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野中寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2020年5月9日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
野中寺 やちゅうじ | |
概要 | 聖徳太子信仰の寺院。真言律運動の拠点。 |
奉斎 | 薬師如来 |
所在地 | 大阪府羽曳野市 |
所在地(旧国郡) | 河内国丹南郡 |
所属(現在) | 高野山真言宗 |
格式など | |
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目次 |
概要
野中寺(やちゅうじ)は、大阪府羽曳野市にある太子信仰の真言宗寺院。本尊は薬師如来。聖徳太子建立四十六寺の一つ。古代には船氏の氏寺だったという。近世には戒律復興運動の拠点となる律院となった。仲哀天皇陵の南にある。河内国丹南郡。叡福寺と大聖勝軍寺と共に河内三太子の一つで通称は中之太子。西明寺・神鳳寺と共に西明寺流の三僧坊の一つ。高野山真言宗。山号は青龍山。近くの法泉寺が野中寺奥之院を称す。
歴史
古代〜中世
聖徳太子を開基として蘇我馬子が創建したとされる。調査では奈良時代前期の法隆寺式の古代伽藍跡が確認されている。 『日本霊異記』に登場する野中堂は野中寺に当たるとされる。 南北朝時代に全焼。
近世
政賢覚栄が西明寺の慈忍慧猛を招いて律院として復興した。ここで学んだ僧として洪善普摂(法楽寺中興)、忍綱貞紀、忍綱門下の慈雲(長栄寺中興、高貴寺中興)(1718-1804)がいた。 (日本歴史地名大系)
組織
歴代
- 1慈忍慧猛(恵猛)(1613-1662)<>:真言律宗野中寺流の祖。1641年(寛永18年)春、西明寺で具足戒受戒。泉涌寺の正専如周に師事する一方、槙尾西明寺の真空了阿にも学ぶ。さらに西大寺で伝法灌頂を受けた。1646年(正保3年)巌松院住職。寛文年間、巌松院に僧坊を設けようとして西明寺から抵抗に遭う。泉涌寺に寓居。1669年(寛文9年)2月、招かれて野中寺に入り律僧坊とした。浄土律の性憲慈空(1646-1719)に菩薩戒を授ける。
- 2慈門信光(1624-1707)<>:弟子に通玄直心(1656-1731)。
- 3戒山慧堅(1649-1704)<>:黄檗宗鉄眼のもとで出家。野中寺慧猛に戒律を学ぶ。近江・安養寺を中興する。退耕道人。『律苑僧宝伝』の著者。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)の自誓受戒の証明師となる。
- 4玄道慈観()<>:1729年(享保14年)死去。
- 5行海満空()<>:1719年(享保4年)死去。矢田寺中興。
- 6湛堂慧淑(1669-1720)<>:戒山慧堅の弟子。最初、泉涌寺で学び、のち安養寺で戒山慧堅に学ぶ。1688年(元禄1年)冬、野中寺で具足戒を受ける。律僧伝の続編『律門西生録』を編纂。1714年(正徳4年)『青龍山清規』(龍山清規)を制定。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、天台安楽律院流の霊空光謙(1652-1739)、園城寺の義瑞性慶(1667-1737)の授戒の証明師を務めた。
- 7洪善普摂(?-1724)<>:法楽寺中興。
- 8慧燈玄光()<>:1739年(元文4年)死去。
- 9戒龍唯如()<>:1747年(延享4年)死去。
- 秀巌()<>:
- 法操智瑞?(1772-1844)
- 野口明運()<>:
- 野口明真 ()<>:
- 野口真戒()<>:
画像
参考文献