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修験道本山派の先達寺院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2024年1月16日 (火) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
聖護院を本山とする修験道本山派の先達を務めた寺院。修験道の本山寺院も参照。
寺格一覧
◾️ | 寺格 | 概要 |
---|---|---|
1 | 門跡 | 本山派修験を統括する聖護院は門跡寺院である。門跡とは、代々皇族や貴族が住職を務める寺院である(門跡寺院を参照)。本山派では門跡寺院に由来する格式である院家、院室を本山派寺院の格式の名称として用いている。 |
2 | 院家 | 院家とは、門跡寺院に附属する寺院のことである(院家を参照)。門跡の実務を担当した。また先達と同様に霞を持ち、その地域内の年行事、准年行事、同行を支配した。 |
3 | 院室 | 院室とは、院家と同じく門跡寺院に付属する寺院のことである。本山派では門跡制度に基づくこの格式を、教団の格式として使用している。院家と院室は同じ意味で使う場合もあるが、本山派では区別していた。先達の中で特に由緒が認められた寺院が院室となった(院室兼帯寺院も参照)。先達同様に霞を支配した。 |
4 | 座主 | 座主とは、一山寺院の最高職寺院に与えられた格式である。院室に準じる地位が与えられた。特別な由緒を持つ竃門山と求菩提山の2山にのみ認められた。 |
5 | 宿老 | 宿老とは、備前児島の五流修験を統括する寺院に与えられた格式である。この措置は五流修験の特別な由緒が認められたもので、「宿老」という呼称は五流修験で用いられていた格式であった。本山派内では座主に準じる地位が与えられた。 |
6 | 先達 | 先達とは、年行事や准年行事、および同行を支配する役職を持つ寺院に与えられた格式である。本来、先達とは社寺参詣や峰入における案内役のことである。ある地域が先達の霞(支配領域)として認められ、その地域内において、年行事の霞支配を認定した。主な先達が「二十七先達」として知られるが、実際には数も寺院も時代によって異同があった。近世中期以降の成立らしい(宮家1999、589)。 |
7 | 公卿 | 公卿とは、備前児島の五流修験において宿老を補佐する寺院のことである。「公卿」という呼称は、五流修験での呼称であったが、五流修験が本山派に組み込まれたあとも、そのまま本山派における格式の名称として使われている。本山派では先達に準じる地位を認められた。 |
8 | 年行事 | 年行事とは、各地方で末端の修験者(同行)たちを統括する寺院に与えられた格式である。年行事までは霞支配を認められた。年行事は、「霞」と呼ばれる区域の管轄権を与えられ、その地域内の「同行」を支配した。なお、年行事を補佐する役として「准年行事」があった。 |
9 | 御直末院 | 御直末院とは、聖護院門跡直轄の末端寺院のことである。近世になって勢力を伸ばしてきた寺院を門跡直轄として優遇した。これには、既存の先達・年行事との衝突を避けるとともに、直轄にすることにより聖護院への収入を増加させる思惑があったと考えられている。1701年(元禄14年)にはこの名称が見えており(史料H)、さらに勢力拡大により先達に昇格した寺院もある。年行事に準じる地位を認められた。 |
10 | 江戸触頭 | 江戸触頭とは、各宗派において、幕府との連絡のために幕府の命により江戸に設置された寺院である。幕府や本山からの末寺への通達、寺院から幕府への請願の取次を取り扱った。本山派では院室に準じる地位が認められた。 |
11 | その他 | その他、「出世」や「寺務」など、聖護院門跡の業務を補佐する役職があった。 |
資料
- 史料A:1831年(天保2年)書写「本山先達次第」『修験帳』(宮家準編 平成19「神社と民俗宗教・修験道」研究報告II所収?)
- 史料B:1831年(天保2年)書写「本山近代先達之次第」『修験帳』(宮家準編 平成19「神社と民俗宗教・修験道」研究報告II所収?)
- 史料C:1836年(天保7年)『踏雲録事」(東洋文庫)
- 史料D:1864年(元治1年)『森王府御末頭分書留』
- 史料E:明治初年「院家院室末寺修験頭分書上帳」(宮家準編 平成19「神社と民俗宗教・修験道」研究報告III所収)
- 史料F:1851年(嘉永4年)「雲上明覧大全」[1]
- 史料G:1833年「修験山彦」
- 史料H:1701年(元禄14年)「聖護院門跡制条」(宮家1999、588)
- 史料I:1868年(明治1年)「雲上明覧大全」[2]