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椿大神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''椿大神社'''(つばき・おおかみ・の・やしろ)は、三重県鈴鹿市にある[[猿田彦信仰]]の神社。主祭神は「猿田彦大神」。相殿として[[瓊々杵尊]]、栲幡千々姫命、配祀として[[天之鈿女命]]、[[木花咲耶姫命]]、さらに前座として'''行満大明神'''が祀られている(神社ウェブサイト)。[[都波岐奈加等神社]]とともに[[伊勢国一宮]]の論社とされる。[[県社]]。[[別表神社]]。
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'''椿大神社'''(つばき・おおかみ・の・やしろ)は、三重県鈴鹿市にある[[猿田彦信仰]]の神社。主祭神は「猿田彦大神」。相殿として[[瓊々杵尊]]、栲幡千々姫命、配祀として[[天之鈿女命]]、[[木花咲耶姫命]]、さらに前座として'''行満大明神'''が祀られている(神社ウェブサイト)(行満大明神または行満大菩薩は中世まで椿大神社の神号の一つだった)。[[都波岐奈加等神社]]とともに[[伊勢国一宮]]の論社とされる。[[県社]]。[[別表神社]]。
==歴史==
==歴史==
===由緒===
===由緒===
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垂仁天皇27年8月に[[倭姫命]]の神託を受けて、[[入道ケ岳]]・椿ケ岳から麓の現在地に猿田彦神の神霊を遷し、社殿を建てたのが始まりとされる。猿田彦神の末裔に'''行満'''というものがおり、現在の神社では、彼は[[役行者]]を導いたとされ、「修験神道」の開祖となったとして崇めている。
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[[垂仁天皇]]27年8月に[[倭姫命]]の神託を受けて、[[入道ケ岳]]・椿ケ岳から麓の現在地に猿田彦神の神霊を遷し、社殿を建てたのが始まりとされる。猿田彦神の末裔に'''行満'''というものがおり、現在の神社では、彼は[[役行者]]を導いたとされ、「修験神道」の開祖となったとして崇めている。
現在の社家山本家はこの行満の子孫という。
現在の社家山本家はこの行満の子孫という。
===古代===
===古代===
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747年の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に「椿社」とある(椿岸神社に比定する説もある)。
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747年(天平19年)の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に「椿社」とある([[椿岸神社]]に比定する説もある)。
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865年に従五位上から正五位下(三代実録)。これ以前に勲七等となっており、藤原仲麻呂の乱に際して授与されたか。
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865年(貞観7年)に従五位上から正五位下(三代実録)。これ以前に勲七等となっており、藤原仲麻呂の乱に際して授与されたか。
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891年に正五位上から従四位下(日本紀略)。
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891年(寛平3年)に正五位上から従四位下(日本紀略)。
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927年の『延喜式』神名帳に記載。神名帳に「大神社」とあるのは「椿大神社」と「小岸大神社」のみ。
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927年(延長5年)の『延喜式』神名帳に記載。神名帳に「大神社」とあるのは「椿大神社」と近くにある「[[小岸大神社]]」のみ。
===中世===
===中世===
伊勢国一宮となる。伊勢国一宮は都波岐神社とする説もあるが、南北朝時代奉納の大般若経に「奉施入一宮山本椿大明神」とある。
伊勢国一宮となる。伊勢国一宮は都波岐神社とする説もあるが、南北朝時代奉納の大般若経に「奉施入一宮山本椿大明神」とある。
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===近世===
===近世===
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*1532年、田丸合戦で落武者が神宮寺を焼く。
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*1532年(天文1年)、田丸合戦で落武者が神宮寺を焼く。
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*1583年、豊臣秀吉軍の峰城攻めで筒井順慶が椿大神社を焼く。
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*1583年(天正11年)、豊臣秀吉軍の峰城攻めで筒井順慶が椿大神社を焼く。
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*1586年、社殿棟上
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*1586年(天正14年)、社殿棟上
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*1594年、社殿棟上
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*1594年(文禄3年)、社殿棟上
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*1599年、社殿上葺
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*1599年(慶長4年)、社殿上葺
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*1605年、吉田家から神道裁許状。以後、歴代神主が受ける。
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*1605年(慶長10年)、吉田家から神道裁許状。以後、歴代神主が受ける。
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*1611年、社殿棟上
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*1611年(慶長16年)、社殿棟上
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*1622年、板倉勝重の発願で社殿棟上
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*1622年(元和8年)、板倉勝重の発願で社殿棟上
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*1647年、社殿修復
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*1647年(正保4年)、社殿修復
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*1662年、下椿岸神社の社殿造営、棟上
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*1662年(寛文2年)、下椿岸神社の社殿造営、棟上
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*1669年閏10月26日、三界神集社を境内の西にある殿山に創建。隣村との争論で山本村の勝訴を記念して八百万神を祀った。
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*1669年(寛文9年)閏10月26日、三界神集社を境内の西にある殿山に創建。隣村との争論で山本村の勝訴を記念して八百万神を祀った。
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*1680年、本社拝殿と万社拝殿を造営
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*1680年(延宝8年)、本社拝殿と万社拝殿を造営
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*1690年、神主山本家や神職巫女36人、檀家を離れた。
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*1690年(元禄3年)、神主山本家や神職巫女36人、檀家を離れた。
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*1694年、稲生神社の祭礼で同神社から座次について訴えられ争論。勝訴。
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*1694年(元禄7年)、稲生神社の祭礼で同神社から座次について訴えられ争論。勝訴。
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*1697年、橘三喜が参詣
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*1697年(元禄10年)、橘三喜が参詣
