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山城・西明寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年12月28日 (月)
(京都・西明寺から転送)
西明寺(さいみょうじ)は、京都府京都市右京区梅ケ畑槇尾町にある真言宗寺院。本尊は清凉寺式釈迦如来。真言律宗西明寺流の発祥の地で、宗派を超えた戒律復興運動の発信源となった。神鳳寺・野中寺と共に西明寺流の三僧坊の一つ。槙尾と神護寺の高雄(高尾)、高山寺の栂尾と合わせて三尾(さんび)と呼ぶ。現在は真言宗大覚寺派。平等心王院と号す。通称は槙尾西明寺。山号は槙尾山。神護寺関連旧跡。(参考:同名西明寺・槙尾山)
目次 |
歴史
明忍以前
天長年間、空海の甥の智泉が神護寺別院として創建したと伝えるが不詳。 1204年(元久1年)、明恵が訪れ、居所とした。 その後、建治年間、槙尾山施福寺の自証(我宝自性)(土佐・金剛頂寺、最御崎寺)が入り、律院として復興。 1288年(正応1年)、後宇多上皇から「槙尾山平等心王院」の名を与えられた。後宇多院は土佐国安芸庄(金剛頂寺の所在地)を寄進した。浄宝も金剛頂寺を兼務した。 永禄年間、兵火で焼失。神護寺に合併された。
明忍の復興
1602年(慶長7年)、明忍が入り復興。1623年(元和9年)、「平等心王院僧制」制定。 1627年(寛永4年)以降、宗派を超えて広がる戒律復興運動の震源地となった。1700年(元禄13年)、桂昌院の寄進で現在の本堂を造営。寺領35石が与えられた。1745年(延享2年)の『真言律宗西明寺派下寺院牒』には「真言律宗西明寺派本山槙尾山西明寺」とあり、「本山」を名乗っている。明治維新で律院は廃された。慶長年間から安政年間にいたる「僧名帳」(『自誓受具同戒牒』)には492人の名前がある。
(日本歴史地名大系、国史大辞典ほか)
伽藍
- 本堂
- 客殿:元は食堂
- 聖天堂
- 方丈:廃絶
- 上座寮:廃絶
- 東学寮:廃絶
- 西学寮:廃絶
- 月直寮:廃絶
- 鎮守社:廃絶
- 阿育王石柱
組織
歴代
- 長老、衆首とも呼ばれた。
- 俊正明忍から恵了道全まで『日本における戒律伝播の研究』による。
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 俊正明忍 | 1576-1610 | 1602-1606 | 真言律宗西明寺流の祖。各宗派にまたがる近世戒律復興運動の開祖。京都出身。1576年(天正4年)生。父は少外記中原康雄(「中原康雄記」の著者か)。俗名は中原賢好。7歳で神護寺中興晋海(?-1611)に学問を学ぶ。1586年(天正14年)元服。1599年(慶長4年)4月18日、豊国廟への勅使を務めた。同年、晋海を戒師として出家(1597年(慶長2年)出家説もある)。1600年(慶長5年)四度加行。僧侶の規範である戒律なくては僧侶として成り立たないと思い西大寺に赴く。三輪山で偶然出会った慧雲蓼海や西大寺の友尊僧全(?-1610)と意気投合。鎌倉時代の叡尊、覚盛にならい、1602年(慶長7年)、春日住吉の神前で好相を祈り、神護寺晋海・玉円空渓を加え5人で高山寺で自誓受戒。同年、西明寺を復興。1604年(慶長9年)2月11日から12月20日にかけて南都の安養院・龍徳院・東大寺戒壇院などで慧雲蓼海と共に道宣『行事鈔』を講義。鑑真への思いが強く、別受の受戒を志し1606年(慶長11年)、明・インドに渡ろうと計画。弟子の慈道と共に対馬にわたり、府内宮内、豊満、茅壇に庵を結ぶ。浄土宗海岸寺中興の伝誉知順や一華庵の以僊と交流があった。帰郷していた真言宗の賢俊良永と出会い教えを請われたので西明寺に行くように促す。1610年(慶長15年)1月26日、「自誓ノ血脈」を記す。6月7日、茅壇で死去。35歳。死期を悟ると自ら穴を掘って7日間鉦を鳴らして果てたという。対馬海岸寺に墓と位牌・絵像がある。墓の五輪塔は黄檗宗の道澄月潭が1703年(元禄16年)に建てたもの。海岸寺絵像は以酊庵に赴任した建仁寺311世の松堂宗植が1705年(宝永2年)に製作したもの。西明寺にも絵像がある。1906年(明治39年)、釈雲照が墓を参拝。伝記としては1652年(承応1年)の堯遠不筌『明忍律師之行状記』、1664年(寛文4年)の元政『槙尾平等心王院興律始祖妙忍律師行業記』、1682年(天和2年)の『日本古今往生略伝』、1683年(天和3年)の西村未達『新御伽婢子』、1687年(貞享4年)の道澄月潭『槙尾平等心王院故弘律始祖妙忍和尚行業曲記』、1688年(元禄1年)の性〓高泉『東国高僧伝』「槙尾山妙忍律師伝」、1689年(元禄2年)の戒山慧堅の『律苑律宝伝』「槙尾平等心王院俊正妙忍律師伝」、1689年(元禄2年)の了智『緇白往生伝』、1702年(元禄15年)の師蛮『本朝高僧伝』、広上塔貫の「槙尾山妙忍和上興起律幢各派系譜」、慈雲飲光の「妙忍律師伝」がある。弟子に高野山円通寺賢俊良永、真空了阿、泉涌寺正専如周、久修園院宗覚らがいる。 |
