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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

京都・西明寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年8月26日 (日)

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西明寺(さいみょうじ)は、京都府京都市右京区にある真言宗寺院。本尊は釈迦如来真言律宗西明寺流の発祥の地で、宗派を超えた戒律復興運動の発信源となった。神鳳寺野中寺と共に西明寺流の三僧坊の一つ。 神護寺高山寺に近い。現在は真言宗大覚寺派平等心王院と号す。通称は槙尾西明寺。山号は槙尾山。神護寺関連旧跡。(参考:同名西明寺槙尾山


目次

歴史

明忍以前

天長年間、空海の甥の智泉が神護寺別院として創建したと伝えるが不詳。 元久元年(1204)、明恵が訪れ、居所とした。 その後、建治年間、槙尾山施福寺の自証が入り、律院として復興。 正応元年(1288)、後宇多上皇から「槙尾山平等心王院」の名を与えられた。 鎌倉時代末には土佐の金剛頂寺が兼務していた時期もある。永禄年間、兵火で焼失。神護寺に合併された。

明忍の復興

慶長7年(1602)、明忍が入り復興。江戸時代、宗派を超えて広がる戒律復興運動の震源地となった。東福門院の寄進で伽藍が建てられた(桂昌院寄進という説も)。寺領35石が与えられた。明治維新で律院は廃された。

(日本歴史地名大系、国史大辞典)

組織

歴代

  • 1俊正明忍(1576-1610):真言律宗西明寺流の祖。各宗派にまたがる近世戒律復興運動の開祖。京都出身。中原氏。西大寺で学ぶ。晋海の弟子。慧雲蓼海や友尊僧全と意気投合して高山寺で自誓受戒。槙尾西明寺を復興。明に渡ろうと対馬滞在中に客死。対馬海岸寺に墓地。
  • 2慧雲蓼海:元は日蓮宗の僧侶。俊正明忍と共に高山寺で自誓受戒。
  • 真空了阿
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%83%BB%E8%A5%BF%E6%98%8E%E5%AF%BA」より作成

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