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*1701年、吉田兼敬筆の「一宮大明神」号を亀山藩主板倉重冬が装潢を命じ完成。
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*1701年(元禄14年)、吉田兼敬筆の「一宮大明神」号を亀山藩主板倉重冬が装潢を命じ完成。
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*1707年、板倉重冬が伊勢一宮として25石を寄進
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*1707年(宝永4年)、板倉重冬が伊勢一宮として25石を寄進
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*1712年、松陰霊社を創建
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*1712年(正徳2年)、松陰霊社を創建
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*1747年、亀山藩主石川総慶、本社修造
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*1747年(延享4年)、亀山藩主石川総慶、本社修造
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*1757年、石川総慶、本社末社修造。以後、本社修造のたびに産子改名札を本殿内に収めた。
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*1757年(宝暦7年)、石川総慶、本社末社修造。以後、本社修造のたびに産子改名札を本殿内に収めた。
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*1775年、石川総純、本社修造。
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*1775年(安永4年)、石川総純、本社修造。
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*1790年、石川総博、本社修造。
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*1790年(寛政2年)、石川総博、本社修造。
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*1794年、神楽殿造営。
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*1794年(寛政6年)、神楽殿造営。
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*1807年、石川総佐、本社末社修造。
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*1807年(文化4年)、石川総佐、本社末社修造。
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*1828年、石川総安、本社修造。
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*1828年(文政11年)、石川総安、本社修造。
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*1839年、石川総和、本社末社修造。
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*1839年(天保10年)、石川総和、本社末社修造。
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*1852年、石川総和、本社修造。
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*1852年(嘉永5年)、石川総和、本社修造。
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*1857年、石川総和、本社拝殿神輿殿修造。
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*1857年(安政4年)、石川総和、本社拝殿神輿殿修造。
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*1865年、石川成之、本社修造。
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*1865年(慶応1年)、石川成之、本社修造。
===近現代===
===近現代===
神宮寺が廃絶した。
神宮寺が廃絶した。
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*1871/8/15、亀山県第八区の郷社。1873年、改めて三重県六区2、3、4小区の郷社
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*1871年(明治4年)8/15、亀山県第八区の郷社。1873年(明治6年)、改めて三重県六区2、3、4小区の郷社
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*1881年本社末社修造
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*1881年(明治14年)本社末社修造
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*1906年12月、神饌幣帛料供進神社に指定
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*1906年(明治39年)12月、神饌幣帛料供進神社に指定
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*1907年11/19、椿岸神社を合祀。
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*1907年(明治40年)11/19、椿岸神社を合祀。
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*1908年4月17日、村社小岸大神社ほか57社を合祀。
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*1908年(明治41年)4月17日、村社小岸大神社ほか57社を合祀。
*1928年(昭和3年)11月、県社(神道史大辞典)。
*1928年(昭和3年)11月、県社(神道史大辞典)。
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*1965年3月、山本行隆禰宜、10年間の「みそぎ修行」を満願。
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*1965年(昭和40年)3月、山本行隆禰宜、10年間の「みそぎ修行」を満願。
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*1965年9月17日、台風で本社に倒木被害。23日神楽殿に遷座。
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*1965年(昭和40年)9月17日、台風で本社に倒木被害。23日神楽殿に遷座。
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*1966年4/11、松陰霊社跡に椿岸神社を復興し、その社殿を本社仮殿として遷座。復興は1961年から構想があったが中断していたところ、台風被害があったので、その倒木を使って造営した。
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*1966年(昭和41年)4/11、松陰霊社跡に椿岸神社を復興し、その社殿を本社仮殿として遷座。復興は1961年から構想があったが中断していたところ、台風被害があったので、その倒木を使って造営した。
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*1966年8/8、入道ケ岳に奥宮を創建。
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*1966年(昭和41年)8/8、入道ケ岳に奥宮を創建。
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*1968年、現在の本社社殿を造営
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*1968年(昭和43年)、現在の本社社殿を造営
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*1969年、椿講設立。
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*1969年(昭和44年)、椿講設立。
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*1970年10月13日、椿護国神社創建。
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*1970年(昭和45年)10月13日、椿護国神社創建。
==境内==
==境内==
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*西岸寺:真宗高田派。真慧が創建。江戸時代、神宮寺の仏堂を管理していたという。
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*[[西岸寺]]:真宗高田派。真慧が創建。江戸時代、神宮寺の仏堂を管理していたという。
