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七条仏所
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月13日 (土)
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+ | [[file:七条仏所跡1.jpg|thumb|400px|七条仏所跡を示す立て札]] | ||
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'''七条仏所'''は京都の七条東洞院(京都府京都市下京区材木町)にあった[[造仏所]]。[[定朝]]の子の覚助に始まる。この仏師集団の流れを'''慶派'''という。鎌倉時代初頭の運慶の頃に京都七条を拠点とした。現在の[[真宗本廟]]の近く、枳殻邸の南側のあたり。康弁が[[他阿呑海]]に定朝の邸宅跡を寄進し、[[京都七条・金光寺]]を創建したという。のち七条中仏所、七条東仏所、七条西仏所に分裂。天正年間、[[豊臣秀吉]]の都市改造で四条烏丸に移ったという。[[興福寺]]大仏師職や[[東寺]]大仏師職を世襲したという。 | '''七条仏所'''は京都の七条東洞院(京都府京都市下京区材木町)にあった[[造仏所]]。[[定朝]]の子の覚助に始まる。この仏師集団の流れを'''慶派'''という。鎌倉時代初頭の運慶の頃に京都七条を拠点とした。現在の[[真宗本廟]]の近く、枳殻邸の南側のあたり。康弁が[[他阿呑海]]に定朝の邸宅跡を寄進し、[[京都七条・金光寺]]を創建したという。のち七条中仏所、七条東仏所、七条西仏所に分裂。天正年間、[[豊臣秀吉]]の都市改造で四条烏丸に移ったという。[[興福寺]]大仏師職や[[東寺]]大仏師職を世襲したという。 | ||
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+ | file:七条仏所跡3.jpg|七条仏所跡地周辺。立て札以外には記念碑や遺構はない。 | ||
+ | file:七条仏所跡2.jpg|立て札の下に置かれている燈篭。無関係か。 | ||
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==仏師== | ==仏師== | ||
- | *覚助(?- | + | *覚助(?-1077):[[定朝]]の子または弟子。 |
*頼助(1054-1119):覚助の子。定朝の孫。拠点を京都から南都に移す。 | *頼助(1054-1119):覚助の子。定朝の孫。拠点を京都から南都に移す。 | ||
- | * | + | *康助(生没年不詳):頼助の子。定朝の曾孫。豪助。[[蓮華王院]]三十三間堂の千体観音を作ったという。 |
*康朝(生没年不詳):康助の子。定朝の玄孫。 | *康朝(生没年不詳):康助の子。定朝の玄孫。 | ||
*成朝(生没年不詳):康朝の子。鎌倉に下り、幕府とのつながりを築き、のちの慶派の興隆を基礎となる。興福寺大仏師。 | *成朝(生没年不詳):康朝の子。鎌倉に下り、幕府とのつながりを築き、のちの慶派の興隆を基礎となる。興福寺大仏師。 | ||
*康慶(生没年不詳):康朝の弟子。成朝が鎌倉に下った後、京都・南都での中心的存在となる。 | *康慶(生没年不詳):康朝の弟子。成朝が鎌倉に下った後、京都・南都での中心的存在となる。 | ||
- | * | + | *[[運慶]](?-1223):康慶の子。初代の東寺大仏師。この頃、京都に七条仏所を構えたか。 |
- | * | + | *[[快慶]](生没年不詳):康慶の弟子。安阿弥陀仏。 |
*湛慶(1173-1256):運慶の長男。東寺大仏師。 | *湛慶(1173-1256):運慶の長男。東寺大仏師。 | ||
*康運(生没年不詳):運慶の次男。 | *康運(生没年不詳):運慶の次男。 | ||
- | * | + | *康弁(生没年不詳):運慶の三男。[[他阿呑海]]に帰依したという伝承がある。 |
*康勝(?-1237):運慶の四男。東寺大仏師。 | *康勝(?-1237):運慶の四男。東寺大仏師。 | ||
