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弘正寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年1月23日 (月)
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楠部町の伊勢農協あたりが跡地とされる。近くには五十鈴川を挟んで[[大土御祖神社]]や[[伊勢神宮神田]]がある。 | 楠部町の伊勢農協あたりが跡地とされる。近くには五十鈴川を挟んで[[大土御祖神社]]や[[伊勢神宮神田]]がある。 | ||
[[西大寺]]中興で西大寺流開祖の叡尊は1280年3月、門弟100人余りを率いて[[伊勢神宮]]に参拝し、蒙古退散を祈願。叡尊の神宮参詣は3回目だった。 | [[西大寺]]中興で西大寺流開祖の叡尊は1280年3月、門弟100人余りを率いて[[伊勢神宮]]に参拝し、蒙古退散を祈願。叡尊の神宮参詣は3回目だった。 | ||
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2023年1月23日 (月) 時点における最新版
弘正寺(こうしょうじ)は伊勢国度会郡(三重県伊勢市楠部町)にあった南都仏教・真言宗の寺院。真言律宗西大寺流。廃絶。伊勢神宮の本地仏である金胎大日如来を奉斎したという。叡尊旧跡。伊勢神宮関連旧跡。関東祈祷所。興正寺。山号は神護山。
楠部町の伊勢農協あたりが跡地とされる。近くには五十鈴川を挟んで大土御祖神社や伊勢神宮神田がある。
西大寺中興で西大寺流開祖の叡尊は1280年3月、門弟100人余りを率いて伊勢神宮に参拝し、蒙古退散を祈願。叡尊の神宮参詣は3回目だった。
この時、一堂を建てたのが弘正寺の起源で、高弟宣瑜(1240-1325、西大寺長老3世)が住職となった。
弘正寺は興正寺とも書かれることもあり、名称は叡尊の諡号である「興正菩薩」に由来するのかもしれない。
永仁6年(1298)、忍性の請願で認められた関東祈祷所34寺の一つ。伊勢における西大寺末の筆頭だった。
西北西1.1kmの清丸稲荷神社にある高さ3.4mの大型の五輪塔(「大五輪(おおごり)の五輪塔」、「楠部五輪塔」)は弘正寺の管轄にあったもので、叡尊の墓塔である可能性が指摘されている。
- 神宮典略[1]