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*石大神:三重県鈴鹿市小岐須町。巨岩の上にあった祠は椿大神社に合祀されたが、巨岩自体は信仰の対象として存続。官社「石神社」の論社。椿大神社別宮とされている。
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*[[石大神]]:三重県鈴鹿市小岐須町。巨岩の上にあった祠は椿大神社に合祀されたが、巨岩自体は信仰の対象として存続。官社「石神社」の論社。椿大神社別宮とされている。
*[[アメリカ椿大神社]]:
*[[アメリカ椿大神社]]:
==組織==
==組織==
===神主(前近代)===
===神主(前近代)===
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中世には神職の長官を「禰宜」と呼ぶことが多かったが、近世には「神主」と呼ぶようになったようだ。
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早くから吉田家から神道裁許状を受けた。また3人が吉田家から霊神号を受けているのが注目される。
*行満:山本家の祖。行満大明神。
*行満:山本家の祖。行満大明神。
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*山本行家()<>:之家も同一人物か。慶長10年吉田家から神道裁許状。
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*山本行家()<>:之家も同一人物か。1605年(慶長10年)[[吉田家]]から神道裁許状。
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*山本行次()<>:之次も同一人物か。1630年吉田家から神道裁許状。
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*山本行次()<>:之次も同一人物か。1630年(寛永7年)吉田家から神道裁許状。
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*山本行信()<>:行重より改名か(之重も同一人物か)。1657年吉田家から神道裁許状。1713年吉田家から簾正霊神号。
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*山本行信()<>:行重より改名か(之重も同一人物か)。1657年(明暦3年)吉田家から神道裁許状。1713年(正徳3年)吉田家から簾正霊神号。
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*山本行光()<>:1686年、吉田家から神道裁許状。1720年、吉田家から清白霊神号。
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*山本行光()<>:1686年(貞享3年)、吉田家から神道裁許状。1720年(享保5年)、吉田家から清白霊神号。
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*山本行厚()<>:1717年、吉田家から神道裁許状。1726年、吉田家から令全霊神号。
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*山本行厚()<>:1717年(享保2年)、吉田家から神道裁許状。1726年(享保11年)、吉田家から令全霊神号。
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*山本行賀()<>:1725年、吉田家から神道裁許状。
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*山本行賀()<>:1725年(享保10年)、吉田家から神道裁許状。
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*山本行英()<>:1742年、吉田家から神道裁許状。
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*山本行英()<>:1742年(寛保2年)、吉田家から神道裁許状。
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*山本行道()<>:1761年、従五位下に叙任。1797年、吉田家から神主還補。
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*山本行道()<>:1761年(宝暦11年)、従五位下に叙任。1797年(寛政9年)、吉田家から神主還補され、再任。
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*山本行教(-1796)<>:1785年、吉田家から神道裁許状。
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*山本行教(-1796)<>:1785年(天明5年)、吉田家から神道裁許状。1796年(寛政8年)死去。
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*山本行家(1796-1883)<>:初名は繁麿か。1813年、吉田家から神道裁許状。1883/11/19死去。
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*山本行家(1796-1883)<>:初名は繁麿か。1813年(文化10年)、吉田家から神道裁許状。1883年(明治16年)11/19死去。
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*山本行俊(1824-1874)<>:1841年吉田家から神道裁許状。1874年5/16死去。
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*山本行俊(1824-1874)<>:1841年(天保12年)吉田家から神道裁許状。1874年(明治7年)5/16死去。
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===近現代===
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===祠官・宮司(近現代)===
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*山本九春()<1871-1873?>:亀山藩士。蘭学者か。1871年8月、祠官。
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明治政府が神職の世襲を禁止したことから一時期、山本家以外のものが就任したが、やがて山本家の世襲に戻る(政府の世襲禁止の命令は全国的にも有名無実となる)。
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*阿部丸一()<1873?-1877?>:祠官。1873年5月、山本行俊から阿部丸一へ奉仕神社各神社の社殿宝物を引き継ぐ。1877年1月、氏子から職務怠慢で免職願い。
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*山本九春()<1871-1873?>:亀山藩士。社家の山本家の出身かどうかは不明。蘭学者か。1871年(明治4年)8月、祠官。
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*大久保清春()<1879->:祠官。1879年、祠官選挙願。同年には就任。
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*阿部丸一()<1873?-1877?>:祠官。1873年(明治6年)5月、山本行俊から阿部丸一へ奉仕神社各神社の社殿宝物を引き継ぐ。1877年(明治10年)1月、氏子から職務怠慢で免職願い。
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*山本行敬(1859-1927)<1894->:初名は首。1894年9月18日、社司。
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*大久保清春()<1879->:祠官。1879年(明治12年)、祠官選挙願。同年には就任。
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*95山本行輝(1888-1971)<>:斉生と号す。
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*山本行敬(1859-1927)<1894->:初名は首。1894年(明治27年)9月18日、社司。1927年(昭和2年)死去。
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*96山本行隆(1923-2002)<1971-2002>:1971年11月宮司就任。2002/8/1死去。
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*95山本行輝(1888-1971)<>:斉生と号す。1971年(昭和46年)死去。
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*97山本行恭()<2002->:2002/9/15就任。
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*96山本行隆(1923-2002)<1971-2002>:1971年(昭和46年)11月宮司就任。2002年(平成14年)8月1日死去。
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*97山本行恭()<2002->:2002年(平成14年)9月15日就任。
(『椿大神社近世年表』ほか)
(『椿大神社近世年表』ほか)
[[category:三重県]]
[[category:三重県]]