2 | 慧雲蓼海 | ?-1611? | 1606-1611? | 和泉国出身。生年不詳。元は日蓮宗の僧侶。天台学に通じた学僧として知られ、山城桂の寺で法筵をたびたび開いた。しかし、当時の僧の現状を堕落したものと感じ出奔。特に布施の取り扱いや僧侶同士が「上人」で呼び合う日蓮宗の習慣を嫌ったという。その後、丹波で炭焼きをしていた。大和国の霊跡巡礼をしていた時、三輪山の麓で俊正明忍と出会い、疑問を打ち明けたところ意気投合。俊正明忍と共に西大寺に行き、友尊全空と出会った。1602年(慶長7年)、3人は神護寺晋海・玉円空渓と共に高山寺で自誓受戒。1604年(慶長9年)2月11日から12月20日にかけて南都の安養院・龍徳院・戒壇院などで明忍と共に道宣『行事鈔』を講義。1606年(慶長11年)、明忍が民国に渡るため対馬に向かった後の西明寺と僧侶指導を託された。明忍の弟子とされる多くの人物も実際は慧雲蓼海の指導を受けていた。1611年(慶長16年)、西明寺教団として2回目となる自誓受戒を西明寺で実施。1611年(慶長16年)3月2日または1612年(慶長17年)2月2日、神護寺迎接院で死去(1611年(慶長16年)説は『自誓受具同戒牒』、1612年(慶長17年)説は西明寺位牌銘、『槙尾山略縁起并流記』による)。「南無慈尊」と唱えながら亡くなったという。また大原野・正法寺の伝承によると丹波隠棲時代に正法寺を訪れ、稲荷神の化身の翁に出会い、戒律復興の神託を受けたという。初名は慧雲道渓。恵雲とも。(法楽寺ウェブサイト「戒山『慧雲海律師傅』[1]、正法寺ウェブサイト『春日稲荷縁起』[2]ほか) |
3 | 玉円空渓 | ?-1612 | 生年不詳。1602年(慶長7年)、俊正明忍らと共に高山寺で自誓受戒。1612年(慶長17年)4月18日死去。玉円空谿とも。 | |
4 | 長円良祐 | 1578-1619 | 大原野・正法寺中興。1578年(天正6年)生。1611年(慶長16年)自誓受戒。慶長年間、正法寺住職となる。1619年(元和5年)3月24日死去。42歳。長円了祐とも。 | |
5 | 空爾友戒 | ?-1623 | 1611年(慶長16年)自誓受戒。1623年(元和9年)8月17日死去。 | |
6 | 良存堯円 | ?-1625 | 1611年(慶長16年)自誓受戒。1625年(寛永2年)4月14日死去。 | |
7 | 空印忍盛 | ?-1633 | 大和国三輪出身。1611年(慶長16年)自誓受戒。1633年(寛永10年)6月24日死去。 | |
8 | 全理恵燈 | 1568-1648 | 大山崎神照院開山。1568年(永禄11年)生。1611年(慶長16年)自誓受戒。1648年(慶安1年)6月26日死去。81歳。受戒証明の門下に永源寺如雪文巌らがいる。全理慧燈とも。神照院は山城・宝積寺の脇にある。 | |
9 | 慈雲智城 | 1596-1662 | 大原野正法寺住職。1596年(慶長1年)生。1618年(元和4年)自誓受戒。1662年(寛文2年)12月20日死去。67歳。 | |
10 | 了運不生 | 1606-1667 | 調子瑞泉寺開山。1606年(慶長11年)生。1626年(寛永3年)自誓受戒(1630年(寛永7年)?)。1667年(寛文7年)2月27日死去。62歳。瑞泉寺は京都府長岡京市調子にあったが廃絶。 | |
11 | 尊光空如 | ?-1670 | 宇治元通寺2世。西明寺では仏名会を始める。1670年(寛文10年)8月10日死去。元通寺は京都府宇治市にあったが西明寺に併合。 | |
12 | 存正卓然 | ?-1672 | 京都出身。1672年(寛文12年)2月22日死去。 | |
13 | 本寂恵澄 | ?-1676 | 山城国木津出身。1676年(延宝4年)11月21日死去。本寂慧徴とも。 | |
14 | 智本理澄 | 1631-1716 | 丹州(丹波?丹後?)出身。1631年(寛永8年)生。1700年(元禄13年)、道澄月潭の主唱で巌松院の了恵元如と共に開山俊正明忍の墓を対馬に建てた。1716年(享保1年)1月15日死去。86歳。 | |
