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宝満山

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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*平石坊:近世初期の座主坊。二十五坊の一つ。福岡藩が追放し、1688年(元禄1年)廃絶。
*平石坊:近世初期の座主坊。二十五坊の一つ。福岡藩が追放し、1688年(元禄1年)廃絶。
*[[有智山寺楞伽院|楞伽院]]:近世の座主坊。宮司も兼ねたらしい。[[修験道本山派]]の「座主」の格式を持った。施無畏寺。明治2年7月までに還俗して神職となる。
*[[有智山寺楞伽院|楞伽院]]:近世の座主坊。宮司も兼ねたらしい。[[修験道本山派]]の「座主」の格式を持った。施無畏寺。明治2年7月までに還俗して神職となる。
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*南之坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。
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*南之坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。神仏分離で高橋賢俊(高橋武彦)は一旦還俗したが、明治4年、夜臼の永福院に入り、法灯を守り明治22年の宝満山峰入の復興に中心的役割を果たした。永福院は現在、本山修験宗に所属。宝満山関係の古文書を伝える。
*富倉坊:二十五坊の一つ(のちに加わる)。明治2年7月までに還俗して神職となる。
*富倉坊:二十五坊の一つ(のちに加わる)。明治2年7月までに還俗して神職となる。
*東院坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。
*東院坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。

2019年9月29日 (日) 時点における版

宝満山(ほうまんさん)は、福岡県太宰府市にある宝満山信仰の霊山。標高829.6m。古代大宰府の東北に位置し、鬼門守護の神として重視されたと思われる。古代には最澄円仁をはじめ、渡唐僧の崇敬を受け、延暦寺天台宗との関係を深めた。中世までに八幡信仰との関わりを深め、石清水八幡宮の管轄下にあったこともある。祭神の玉依姫神は八幡神の親族神とされるが、神武天皇の母である同名神ともみられるようになる。いつ頃からか修験道が盛んになり、英彦山と一体の山岳霊場を形成した。筑前国御笠郡。竈門山御笠山ともいう。

目次

歴史

戦後

1982年(昭和57年)、心蓮1300年遠忌に合わせて宝満山修験会を設立。峰入りを復興した。

一覧

  • 竈門神社宝満山信仰の総本社。玉依姫命を祀るが神格については諸説ある。「宝満宮」。官幣小社。式内社、名神大社
  • 有智山寺最澄旧跡六所宝塔の一つ。「大山寺」「竈門山寺」「内山寺」「宝仲寺」とも。廃絶。天台宗
  • 根本中堂
  • 休堂
  • 薬師堂
  • 行者堂
  • 講堂
  • 求聞持堂
  • 座主墓地
  • 五井七窟
    • 閼伽井
    • 益影井
    • 徳弘井
    • 試井
    • 獅井
    • 大南窟
    • 福城窟
    • 法城窟:玉依姫命神陵と伝わる。
    • 剣の窟
    • 普池の窟
    • 釜蓋窟
    • 宝塔窟
  • 安西宝塔:2009年、再建。
  • 心蓮墓:仏頂山(元宝満山)にある。
  • 愛嶽神社:愛嶽山にある。
  • 五百羅漢
  • 千体地蔵
  • 青面金剛
  • 獅子宿
  • 仙竈岩:竈門岩とも。禅僧仙厓筆の「仙竈」の字が刻まれている。
  • 袖摺岩
  • 善哉岩
  • 役小角窟
  • 竈門神社北谷遥拝所
  • 夢想権之助神社:杖術の開祖を祀る霊社。夢想権之助(生没年不詳)は江戸時代初期の剣客。竈門神社に参籠して神託を受けたという。
  • 式部稲荷神社

子院

坊中などと呼ばれる。中世には370坊があり、300坊が衆徒方、70坊が行者方だった。現在の下宮周辺に集まっていた。 1557年、キリシタン大名の大友義鎮が苛烈な検地を行い、さらに堂社を破壊し重税を課した。このために370坊のほとんどは帰農、退転した。翌年、山麓から山上に逃れた行者方25坊のみが近世に存続した。 衆徒方2坊も江戸時代初期までは残っていたという。


  • 浄戒坊:中世の座主坊。1066年に座主坊を浄戒坊と称した。天正15年8月、兵乱で焼失し廃絶。下宮の南にあった。跡地が判明している。
  • 平石坊:近世初期の座主坊。二十五坊の一つ。福岡藩が追放し、1688年(元禄1年)廃絶。
  • 楞伽院:近世の座主坊。宮司も兼ねたらしい。修験道本山派の「座主」の格式を持った。施無畏寺。明治2年7月までに還俗して神職となる。
  • 南之坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。神仏分離で高橋賢俊(高橋武彦)は一旦還俗したが、明治4年、夜臼の永福院に入り、法灯を守り明治22年の宝満山峰入の復興に中心的役割を果たした。永福院は現在、本山修験宗に所属。宝満山関係の古文書を伝える。
  • 富倉坊:二十五坊の一つ(のちに加わる)。明治2年7月までに還俗して神職となる。
  • 東院坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 岩本坊:二十五坊の一つ(のちに加わる)。明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 井本坊:二十五坊の一つ。井ノ本坊。明治1年9月、還俗して神職となる。
  • 仲谷坊:二十五坊の一つ。明治2年7月までに還俗して神職となる。
  • 道場坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。明治3年6月還俗。
  • 鳥居坊:二十五坊の一つ。明治2年7月までに還俗して神職となる。
  • 新坊:二十五坊の一つ。元は財行坊。1652年、財行坊幸岩が、藩主黒田忠之と懇意の延暦寺現光院豪秀とつながり宝満山を比叡山門徒とした。山内を女人禁制とし、ほとんどの僧は妻帯僧であるため、下山させられるなど混乱したが1655年に忠之が死に復帰した。