2019年6月2日 (日) 時点における版

椿大神社(つばき・おおかみ・の・やしろ)は、三重県鈴鹿市にある猿田彦信仰の神社。主祭神は「猿田彦大神」。相殿として瓊々杵尊、栲幡千々姫命、配祀として天之鈿女命木花咲耶姫命、さらに前座として行満大明神が祀られている(神社ウェブサイト)(行満大明神または行満大菩薩は中世まで椿大神社の神号の一つだった)。都波岐奈加等神社とともに伊勢国一宮の論社とされる。県社別表神社

目次

歴史

由緒

垂仁天皇27年8月に倭姫命の神託を受けて、入道ケ岳・椿ケ岳から麓の現在地に猿田彦神の神霊を遷し、社殿を建てたのが始まりとされる。猿田彦神の末裔に行満というものがおり、現在の神社では、彼は役行者を導いたとされ、「修験神道」の開祖となったとして崇めている。 現在の社家山本家はこの行満の子孫という。

古代

747年(天平19年)の『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』に「椿社」とある(椿岸神社に比定する説もある)。 865年(貞観7年)に従五位上から正五位下(三代実録)。これ以前に勲七等となっており、藤原仲麻呂の乱に際して授与されたか。 891年(寛平3年)に正五位上から従四位下(日本紀略)。   927年(延長5年)の『延喜式』神名帳に記載。神名帳に「大神社」とあるのは「椿大神社」と近くにある「小岸大神社」のみ。

