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八尾・顕証寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺(河内国渋川郡)にある浄土真宗寺院。院家の格式を持ち、御坊別格別院だった。浄土真宗本願寺派。滋賀県大津市の本願寺近松別院を兼務。顕証寺を中心に久宝寺寺内町を形成した。初名は西証寺久宝寺御坊。山号は近松山。(参考:同名寺院顕証寺

目次

歴史

  • 1470年(文明2年):蓮如、河内地方を巡教。
  • 明応年間:蓮如、西証寺を創建。十一男の実順を初代とする。
  • 1506年(永正3年):河内国の錯乱。実順、一時幽閉。
  • 1529年(享禄2年):蓮淳、西証寺に入り、近江顕証寺の「等身の御影」を奉遷し、顕証寺と改称。近江顕証寺は兼帯所とする。河内国の触頭となる。
  • 1539年(天文8年):蓮淳、顕証寺を子の実淳に譲り近江に帰る。
  • 1541年(天文10年):この頃から久宝寺寺内町が形成される。
  • 1542年(天文11年):蓮淳、顕証寺に再任。この頃、河内一向一揆。
  • 1560年(永禄3年):院家になる。
  • 1570年(元亀1年)9月:織田信長、朱印。
  • 1570年(元亀1年)10月20日:豊臣秀吉、黒印地
  • 1598年(慶長3年)12月26日:5人連署の朱印。
  • 1600年(慶長5年)9月21日:徳川家康の朱印状。禁制。幕政下で河内国の触頭として認められた。
  • 1606年(慶長11年):寺内町で対立。反対派住民と慈願寺が長瀬川対岸に移り八尾寺内町を開発した。本願寺の東西分裂は背景にあるとされる。
  • 1710年(宝永7年)4月:本堂再建。
  • 1762年(宝暦12年):三業惑乱始まる。
  • 1806年(文化3年)7月11日:三業惑乱で処分を受ける。住職が本山預押込になっただけでなく、触頭としての職務も停止された。
  • 近代:別格別院となる。

組織

歴代住職

  • 1実順(1494-1518)<>:蓮如の十一男。兼性。
  • 2実真(1517-1529)<1518-1529>:実順の長男。
  • 3蓮淳(1464-1550)<1529-1539>:蓮如の六男。兼誉。実順妻の妙祐の父に当たる。近松御坊堅田御坊を兼務。願証寺河内・恵光寺を創建。本願寺10世証如の外祖父。
  • 4実淳(1492-1542)<1539-1542>:蓮淳の子。嗣子なし。兼盛。
  • 5蓮淳(1464-1550)<1542->:再任。
  • 6証淳()<>:実淳の猶子。蓮淳の孫。願証寺実恵の四男。教忠。院家となる。
  • 7顕淳()<>:
  • 8准誓()<>:顕応院
  • 9准教()<>:
  • 10寂淳()<>:西本願寺13世良如の子。14世寂如の弟。円澄。
  • 11寂寿()<>:尼僧。
  • 12寂峰(1707-1789)<>:西本願寺を継承し17世法如となる。本徳寺寂円の次男。
  • 13法真()<>:西本願寺17世法如(1707-1789)の子。18世文如の弟。究竟院。闕教。本徳寺を兼務。
  • 文淳()<>:近松暉宣。西本願寺18世の文如(1744-1799)の三男。19世本如の弟。普寂院。
  • 広如(1798-1871)<>:大谷光沢。文淳の子。西本願寺を継承し20世となる。
  • 14近松摂真()<>:本願寺執事。華蔵院。権大教正。
  • 15近松沢含()<>:摂真の子。
  • 16近松尊定(1864-1917)<>:1864年(元治1年)生。1900年(明治33年)西本願寺執行。1917年(大正6年)管長代理。1917年(大正6年)死去。普照院。
  • 17
  • 18
  • 19近松照俊()<-2017>:龍谷大学卒。声明を得意とする。勤式指導所講師。本願寺名誉侍真。相愛大学講師。
  • 20近松真定()<2017->:1977年(昭和52年)12月14日生。本願寺名誉侍真。本願寺派布教使。本願寺派輔教。勤式指導所講師。相愛大学講師。行信教校講師。中央仏教学院講師。

河内十二坊

資料

史料

  • 『反正紀略』「顕証寺殿旅館ヘ押寄御退去ヲ勧ル事并夜中御出立之事」[1]
  • 「顕証寺所藏古文書並びに古記録」[2]
  • 「顕証寺喚言師語録」[3]
  • 『真宗聖教現存目録』「顕証寺所蔵」[4]
  • 『藤井寺市史史料編』「誓願寺・久宝寺顕証寺関係」[5]

文献

  • 1928『久宝寺村誌』「顕証寺」[6]
  • 谷下一夢1959「顕証寺蓮淳について」『龍谷大学論集』360
  • 北西弘1969「顕証寺蓮淳とその書状―大小一揆研究序説」[7]
  • 1974『八尾の史跡散歩』「久宝寺寺内と久宝寺御坊顕証寺」[8]
  • 2002『藤井寺市史』「三業惑乱と八尾別院顕証寺」[9]
  • 木下光生2005「近世河内中本山真宗寺院の葬送とその存立基盤」
  • 2010『顕証寺長屋門附属西長屋・東長屋・渡廊解体修理報告書』
  • 2011『顕証寺本堂調査研究報告書』
  • 櫻井敏雄2012『寺内町の中核としての真宗寺院―顕証寺を中心として』
  • 2020『智慧のともしび―顕証寺本蓮如上人絵ものがたり』
  • 渡辺克典ほか2021「大阪府八尾市顕証寺所蔵の寺宝『大蛇骨』(シャチ頭骨)」『地学研究』67-1
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%85%AB%E5%B0%BE%E3%83%BB%E9%A1%95%E8%A8%BC%E5%AF%BA」より作成

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