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中宮寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[聖徳太子]]が母后のため、皇后の宮殿を改めて寺院としたのが起源。元は現在地から東約550mのところにあった。平安時代には衰退。鎌倉時代に'''信如'''が復興。室町時代に再び衰退し、やがて現在地に移転。宗派は法相律宗を称していたという。古くから[[法隆寺]]の末寺だったが明治以後、[[真言宗]][[長谷寺]]の末寺となり、明治16年には[[泉涌寺]]に所属した。昭和25年、法隆寺が[[法相宗]]を離脱して[[聖徳宗]]を立てると、その末寺に加わった。 | [[聖徳太子]]が母后のため、皇后の宮殿を改めて寺院としたのが起源。元は現在地から東約550mのところにあった。平安時代には衰退。鎌倉時代に'''信如'''が復興。室町時代に再び衰退し、やがて現在地に移転。宗派は法相律宗を称していたという。古くから[[法隆寺]]の末寺だったが明治以後、[[真言宗]][[長谷寺]]の末寺となり、明治16年には[[泉涌寺]]に所属した。昭和25年、法隆寺が[[法相宗]]を離脱して[[聖徳宗]]を立てると、その末寺に加わった。 | ||
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+ | *尊智女王:門跡初代。伏見宮貞敦親王王女。 | ||
+ | *高栄女王(1661-1722)後西天皇皇女。 | ||
+ | *栄恕女王(1749-1776):有栖川宮職仁親王王女 | ||
+ | *英暉女王(1792-1845):有栖川宮織仁親王王女 | ||
+ | *一条尊昭(1919-?) | ||
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2016年12月25日 (日) 時点における版
中宮寺(ちゅうぐうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある法相宗の尼門跡・本山寺院。聖徳宗本山。聖徳太子建立七寺の一つ。法隆寺に隣接する。中宮寺門跡。斑鳩御所。鵤尼寺。法興尼寺。
目次 |
歴史
聖徳太子が母后のため、皇后の宮殿を改めて寺院としたのが起源。元は現在地から東約550mのところにあった。平安時代には衰退。鎌倉時代に信如が復興。室町時代に再び衰退し、やがて現在地に移転。宗派は法相律宗を称していたという。古くから法隆寺の末寺だったが明治以後、真言宗長谷寺の末寺となり、明治16年には泉涌寺に所属した。昭和25年、法隆寺が法相宗を離脱して聖徳宗を立てると、その末寺に加わった。
組織
住職
- 尊智女王:門跡初代。伏見宮貞敦親王王女。
- 高栄女王(1661-1722)後西天皇皇女。
- 栄恕女王(1749-1776):有栖川宮職仁親王王女
- 英暉女王(1792-1845):有栖川宮織仁親王王女
- 一条尊昭(1919-?)
参考文献
『日本仏教基礎講座』