平成26年)再建。現在は信徒会館となっている。
- 丈六堂:
- 地蔵堂:
- 茶所:
- 籠所:
- 中門:本尊は四天王。三間一戸の楼門。欅材。1832年(天保3年)の再建。徳川治宝筆の扁額「風猛山」を掲げる。
- 太子堂:本尊は聖徳太子。
- 不動堂:本尊は不動明王。
- 大門:仁王門。三間一戸の楼門。和歌山県内では金剛峰寺、根来寺に次ぐ規模。1706年(宝永3年)の建立。欅材。
- 念仏堂:
- 童男堂:童男大士(童男行者)を祀る。童男大士は本尊の千手観音の化身。1679年(延宝7年)の造営。廟建築。正堂と礼堂から構成。正堂の内部には優れた障壁画や天井画がある。12月18日に年に一度の御開帳がある。
- 粉河産土神社:地名を「六社壇」というように6社を合祀していた。その6社は丹生大明神・若一王子・伊勢大神宮・熊野権現・吉野三十八所・三百余社という。
- 仏足石:1863年(文久3年)の作。
子院
- 御池坊:学頭。本坊。現存。
- 十禅院:律院。現存。十禅律院
- 福厳院:
- 松寿院:
- 修徳院:現存。
- 円解院:現存。
- 岡室坊:
- 徳寿院:
- 誓度院:1292年4月5日、心地覚心、誓度院上々規式を制定。以後、臨済宗化する。1429年、粉河寺と争論。畠山満家の裁定で那賀郡猪埴に移転。1430年、足利義教から大慈山誓度寺の名を認められた。無本覚心の旧跡。興国寺末の臨済宗寺院となる。
組織
歴代俗別当
大伴氏の世襲。大伴孔子古の子孫。室町時代に児玉家を称す。
- 大伴船主()<>:大伴孔子古の子。延暦年間、丹生明神を勧請する。
- 大伴益継()<>:大伴船主の子。俗別当を初めて称す。
- 大伴山雄()<>:大伴益継の子。貞観年間。
- 大伴貞崇()<>:仁和年間。以後、兵事を司る。
- 児玉忠貞()<>:1564年(永禄7年)児玉の家名を将軍足利義輝から賜る。
- 児玉忠成()<>:1131年(天承1年)、根来法師を打ち取る。
- 児玉忠益()<>:25石を賜る。
歴代別当
- 法俊()<>:初代別当。大伴孔子古の子孫。
- 恩賀()<>:法俊の子。貞観年間。
- 延養()<>:恩賀の子。仁和年間。
- 千巒()<>:延養の子。
- 湛誉()<>:千巒の子。承平年間。
- 永裕()<>:千巒の弟。
- 宝覚()<>:安元年間。
御池坊歴代住職
- 頼祐()<>:1423年(応永30年)多宝塔を建立。
- 頼舜()<>:海岸院長老?1482年(文明14年)中門法要。
- 覚翁()<>:天正年間、根来寺と合戦。戦死。
- 覚順()<>:根来寺との合戦で武勲。
- 祐海()<>:天正年間の兵火で焼失した後に仮堂を建てる。
- 天英()<>:中興。もとは臨済宗の僧侶で、東福寺で出家。のち改宗して御池坊の住職となる。天海の弟子となり、天英と改名。横川鶏足院で灌頂を受ける。園城寺末から延暦寺末となる。和歌山徳川家の帰依を得た。和歌山海岸院、日光山護光院、寛永寺清浄院などに住す。1649年(慶安2年)2月6日、横川一音院で死去。
- 円英()<>:一音院?
- 9盛眼()<>:1785年(天明5年)多武峰妙楽寺執行代を引退し、粉河寺御池坊住職となる。慈門院と号す。
- 14願海()<>:上野国高崎出身。1823年(文政6年)生。嘉永年間、比叡山常楽院住職。千日回峰行を満行して皇儲(明治天皇)のため参内加持を修す。1858年(安政5年)頃、御池坊住職か。1863年(文久3年)引退して葛川明王院に隠棲。1873年(明治6年)5月7日死去。
歴代住職
- 逸木盛照(1885-1971)<>:1885年(明治18年)生。1971年(昭和46年)死去。著書多数。
- 逸木盛修(1930-2018)<1970->:1930年(昭和5年)生。御池坊住職。1970年(昭和45年)管長就任。2018年(平成30年)5月8日死去。88歳。
- 逸木盛俊()<>:
資料
縁起絵巻の研究に偏っている。
- 粉河寺御池坊文書
- 粉河寺旧記:天英本
- 『紀伊続風土記』「粉河寺」[1]
- 逸木盛照1912『西国第三番粉河霊刹の栞』[2]
- 津田さち子1976『粉河寺―西国第三番霊場』:1997年再刊
- 1988『粉河町史』3巻
- 2003『粉河町史』1巻
- 「信貴山縁起と粉河寺縁起」『日本の美術298』
- みずまちようこ1992『童男さん―国宝粉河寺縁起絵巻』
- 松田文夫1997『訳注紀州粉河寺史料』
- 和歌山県文化センター2002『重要文化財粉河寺大門修理工事報告書(図版編)』
- 和歌山県文化センター2002『重要文化財粉河寺大門修理工事報告書(本文編)』
- 和歌山県文化センター2008『粉河寺遺跡』
- 和歌山県文化センター2011『粉河寺遺跡―長屋川通常砂防工事に伴う発掘調査報告書』
- 紀の川市教育委員会2015『紀の川市文化財調査報告書9紀の川市内遺跡発掘調査概要報告書』:粉河寺遺跡調査を含む
- 和歌山県立博物館2020『図録国宝粉河寺縁起と粉河寺の歴史―創建一二五〇年記念特別展』
- 和歌山県立博物館2021『粉河寺縁起―手で読む神秘の物語』
- 環境事業計画研究所2010『粉河寺庭園保存修理事業報告書』
- 亀井若菜 2015「語りだす絵巻―「粉河寺縁起絵巻」「信貴山縁起絵巻」「掃墨物語絵巻」論」
- 1987『日本の絵巻5粉河寺縁起』中央公論社