ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

江戸・円福寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
1行: 1行:
-
'''円福寺'''(えんぷくじ)は、江戸愛宕にあった[[真言宗]]寺院。廃絶。近世は、[[江戸・弥勒寺|弥勒寺]]・[[江戸・弥勒寺|弥勒寺]]・[[根生院]](当初は[[江戸・護持院|護持院]])とともに[[真言宗新義派]]の[[江戸触頭寺院]](江戸四カ寺)の一つ。[[江戸・愛宕神社]]別当。[[大覚寺門跡]]の直院家。法流は[[醍醐寺無量寿院]]末。宝珠院と号す。山号は愛宕山。(参考:同名寺院[[円福寺]])
+
'''円福寺'''(えんぷくじ)は、江戸愛宕にあった[[真言宗]]寺院。廃絶。近世は、[[江戸・弥勒寺|弥勒寺]]・[[江戸・真福寺|真福寺]]・[[根生院]](当初は[[江戸・護持院|護持院]])とともに[[真言宗新義派]]の[[江戸触頭寺院]](江戸四カ寺)の一つ。[[江戸・愛宕神社]]別当。[[大覚寺門跡]]の直院家。法流は[[醍醐寺無量寿院]]末。宝珠院と号す。山号は愛宕山。(参考:同名寺院[[円福寺]])
==歴史==
==歴史==

2024年4月14日 (日) 時点における版

円福寺(えんぷくじ)は、江戸愛宕にあった真言宗寺院。廃絶。近世は、弥勒寺真福寺根生院(当初は護持院)とともに真言宗新義派江戸触頭寺院(江戸四カ寺)の一つ。江戸・愛宕神社別当。大覚寺門跡の直院家。法流は醍醐寺無量寿院末。宝珠院と号す。山号は愛宕山。(参考:同名寺院円福寺

目次

歴史

  • 1603年(慶長8年)9月:下妻円福寺の神証が愛宕神社を奉斎し、住房として遍照院を創建。
  • 1610年(慶長15年):円福寺を触頭とする[1]
  • 1619年(元和5年):円福寺と改称。
  • 明治初年:廃絶。

子院

  • 金剛院:愛宕神社本地堂の別当。脇坊。
  • 千蔵院:仙蔵院。
  • 万蔵院:満蔵院
  • 教證院:教照院。本尊は不動明王
  • 玉蔵院
  • 普賢院
  • 寿圭院
  • 華蔵院


組織

歴代住職

  • 1神証(生没年不詳)<1603-1619>:1603年(慶長8年)遍照院を創建。1619年(元和5年)引退[2]。春音。春香。
  • 2俊賀(生没年不詳)<1619-1636>:初代とすることもある。下野国西方村出身。1619年(元和5年)下妻円福寺住職を経て1619年(元和5年)遍照院住職となり、遍照院を円福寺と改称する[3]。1636年(寛永13年)、良誉に譲る[4]。円精。円林。
  • 3良誉(1608-1657)<1636-1647>:長谷寺6世。1636年(寛永13年)俊賀の推挙で円福寺住職[5]。1647年(正保4年)秋、円福寺を俊宥に譲って智積院元寿に師事[6]
  • 4俊宥(生没年不詳)<1647-?>:1647年(正保4年)秋、良誉から譲られ円福寺住職[7]
  • 宥貞(1592-1664)<1649-1656>:智積院6世。宝仙寺16世を経て1649年(慶安2年)11月1日、円福寺住職[8]。1656年(明暦2年)智積院化主。
  • 運敞(1614-1693)<1654-1661>:智積院7世。1656年(明暦2年)、円福寺住職[9](1654年(承応3年)10月とも[10])。
  • 隆敞(?-1676)<1661-1676>:三学院5世。1661年(寛文1年)円福寺住職[11]。1676年(延宝4年)4月9日死去。
  • 信盛(1620-1693)<1676-1682>:智積院8世。1676年(延宝4年)夏、円福寺住職[12]
  • 専戒(1640-1710)<?-1697>:智積院10世。
  • 覚眼(1643-1725)<?-1705>:智積院11世。江戸・護持院13世。
  • 義山(1646-1722)<1705-1709>:智積院12世。三学院12世。1705年(宝永2年)円福寺住職[13]。1709年(宝永6年)智積院化主。
  • 智興(1661-1728)<1714-1718>:智積院14世。1714年(正徳4年)、円福寺住職[14]。1718年(享保3年)智積院化主。
  • 14伝忍(?-1725)<?-1725>:1725年(享保10年)死去。
  • 15覚翁(1665-1728)<1725-?>:伊勢国二見出身。1690年(元禄3年)矢橋石津寺住職。明星院住職。1701年(元禄14年)遍照院住職。1723年(享保8年)5月、尾張・長久寺16世[15]近江・神照寺18世を兼務。1725年(享保10年)円福寺住職15世[16]。教音。
  • 法漸(生没年不詳)<~1729~>:長久寺17世。性海寺44世。1709年(宝永6年)10月性海寺住職。1725年(享保10年)8月、長久寺住職。1729年(享保14年)円福寺に在職。
  • 亮英(生没年不詳)<~1735~>:神照寺19世か。1735年(享保20年)円福寺に在職。
  • 幸雄(?-1744?)<?-1744?>:1744年(延享1年)死去か[17]
  • 覚遠(1691-1771)<1744-1756>:智積院19世。1744年(延享1年)円福寺住職[18]
  • 浄空(1693-1775)<1756-1759>:智積院20世。1756年(宝暦6年)円福寺住職[19]
  • 胎通(1720-1798)<?-1787>:智積院24世。意純房。
  • 良恭(1720-1799)<1799-1799>:学僧。安房宝珠院。大聖院。1790年(寛政2年)瀧谷寺住職。1799年(寛政11年)1月、将軍徳川家斉に謁見し、円福寺住職となるが同月16日死去[20]
  • 浄光(1729-1803)<?-1803>:智積院26世。真俊房。
  • 謙順(1740-1812)<1803-1804>:智積院28世。1803年(享和3年)7月29日、円福寺住職[21]
  • 玄瑜(1756-1826)<?-1826>:1756年(宝暦6年)生。1826年(文政9年)死去。71歳。元瑜。
  • 隆瑜(1773-1850)<1831-1834>:智積院33世。1831年(天保2年)円福寺住職[22]。1834年(天保5年)3月智積院化主。
  • 禅宅(1785-1851)<?-1837>:智積院34世。
  • 貫三(?-1846)<不詳>:生年不明。智山学匠。円福寺住職。1846年(弘化3年)死去[23]。了純房。
  • 亮誘(?-1853)<~1851~>:出羽国本道寺村出身。1851年(嘉永4年)『江戸愛宕山略由来記付勧化状』を著す。1853年(嘉永6年)3月7日死去[24]。智源。1856年(安政3年)大覚寺から権僧正追贈[25]
  • 頼如(1801-1862)<1853-1856>:智積院38世。1853年(嘉永6年)円福寺住職[26]

資料

  • 『東京市史稿』[27]
  • 『東京市史稿』「愛宕円福寺開帳」[28]
  • 『東京市史稿』「愛宕円福寺修理」[29]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%83%BB%E5%86%86%E7%A6%8F%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール