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八尾・顕証寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(?歴代住職)
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初名は西証寺。
初名は西証寺。
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==歴史==
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*1560年(永禄3年):院家になる。
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*1570年(元亀1年)9月:織田信長、朱印。
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*1570年(元亀1年)10月20日:豊臣秀吉、黒印地
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*1598年(慶長3年)12月26日:5人連署の朱印。
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*1600年(慶長5年)9月21日:徳川家康の朱印状。禁制
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*1710年(宝永7年)4月:本堂再建。
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*1762年(宝暦12年):三業惑乱始まる。
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*1806年(文化3年)7月11日:三業惑乱で処分を受ける。住職が本山預押込になっただけでなく、触頭としての職務も停止された。
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*[[浄国寺]]:
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==資料==
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===史料===
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*『反正紀略』「顕証寺殿旅館ヘ押寄御退去ヲ勧ル事并夜中御出立之事」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950298/32]
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*「顕証寺所藏古文書並びに古記録」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2994480/272]
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*「顕証寺喚言師語録」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2967951/17]
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*『真宗聖教現存目録』「顕証寺所蔵」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219543/102]
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*『藤井寺市史史料編』「誓願寺・久宝寺顕証寺関係」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576436/422]
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===文献===
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*1928『久宝寺村誌』「顕証寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1105131/45]
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*谷下一夢1959「顕証寺蓮淳について」『龍谷大学論集』360
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*北西弘1969「顕証寺蓮淳とその書状―大小一揆研究序説」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4437098/10]
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*1974『八尾の史跡散歩』「久宝寺寺内と久宝寺御坊顕証寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9574981/6]
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*2002『藤井寺市史』「三業惑乱と八尾別院顕証寺」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576853/339]
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*木下光生2005「近世河内中本山真宗寺院の葬送とその存立基盤」
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*2010『顕証寺長屋門附属西長屋・東長屋・渡廊解体修理報告書』
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*2011『顕証寺本堂調査研究報告書』
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*櫻井敏雄2012『寺内町の中核としての真宗寺院―顕証寺を中心として』
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*2020『智慧のともしび―顕証寺本蓮如上人絵ものがたり』
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*渡辺克典ほか2021「大阪府八尾市顕証寺所蔵の寺宝『大蛇骨』(シャチ頭骨)」『地学研究』67-1
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2022年9月2日 (金) 時点における版

顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗御坊寺院浄土真宗本願寺派久宝寺御坊。(参考:同名寺院顕証寺

本願寺近松別院を兼務。

初名は西証寺。

目次

歴史

  • 1560年(永禄3年):院家になる。
  • 1570年(元亀1年)9月:織田信長、朱印。
  • 1570年(元亀1年)10月20日:豊臣秀吉、黒印地
  • 1598年(慶長3年)12月26日:5人連署の朱印。
  • 1600年(慶長5年)9月21日:徳川家康の朱印状。禁制
  • 1710年(宝永7年)4月:本堂再建。
  • 1762年(宝暦12年):三業惑乱始まる。
  • 1806年(文化3年)7月11日:三業惑乱で処分を受ける。住職が本山預押込になっただけでなく、触頭としての職務も停止された。


組織

歴代住職

  • 1実順(1494-1518)<>:蓮如の十一男。兼性。
  • 2実真(1517-1529)<1518-1529>:実順の長男。
  • 3蓮淳(1464-1550)<1529-1539>:蓮如の六男。兼誉。実順妻の妙祐の父に当たる。近松御坊堅田御坊を兼務。願証寺河内・恵光寺を創建。本願寺10世証如の外祖父。
  • 4実淳(1492-1542)<1539-1542>:蓮淳の子。嗣子なし。兼盛。
  • 5蓮淳(1464-1550)<1542->:再任。
  • 6証淳()<>:実淳の猶子。蓮淳の孫。願証寺実恵の四男。教忠。院家となる。
  • 7顕淳()<>:
  • 8准誓()<>:顕応院
  • 9准教()<>:
  • 10寂淳()<>:西本願寺13世良如の子。14世寂如の弟。円澄。
  • 11寂寿()<>:尼僧。
  • 12寂峰(1707-1789)<>:西本願寺を継承し17世法如となる。本徳寺寂円の次男。
  • 13法真()<>:西本願寺17世法如(1707-1789)の子。18世文如の弟。究竟院。闕教。本徳寺を兼務。
  • 文淳()<>:近松暉宣。西本願寺18世の文如(1744-1799)の三男。19世本如の弟。普寂院。
  • 広如(1798-1871)<>:大谷光沢。文淳の子。西本願寺を継承し20世となる。
  • 14近松摂真()<>:本願寺執事。華蔵院。権大教正。
  • 15近松沢含()<>:摂真の子。
  • 16近松尊定(1864-1917)<>:1864年(元治1年)生。1900年(明治33年)西本願寺執行。1917年(大正6年)管長代理。1917年(大正6年)死去。普照院。
  • 17
  • 18
  • 19近松照俊()<-2017>:龍谷大学卒。声明を得意とする。勤式指導所講師。本願寺名誉侍真。相愛大学講師。
  • 20近松真定()<2017->:1977年(昭和52年)12月14日生。本願寺名誉侍真。本願寺派布教使。本願寺派輔教。勤式指導所講師。相愛大学講師。行信教校講師。中央仏教学院講師。

河内十二坊

資料

史料

  • 『反正紀略』「顕証寺殿旅館ヘ押寄御退去ヲ勧ル事并夜中御出立之事」[1]
  • 「顕証寺所藏古文書並びに古記録」[2]
  • 「顕証寺喚言師語録」[3]
  • 『真宗聖教現存目録』「顕証寺所蔵」[4]
  • 『藤井寺市史史料編』「誓願寺・久宝寺顕証寺関係」[5]

文献

  • 1928『久宝寺村誌』「顕証寺」[6]
  • 谷下一夢1959「顕証寺蓮淳について」『龍谷大学論集』360
  • 北西弘1969「顕証寺蓮淳とその書状―大小一揆研究序説」[7]
  • 1974『八尾の史跡散歩』「久宝寺寺内と久宝寺御坊顕証寺」[8]
  • 2002『藤井寺市史』「三業惑乱と八尾別院顕証寺」[9]
  • 木下光生2005「近世河内中本山真宗寺院の葬送とその存立基盤」
  • 2010『顕証寺長屋門附属西長屋・東長屋・渡廊解体修理報告書』
  • 2011『顕証寺本堂調査研究報告書』
  • 櫻井敏雄2012『寺内町の中核としての真宗寺院―顕証寺を中心として』
  • 2020『智慧のともしび―顕証寺本蓮如上人絵ものがたり』
  • 渡辺克典ほか2021「大阪府八尾市顕証寺所蔵の寺宝『大蛇骨』(シャチ頭骨)」『地学研究』67-1
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%85%AB%E5%B0%BE%E3%83%BB%E9%A1%95%E8%A8%BC%E5%AF%BA」より作成

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