*栄快(生没年不詳):快慶の弟子。興福寺大仏師。 | *栄快(生没年不詳):快慶の弟子。興福寺大仏師。 | ||
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*湛誉():興福寺大仏師。 | *湛誉():興福寺大仏師。 | ||
*康秀(): | *康秀(): | ||
- | * | + | *21康正(1534-1621):康秀の子。七条仏所21代という。 |
- | * | + | *22康猶():康正の子。1632年死去。 |
- | + | *23康音():康猶の子。1682死去。84 | |
+ | *24康知(?-1661):康猶の猶子。 | ||
+ | *25康乗():康知の子。 | ||
+ | *26康祐(?-1689):康知の弟子。七条仏所中興。東寺大仏師(七条仏師では最後)。 | ||
+ | *27 | ||
+ | *28 | ||
+ | *29 | ||
+ | *30康伝(1733-1793): | ||
+ | *31康朝(1759-1818): | ||
+ | *32康勝():康朝の子。 | ||
+ | *33康布():康朝の子。 | ||
+ | *34康敬():康朝の子。33世を称す。 | ||
+ | *35康教(): | ||
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2024年1月13日 (土) 時点における最新版
七条仏所は京都の七条東洞院(京都府京都市下京区材木町)にあった造仏所。定朝の子の覚助に始まる。この仏師集団の流れを慶派という。鎌倉時代初頭の運慶の頃に京都七条を拠点とした。現在の真宗本廟の近く、枳殻邸の南側のあたり。康弁が他阿呑海に定朝の邸宅跡を寄進し、京都七条・金光寺を創建したという。のち七条中仏所、七条東仏所、七条西仏所に分裂。天正年間、豊臣秀吉の都市改造で四条烏丸に移ったという。興福寺大仏師職や東寺大仏師職を世襲したという。
仏師
- 覚助(?-1077):定朝の子または弟子。
- 頼助(1054-1119):覚助の子。定朝の孫。拠点を京都から南都に移す。
- 康助(生没年不詳):頼助の子。定朝の曾孫。豪助。蓮華王院三十三間堂の千体観音を作ったという。
- 康朝(生没年不詳):康助の子。定朝の玄孫。
- 成朝(生没年不詳):康朝の子。鎌倉に下り、幕府とのつながりを築き、のちの慶派の興隆を基礎となる。興福寺大仏師。
- 康慶(生没年不詳):康朝の弟子。成朝が鎌倉に下った後、京都・南都での中心的存在となる。
- 運慶(?-1223):康慶の子。初代の東寺大仏師。この頃、京都に七条仏所を構えたか。
- 快慶(生没年不詳):康慶の弟子。安阿弥陀仏。
- 湛慶(1173-1256):運慶の長男。東寺大仏師。
- 康運(生没年不詳):運慶の次男。
- 康弁(生没年不詳):運慶の三男。他阿呑海に帰依したという伝承がある。
- 康勝(?-1237):運慶の四男。東寺大仏師。
- 栄快(生没年不詳):快慶の弟子。興福寺大仏師。
- 康円(1207-?):康運の子。湛慶の後継者。東寺大仏師。康縁、幸縁。
- 性慶():興福寺大仏師。
- 康俊(生没年不詳):南朝との関係が深い。東寺大仏師。興福寺大仏師。
- 康誉(生没年不詳):北朝との関係が深い。七条西仏所の祖とされる。東寺大仏師。
- 康成():康俊の子。南朝との関係が深い。興福寺大仏師。
- 俊慶():興福寺大仏師。
- 湛勝():興福寺大仏師。
- 順慶():興福寺大仏師。
- 寛慶():興福寺大仏師。
- 慶秀():興福寺大仏師。
- 舜慶():興福寺大仏師。
- 湛誉():興福寺大仏師。
- 康秀():
- 21康正(1534-1621):康秀の子。七条仏所21代という。
- 22康猶():康正の子。1632年死去。
- 23康音():康猶の子。1682死去。84
- 24康知(?-1661):康猶の猶子。
- 25康乗():康知の子。
- 26康祐(?-1689):康知の弟子。七条仏所中興。東寺大仏師(七条仏師では最後)。
- 27
- 28
- 29
- 30康伝(1733-1793):
- 31康朝(1759-1818):
- 32康勝():康朝の子。
- 33康布():康朝の子。
- 34康敬():康朝の子。33世を称す。
- 35康教():