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真宗大谷派大垣別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
真宗大谷派大垣別院(しんしゅうおおたには・おおがき・べついん)は、岐阜県大垣市伝馬町にある浄土真宗寺院。真宗大谷派の別院。元は平尾御坊願証寺(真徳寺)の支院だった。願証寺関連旧跡。別格別院だった(大谷派寺院録)。寺号は開闡寺(かいせんじ)。旧称は真徳寺、願証寺。
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歴史
美濃国安八郡三塚(岐阜県大垣市三塚町)の真徳寺は本願寺の東西分立とともに東西に別れ、従来の寺院が西本願寺末になるとともに、栄寿が東本願寺末として新たに不破郡平尾に真徳寺(願証寺)を創建した。ついで藩主石川忠総から大垣城下に寺地を寄進され、掛所を設置した。この「真徳寺掛所」が、大垣別院の起源である。1624年(寛永1年)、城下の区画整理により伝馬町に移転。1743年(寛保3年)、本寺である平尾真徳寺が「平尾御坊」とされたため、掛所も「平尾御坊掛所」と称した。さらに1747年(延享4年)、東本願寺掛所も兼ねることとなったため、掛所は「大垣御坊」と呼ばれるようになった。1773年(安永2年)5月、本寺が、織田信長に滅ぼされた長島願証寺の名を受け継ぎ、平尾御坊願証寺と改名したため、掛所も「願証寺」を寺名とした。
安永以降、藩主戸田家の菩提寺となり、庇護を受けた。藩は掛所を独立させて領内の浄土真宗の触頭にしようとしたが、本寺が強く反対した。 そこで藩主戸田氏正は、1852年(嘉永5年)、東本願寺に直接願い出て認められた。東本願寺は掛所に新たな寺名を付け、「開闡寺」とした。氏正の甥の大井勝相が初代住職に就任し厳起と称し、開闡寺は東本願寺末の触頭となったが、まもなく明治維新を迎えた。
1891年(明治24年)濃尾地震で壊滅的な被害を受けた。1900年(明治33年)、東本願寺22代大谷光瑩(現如)の弟の大谷勝信(厳量)が入寺し2代住職となり、復興に尽力。1918年(大正7年)本堂再建がなった。しかし、1945年(昭和20年)の空襲で焼失。1972年(昭和47年)になってようやく復興した。
組織
住職
- 1厳起()<1852->:大井勝相。藩主戸田氏正の甥。
- 2大谷勝信(1878-1951)<1900->:本統寺6世。長浜大通寺11世。1900年(明治33年)7月、開闡寺住職を兼務。(略歴は真宗大谷派桑名別院#組織を参照)
参考文献
- 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部