ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
四天王寺勝鬘院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年11月3日 (金)
(版間での差分)
28行: | 28行: | ||
*願成稲荷明神: | *願成稲荷明神: | ||
*愛染めの霊水 | *愛染めの霊水 | ||
- | <Gallery widths=" | + | <Gallery widths="300" heights="200" perrow="3"> |
File:四天王寺子院・勝鬘院_(2).jpg|参道 | File:四天王寺子院・勝鬘院_(2).jpg|参道 | ||
File:四天王寺子院・勝鬘院_(3).jpg|参道 | File:四天王寺子院・勝鬘院_(3).jpg|参道 |
2023年11月3日 (金) 時点における最新版
四天王寺勝鬘院は大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町にある天台宗寺院。和宗。本尊は愛染明王。愛染堂と呼ばれる。聖徳太子が立てた施薬院が前身。太子が勝鬘経を説いた旧跡という。忍性が中興。真言密教勝鬘流を伝えた。真言律宗の時期もあったか。多宝塔は大阪市内で現存最古の木造建造物。四天王寺関連旧跡。真言院、勝漫院とも。
歴史
593年(推古1年)、聖徳太子は敬田院、施薬院、療病院、悲田院の四箇院を備えた四天王寺を創建。四天王寺の本体が敬田院に当たるが、西北に建てた施薬院が勝鬘院の前身という。勝鬘院の名はこの地で聖徳太子が勝鬘経を説いたことに由来する。
1295年(永仁3年)、北条時頼の側近の僧が「四天王寺勝曼院内愛染王御宝前」に田を寄進した記録が初出。 1297年(永仁5年)8月9日、忍性が真言院として復興。 忍性に師事した足利義氏の四男の祐源が勝鬘院別当として一時いたという(のち本願寺覚如に帰依して堺源光寺を開く)。 一時、家原寺を管轄下においた。 『円照上人行状』から円珠(勝曼流開祖。泉涌寺の智鏡や道玄に師事)や思順(円珠門下)という僧が勝鬘院に住していたことが知られる。
1597年(慶長2年)、豊臣秀吉が多宝塔再建。 1618年(元和4年)、徳川秀忠、四天王寺造営と共に本堂再建。 1904年(明治37年)8月6日、延暦寺末から四天王寺末となる。 1917年(大正6年)庫裏再建。 西に大江神社がある。北西に藤原家隆墓がある。 (大阪府全志、日本歴史地名大系ほか)
伽藍
山門、中門、本堂、多宝塔が一直線に並ぶ配置は建築史上、特異なものとされる。
- 金堂:本尊は愛染明王。また薬師如来、勝鬘夫人、歓喜天、十一面観音などを祀る。1618年(元和4年)、徳川秀忠、四天王寺造営と共に再建。『天王寺誌』には「愛染明王、勝鬘夫人、十一面観音」とある。
- 多宝塔:本尊は大日大勝金剛尊。大日大勝金剛尊は大日如来の異形で、十二臂を持つ。十二天の壁画と柱絵がある。石山合戦で焼失後、1597年(慶長2年)、豊臣秀吉が再建。『天王寺誌』には「大勝金剛像、八祖画像、丗六尊画像」とある。
- 大力金剛尊:横綱大錦が満洲巡業の時に清朝時代の大力金剛尊を持ち帰って大阪国技館に祀っていたが、1950年(昭和25年)に勝鬘院に移された。
- 延命地蔵尊:
- 出世白龍明神:
- 願成稲荷明神:
- 愛染めの霊水