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京都・白毫寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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1603年(慶長8年)、知恩院が徳川将軍家の菩提寺として国家権力との密接な関係を築き、大規模な伽藍整備を実施。 | 1603年(慶長8年)、知恩院が徳川将軍家の菩提寺として国家権力との密接な関係を築き、大規模な伽藍整備を実施。 | ||
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現在は単立という。 | 現在は単立という。 | ||
2023年4月23日 (日) 時点における版
白毫寺(びゃくごうじ)は、京都府京都市下京区本塩竈町にある聖徳太子信仰の真言宗寺院。本尊は聖徳太子。元は知恩院の北にあったが、江戸時代の知恩院再建のときに現在地に移転した。真言律宗西大寺末だった。関東祈祷所。速成就院、東山太子堂、塩竈太子堂、大谷堂、白毫院と呼ばれた。山号は照東山。(参考:同名寺院白毫寺)
歴史
いまも知恩院境内に残る五輪塔は、当寺の遺物とも言い、忍性の墓とも言う。 太子信仰と関わりながら布教していた、叡尊教団の山城における拠点寺院だった。1266年(文永3年)、西大寺末となり、ここを拠点に貴族らへの布教が行われた。 法然流念仏と太子信仰との関係を示唆していると言える。1279年(弘安2年)、叡尊が119人に菩薩戒を授けた。 花園天皇の葬儀が当寺で行われ、裏の十楽院に葬られた。皇太子邦良親王の葬儀も当寺で行われた。 1603年(慶長8年)、知恩院が徳川将軍家の菩提寺として国家権力との密接な関係を築き、大規模な伽藍整備を実施。 同年8月、移転の命令を受け、翌年現在の下寺町に移転した[1]。 現在は単立という。