明治3年に存在した十六坊の一つ。明治3年12月廃絶。

  • 尾崎坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 修蔵坊:二十五坊の一つ。守静院。明治3年に存在した十六坊の一つ。明治3年6月還俗。
  • 大谷坊:二十五坊の一つ。明治2年7月までに還俗して神職となる。
  • 浄善坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 福寿坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 経蔵坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。明治10年廃絶。
  • 福泉坊:二十五坊の一つ。明治1年3月、還俗して神職となる。
  • 松林坊:二十五坊の一つ。1567年、大友義鎮軍の宝満城攻めの際、類焼を恐れて太宰府天満宮の御神体が宝満山に仮遷座したが、松林坊が一人で神輿を山上に担ぎ上げたという。明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 栄門坊:二十五坊の一つ。元は伊多坊。明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 亀石坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。神仏分離で一時、座主を継ぐ。
  • 奥之坊:二十五坊の一つ。奥ノ坊。明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 歓明坊:二十五坊の一つ。元は大聖坊。明治2年7月までに還俗して神職となる。
  • 福蔵坊:二十五坊の一つ。明治2年7月までに還俗して神職となる。
  • 寂光坊:二十五坊の一つ(のちに加わる)。明治2年7月までに還俗して神職となる。
  • 吉祥坊:明治3年に存在した十六坊の一つ。
  • 財徳坊:二十五坊の一つ。明治3年に存在した十六坊の一つ。明治3年6月還俗。
  • 浄土院:成道院。葬儀を行う寺。
  • 市坊:近世に廃絶。
  • 金凝坊:近世に廃絶。
  • 浄行坊:二十五坊の一つ。近世に廃絶。
  • 山仲坊:近世に廃絶。
  • 普内坊:近世に廃絶。


  • 西井坊:二十五坊の一つ。近世初頭に廃絶。
  • 妙心坊:中世にあった。


  • 善如坊:衆徒方。寛永頃に廃絶。
  • 浄泉坊:衆徒方。寛永頃に廃絶。

資料

典籍

  • 2009『宝満山関係史料集』
  • 竹内理三編『大宰府・太宰府天満宮史料』

文献

  • 伊藤常足編『太宰管内志』筑前21
  • 中野幡能『筑前国宝満山信仰史の研究』
  • 中野幡能「宝満山修験の末寺・末社組織」(『英彦山と九州の修験道』)
  • 中野幡能「宝満山の峯入」
  • 小田富士雄1961「古代に於ける筑前竈門山寺の活動」[1]
  • 小田富士雄編1982『宝満山の地宝 宝満山の遺跡と遺物』[2]
  • 小田富士雄編1983『太宰府・宝満山の初期祭祀 『宝満山の地宝』拾遺』
  • 松川博一2014「大宰府と寺社」[3]
  • 森弘子「宝満山の開発と歴史的発展」(『英彦山と九州の修験道』)
  • 森弘子1983「宝満山の祭祀」『大宰府古文化論叢』
  • 森弘子2000『宝満山歴史散歩』葦書房
  • 森弘子2004「宝満山玉依姫考」
  • 森弘子2005「玉依姫の霊窟 羽黒と宝満と」[4]
  • 森弘子2009『宝満山の環境歴史学的研究』岩田書院
  • 森弘子2012「宝満山と聖護院そして彦山 本末論争の前提と結末」
  • 1989『宝満山遺跡』[5]
  • 1997『宝満山遺跡群2』[6]
  • 2001『宝満山遺跡群3』[7]
  • 2002『宝満山遺跡群・浦ノ田遺跡3』[8]
  • 2004『宝満山遺跡群4』[9]
  • 2006『宝満山遺跡群5』[10]
  • 2010『宝満山遺跡群6』
  • 2012『宝満山遺跡群7』
  • 小西信二編1984『宝満山及び竈門神社周辺の遺跡分布調査報告書 昭和58年度』[11]
  • 2013『宝満山総合報告書 福岡県太宰府市・筑紫野市所在の宝満山に関する文化財の総合報告』
  • 広渡正利1990「宝満山修験組織の確立について」『福岡県地域史研究』
  • 広渡正利1988「福岡藩の寺社支配についてー博多三刹と宝満山の場合」(『西南地域の史的展開』)
  • 高良竹美「求菩提山・宝満山の伝承」(『修験道の伝承文化』)
  • 時枝務2013「八世紀後半の筑前宝満山」
  • 時枝務2013「筑前宝満山における山頂祭祀の成立」
  • 岡寺良2008「宝満山近世僧坊跡の調査と検討 山岳寺院の平面構造調査」『九州歴史資料館研究論集』33
  • 山村信榮2005「大宰府における国境祭祀と宝満山・有智山寺」『仏教芸術』282号
  • 2011『「北部九州の山岳霊場遺跡 近年の調査事例と研究視点」資料集 第1回九州山岳霊場遺跡研究会』
  • 2016「彦山・宝満山縁起と諸伝承」『仏教民俗学大系』7
  • 中野景雄編1940『宝満山と竃門神社』
  • 「北九州修験秘録 宝満山伏の峰入り」『あしなか』71
  • 2013『山の神々 九州の霊峰と神祇信仰 竈門神社肇祀一三五〇年記念』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AE%9D%E6%BA%80%E5%B1%B1」より作成

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