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多田神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2023年10月12日 (木) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
多田神社(ただ・じんじゃ)は、兵庫県川西市にある源氏の祖神源満仲を祀る神社。旧県社。別表神社。多田院があった。
- 968年:源満仲、住吉大神の神託で多田に移住
- 970年:源満仲、多田院を創建し、良源を招いて落慶法要を営んだ。子の源賢を開山とした。当時は天台宗寺院だった。
- 986年:源満仲、出家
- 997年:源満仲死去。多田院に埋葬された。
- 平安時代末:源頼朝、多田行綱を追放したため、多田院は大内惟義に預けた。多田行綱の家臣は存続し、「多田院御家人」として幕府に仕えることとなる。
- 鎌倉時代初期:承久の乱で朝廷側に付いた大内氏は失脚。幕府執権の北条泰時の支配下となり、後に得宗領となる。
- 1272年頃:恒念が勧進聖が造営に着手
- 1273年:北条家は「多田院造営条々一三条」を制定
- 1275年:北条家、極楽寺忍性を多田院長老および勧進職に任命。多田院は真言律宗となり西大寺の末寺となった。
- 1281年:四方10町を殺生禁断とする
- 1281年3月22日:伽藍造営がなり、西大寺叡尊を導師として法要を営む。
- 1298年:関東祈祷所となる
- 1316年10月13日:三重塔建立
- 1331年頃:南大門建立。
- 1334年:足利尊氏、天下泰平・子孫長久の願文を奉納
- 1337年:足利尊氏、善源寺東方地頭職を寄進
- 1358年:足利義詮、足利尊氏の遺骨を多田院に分骨。以後慣例となる。
- 1363年頃:この頃から佐々木道誉が勢力下に置く
- 1386年:室町幕府、摂津国に段銭・棟別銭を課税した時、多田庄は免除した上で多田院に造営料として寄進。
- 1415年:多田院鳴動の史料上の初見。17回が確認されている。
- 1420年:火災
- 1430年:火災
- 1434年:6代将軍足利義教の時代、後継者(7代足利義勝)の誕生にあたり神馬を寄進。以後恒例となる。
- 1472年:多田院鳴動にあたり、足利義政は吉田兼倶に命じて京都大元宮で祈祷させ、源満仲廟に祝詞を捧げた。後土御門天皇に働き掛け、源満仲に従二位を追贈。勅使が参向した。
- 1480年:金堂再建
- 1484年:9代足利義尚、「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納
- 1503年:仏塔がまだ再建されておらず「塔婆勧進疏」が作成されている
- 1578年:石山合戦に多田院御家人が本願寺側で参戦。そのため織田信長は多田院を焼き討ちした。
- 1662年:別当智栄、江戸に出て幕府に伽藍修復を訴える
- 1663年:徳川家綱、幕府による再興を決める
- 1665年:幕府、500石を寄進
- 1668年:正遷宮
- 1680年:別当智栄、徳川家綱の石碑を建てる
- 1681年:大風被害からの修復完了
- 1696年:700年忌にあたり、将軍徳川綱吉の寄進で修復。4月に正遷宮
- 1696年8月:東山天皇、「多田権現社」の神号を贈る。神階正一位
- 1697年:開帳
- 明治初年:神仏分離で多田神社となる
- 1874年(明治7年)9月:県社に列格