中世

伊勢国一宮となる。伊勢国一宮は都波岐神社とする説もあるが、南北朝時代奉納の大般若経に「奉施入一宮山本椿大明神」とある。 また椿宮大明神や行満大菩薩などと呼ばれていた(現在では行満は猿田彦神の末裔で、社家山本家の祖とされている)。

獅子舞神楽が隆盛し、3年に一度、伊勢国北部を巡行していた。 この流れをくむという獅子舞神楽が各地に分布する。

近世

  • 1532年(天文1年)、田丸合戦で落武者が神宮寺を焼く。
  • 1583年(天正11年)、豊臣秀吉軍の峰城攻めで筒井順慶が椿大神社を焼く。
  • 1586年(天正14年)、社殿棟上
  • 1594年(文禄3年)、社殿棟上
  • 1599年(慶長4年)、社殿上葺
  • 1605年(慶長10年)、吉田家から神道裁許状。以後、歴代神主が受ける。
  • 1611年(慶長16年)、社殿棟上
  • 1622年(元和8年)、板倉勝重の発願で社殿棟上
  • 1647年(正保4年)、社殿修復
  • 1662年(寛文2年)、下椿岸神社の社殿造営、棟上
  • 1669年(寛文9年)閏10月26日、三界神集社を境内の西にある殿山に創建。隣村との争論で山本村の勝訴を記念して八百万神を祀った。
  • 1680年(延宝8年)、本社拝殿と万社拝殿を造営
  • 1690年(元禄3年)、神主山本家や神職巫女36人、檀家を離れた。
  • 1694年(元禄7年)、稲生神社の祭礼で同神社から座次について訴えられ争論。勝訴。
  • 1697年(元禄10年)、橘三喜が参詣
  • 1701年(元禄14年)、吉田兼敬筆の「一宮大明神」号を亀山藩主板倉重冬が装潢を命じ完成。
  • 1707年(宝永4年)、板倉重冬が伊勢一宮として25石を寄進
  • 1712年(正徳2年)、松陰霊社を創建
  • 1747年(延享4年)、亀山藩主石川総慶、本社修造
  • 1757年(宝暦7年)、石川総慶、本社末社修造。以後、本社修造のたびに産子改名札を本殿内に収めた。
  • 1775年(安永4年)、石川総純、本社修造。
  • 1790年(寛政2年)、石川総博、本社修造。
  • 1794年(寛政6年)、神楽殿造営。
  • 1807年(文化4年)、石川総佐、本社末社修造。
  • 1828年(文政11年)、石川総安、本社修造。
  • 1839年(天保10年)、石川総和、本社末社修造。
  • 1852年(嘉永5年)、石川総和、本社修造。
  • 1857年(安政4年)、石川総和、本社拝殿神輿殿修造。
  • 1865年(慶応1年)、石川成之、本社修造。

近現代

神宮寺が廃絶した。

  • 1871年(明治4年)8/15、亀山県第八区の郷社。1873年(明治6年)、改めて三重県六区2、3、4小区の郷社
  • 1881年(明治14年)本社末社修造
  • 1906年(明治39年)12月、神饌幣帛料供進神社に指定
  • 1907年(明治40年)11/19、椿岸神社を合祀。
  • 1908年(明治41年)4月17日、村社小岸大神社ほか57社を合祀。
  • 1928年(昭和3年)11月、県社(神道史大辞典)。
  • 1965年(昭和40年)3月、山本行隆禰宜、10年間の「みそぎ修行」を満願。
  • 1965年(昭和40年)9月17日、台風で本社に倒木被害。23日神楽殿に遷座。
  • 1966年(昭和41年)4/11、松陰霊社跡に椿岸神社を復興し、その社殿を本社仮殿として遷座。復興は1961年から構想があったが中断していたところ、台風被害があったので、その倒木を使って造営した。
  • 1966年(昭和41年)8/8、入道ケ岳に奥宮を創建。
  • 1968年(昭和43年)、現在の本社社殿を造営
  • 1969年(昭和44年)、椿講設立。
  • 1970年(昭和45年)10月13日、椿護国神社創建。