15 | 慈猛恵眼 | 1633-1722 | 八幡・大乗院住職。大和国出身。1633年(寛永10年)生。1722年(享保7年)7月9日死去。90歳。 | |
16 | 会暁実通 | 1651-1723 | 大坂出身。1651年(慶安4年)生。1723年(享保8年)5月13日死去。73歳。 | |
17 | 普聞寂然 | 1669-1728 | 伊予国出身。1669年(寛文9年)生。河野家。1728年(享保13年)9月28日死去。60歳。 | |
18 | 春鏡快弁 | ?-1731 | 1731年(享保16年)1月24日死去。 | |
19 | 無寂晃偏 | ?-1732 | 調子瑞泉寺住職。1732年(享保17年)4月11日死去。 | |
20 | 智厳明通 | ?-1741 | 獅子窟寺住職。1741年(寛保1年)7月13日死去。 | |
21 | 祖厳快龍 | ?-1744 | 獅子窟寺住職。1744年(延享1年)閏2月6日死去。 | |
22 | 泰洲如実 | ?-1755 | 現光寺住職。1755年(宝暦5年)5月4日死去。現光寺は京都府木津川市加茂町にある。 | |
23 | 忍戒照山 | ?-1758 | 山城国宇治出身。忍鎧戒如と改名。1758年(宝暦8年)7月15日死去。 | |
24 | 千叉亮昌 | ?-1765 | 正法寺住職。播磨国明石出身。1765年(明和2年)9月29日死去。 | |
25 | 懐宝道光 | ?-1786 | 神照院住職。大坂出身。1786年(天明6年)1月8日死去。 | |
26 | 照山良景 | 1728-1804 | 京太子堂(京都・白毫寺?)住職。大和国出身。1728年(享保13年)生。雲隆と改名。1804年(文化1年)2月27日死去。77歳。 | |
27 | 智玄暁了 | 1743-1822 | 東大寺戒壇院長老。1743年(寛保3年)生。1822年(文政5年)11月29日死去。80歳。 | |
28 | 傳光智空 | 1748-1832 | 1748年(寛延1年)生。1832年(天保3年)3月11日死去。85歳。円明と改名。 | |
29 | 智観恵察 | 1775-1859 | 1775年(安永4年)生。1859年(安政6年)6月7日死去。85歳。 | |
30 | 恵了道全 | 生没年不詳 | 1859- | 生没年不詳。1859年(安政6年)、大覚寺門跡から長老と認められる。1882年(明治15年)7月大講義。中原道全。 |
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
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稲村英隆 | 1838-1910 | 1894-1906 | 武蔵歓喜院中興。武蔵国旗羅郡出身。1838年(天保9年)生。1844年(弘化1年)歓喜院で得度。1853年(嘉永6年)高野山で学ぶ。1862年(文久2年)11月、歓喜院住職。1884年(明治17年)権少教正。1891年(明治24年)東寺定額僧。1893年(明治26年)インド渡航。1894年(明治27年)西明寺住職。1906年(明治39年)10月退任。1910年(明治43年)5月16日、歓喜院で死去。閑雲英隆とも。 | |
釈大真 | 1873-1916? | 1906- | 1873年(明治6年)生。釈雲照、西山禾山の弟子。目白僧園、天龍寺、八幡浜大法寺で学ぶ。インド巡拝。交流のあった河口慧海がチベットに入る時、漢文大蔵経をチベット大蔵経と交換するために用意した。了徳院住職。1906年(明治39年)西明寺住職。阿育王石柱を建立。釈迦牟尼会の設立に参加。日本の大乗戒や自誓受戒は仏教本来の戒律ではないとして上座部仏教の戒律を受戒するためにビルマにわたるが客死した。1916年(大正5年)か。秀海大真。秀戒大真。著書に『渡印日誌』(1911)。 | |
竹中承全 | ||||
高岡義海 | ~1961~ | 了徳院住職。宝塚聖天住職。高野山北京別院主事。1961年(昭和36年)、「開山仮名行状」を記す。翌年、「妙忍律師伝記集成」を編纂。他の著書に『梅ケ畑村誌』[3]。 | ||
高岡義寛 | 京都大学工学部卒。1981年(昭和56年)IBMトーマス・J・ワトソン研究所客員研究員。1985年(昭和60年)、京都大学工学部助教授。2003年(平成15年)京都大学大学院工学研究科教授。2016年(平成28年)名誉教授。専門はクラスターイオン工学。 |
資料
- 『槙尾山略縁起并流記』元禄13年
- 『槙尾山略縁起』