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菩提僊那旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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菩提僊那(704-760)は、インドから奈良時代に渡来した僧侶。東大寺大仏の開眼の導師を務めた。後世、聖武天皇、良弁、行基と共に東大寺四聖の一人とされる。本地仏は普賢菩薩(『沙石集』)。通称は婆羅門僧正(波羅門僧正)、菩提僧正。原名はボディセーナ(Bodhisena)と考えられ、菩提仙那、覚軍とも訳す。
略歴
インド南部のヒンドゥー教のバラモン階級の出身。文殊菩薩聖地とされる五台山巡礼のために唐に渡る。日本の遣唐使多治比広成や理鏡の要請で、736年(天平8年)、唐僧の道センやベトナム僧の仏哲と共に来日。行基に迎えられて平城京に入り、大安寺に滞在した。常に『華厳経』を読誦し、密教に通じたという。751年(天平勝宝3年)に僧正。翌年、東大寺大仏の開眼導師を務めた。この時の開眼筆が正倉院宝物として現存する。760年(天平宝字4年)2月25日死去。57歳。3月2日、平城京西郊の登美山に葬られた。 伝記として門下の修栄(生没年不詳)が著した『南天竺婆羅門僧正碑并序』が伝わる。
大和・霊山寺の伝承では、入京時に寺のある登美山の山並みを見て、インドの霊鷲山のようだと語り、霊山寺と名付けたという。 また出羽・慈恩寺の寺伝では746年(天平18年)、聖武天皇の勅願で同寺の開基となったという。 伎楽の林邑楽を伝えたともいわれる。 「諸行無常偈」の作者ともされる(実際は『涅槃経』にある偈)。