境内

元来の鎮座地である入道ケ嶽山頂に奥宮がある。山中には「いしぐらの磐座」「いしがみの磐座」がある。 別宮として天之鈿女命を祀る椿岸神社がある。官社(式内社)で、相殿に太玉命天之児屋根命を祀る。行満堂神霊殿は行満を主祭神に「神宮寺6ヵ寺ゆかりの6神」を祀る。また崇敬者物故者などを祀り、祖霊社の役割を果たしている。参道途中にある土公神陵は猿田彦神の陵墓とされる。御船磐座は天孫降臨のときに乗ってきた船を繋ぎ止めたところとされる。 また椿護国神社、県主神社(官社)、松下幸之助社がある。アメリカには分社であるアメリカ椿大神社がある。


  • 神明社:本社に合祀。
  • 松蔭霊社:本社に合祀。
  • 万社:江戸時代に廃絶。
  • 三界神集社:本社に合祀。


  • 神宮寺:廃絶。
    • 阿弥陀寺:
    • 東光寺:
    • 玉伝寺:
    • 大日寺:境内にあった。
    • 高雲寺:
    • 国照寺:


  • 西岸寺:真宗高田派。真慧が創建。江戸時代、神宮寺の仏堂を管理していたという。
  • 石大神:三重県鈴鹿市小岐須町。巨岩の上にあった祠は椿大神社に合祀されたが、巨岩自体は信仰の対象として存続。官社「石神社」の論社。椿大神社別宮とされている。
  • アメリカ椿大神社

組織

神主(前近代)

中世には神職の長官を「禰宜」と呼ぶことが多かったが、近世には「神主」と呼ぶようになったようだ。 早くから吉田家から神道裁許状を受けた。また3人が吉田家から霊神号を受けているのが注目される。

  • 行満:山本家の祖。行満大明神。
  • 山本行家()<>:之家も同一人物か。1605年(慶長10年)吉田家から神道裁許状。
  • 山本行次()<>:之次も同一人物か。1630年(寛永7年)吉田家から神道裁許状。
  • 山本行信()<>:行重より改名か(之重も同一人物か)。1657年(明暦3年)吉田家から神道裁許状。1713年(正徳3年)吉田家から簾正霊神号。
  • 山本行光()<>:1686年(貞享3年)、吉田家から神道裁許状。1720年(享保5年)、吉田家から清白霊神号。
  • 山本行厚()<>:1717年(享保2年)、吉田家から神道裁許状。1726年(享保11年)、吉田家から令全霊神号。
  • 山本行賀()<>:1725年(享保10年)、吉田家から神道裁許状。
  • 山本行英()<>:1742年(寛保2年)、吉田家から神道裁許状。
  • 山本行道()<>:1761年(宝暦11年)、従五位下に叙任。1797年(寛政9年)、吉田家から神主還補され、再任。
  • 山本行教(-1796)<>:1785年(天明5年)、吉田家から神道裁許状。1796年(寛政8年)死去。
  • 山本行家(1796-1883)<>:初名は繁麿か。1813年(文化10年)、吉田家から神道裁許状。1883年(明治16年)11/19死去。
  • 山本行俊(1824-1874)<>:1841年(天保12年)吉田家から神道裁許状。1874年(明治7年)5/16死去。

祠官・宮司(近現代)

明治政府が神職の世襲を禁止したことから一時期、山本家以外のものが就任したが、やがて山本家の世襲に戻る(政府の世襲禁止の命令は全国的にも有名無実となる)。

  • 山本九春()<1871-1873?>:亀山藩士。社家の山本家の出身かどうかは不明。蘭学者か。1871年(明治4年)8月、祠官。
  • 阿部丸一()<1873?-1877?>:祠官。1873年(明治6年)5月、山本行俊から阿部丸一へ奉仕神社各神社の社殿宝物を引き継ぐ。1877年(明治10年)1月、氏子から職務怠慢で免職願い。
  • 大久保清春()<1879->:祠官。1879年(明治12年)、祠官選挙願。同年には就任。
  • 山本行敬(1859-1927)<1894->:初名は首。1894年(明治27年)9月18日、社司。1927年(昭和2年)死去。
  • 95山本行輝(1888-1971)<>:斉生と号す。1971年(昭和46年)死去。
  • 96山本行隆(1923-2002)<1971-2002>:1971年(昭和46年)11月宮司就任。2002年(平成14年)8月1日死去。
  • 97山本行恭()<2002->:2002年(平成14年)9月15日就任。

(『椿大神社近世年表』ほか)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%A4%BF%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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