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真宗大谷派八尾別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月18日 (日)

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'''真宗大谷派八尾別院'''(しんしゅうおおたには・やお・べついん)は、大阪府八尾市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。寺号は'''大信寺'''
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'''真宗大谷派八尾別院'''(しんしゅうおおたには・やお・べついん)は、大阪府八尾市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。寺号は'''大信寺'''。別格別院だった(大谷派寺院録)。明治初年、河内県庁が置かれた。
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[[東本願寺]]12代[[教如]]が慶長12年(1607)に創建した。元々、[[西本願寺]]に付いた久宝寺御坊[[顕証寺]]を中心とする寺内町があったが、11年(1606)、年貢を巡っての役人と町民が対立し、一部の町民が東側に新たに町を設けた。これを東本願寺に付いた[[河内・慈願寺]]が支援し、教如が御坊を設けた。その後、13代宣如の8子である'''宣縁'''が2代住職となった。近世を通じて連枝が住職に入り、輪番制となったのは明治18年(1885)のことであった。万治3年(1660)現在地に移転し伽藍が整えられた。天明8年(1788)、東本願寺が京都大火で焼失すると、御坊の本堂が京都に移築され、御影堂として利用された。堂宇は寛政11年(1799)に返還された。明治初年、河内県が設置されたとき、対面所に県庁が置かれた。昭和28年(1953)、本堂は突然、地鳴りのような轟音を立てて倒壊した。シロアリの被害であった。42年(1967)復興した。数少ない教如の名号筆「十字名号」が残されている。
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== 歴史 ==
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[[東本願寺]]12代[[教如]]が1607年(慶長12年)に創建した。元々、[[西本願寺]]に付いた久宝寺御坊[[顕証寺]]を中心とする寺内町があったが、1606年(慶長11年)、年貢を巡っての役人と町民が対立し、一部の町民が東側に新たに町を設けた。これを東本願寺に付いた[[河内・慈願寺]]が支援し、教如が御坊を設けた。その後、13代宣如の8子である宣縁が2世住職となった。近世を通じて連枝が住職に入り、輪番制となったのは1885年(明治18年)のことであった。1660年(万治3年)現在地に移転し伽藍が整えられた。1788年(天明8年)、東本願寺が京都大火で焼失すると、御坊の本堂が京都に移築され、御影堂として利用された。堂宇は1799年(寛政11年)に返還された。明治初年、河内県が設置されたとき、対面所に県庁が置かれた。1953年(昭和28年)、本堂は突然、地鳴りのような轟音を立てて倒壊した。シロアリの被害であった。1967年(昭和42年)復興した。数少ない教如の名号筆「十字名号」が残されている。(木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部)
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== 参考文献 ==
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==組織==
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*木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
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===住職===
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*1[[教如]](1558-1614)<1607->:
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*2宣縁(1637-1672)<>:従因。宣如の四男。1637年(寛永14年)生。1646年(正保3年)得度。1672年(寛文12年)7月14日死去。36歳。智光院と号す。
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*3琢性(1649-1700)<?-1678>:[[東本願寺]]16世。一如。1678年(延宝6年)東本願寺法嗣となる。
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*4常智(1667-1717)<1681->:晴含。[[本統寺]]4世。1667年(寛文7年)生。1681年(天和1年)12月11日、大信寺住職となる。1717年(享保2年)2月24日死去。51歳。深広院(深厚院)と号す。
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*5性含(1712-1745)<>:真智。常智の長男。1712年(正徳2年)生。1745年(延享2年)死去。明了院と号す。
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*6真覚(1715-1761)<>:超芸。常智の次男。1715年(正徳5年)生。[[和泉・真宗寺]]16世を経て大信寺を継ぐ。1761年(宝暦11年)死去。円妙院と号す。
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*達央(1776-?)<>:[[長浜別院]]7世。最勝院、超発院と号す。
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*7大谷達智(1827-1885)<>:朗晶。本統寺5世。1885年(明治18年)5月9日死去。深量院と号す。
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*8大谷達善尼(?-1867)<>:達央の室。達如の娘?。1867年(慶応3年)10月8日死去。超誓院(超世院)と号す。
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*大谷勝尊(1858-1913)<>:高田本誓寺を兼務。
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*9大谷瑩心(1898-1937)<1930-1937>:[[船場本徳寺]]19世。大谷勝尊の子。1898年(明治31年)生。1918年(大正7年)得度。1924年(大正13年)本徳寺住職。1930年(昭和5年)大信寺住職を兼務。1929年(昭和4年)権僧正。1937年(昭和12年)11月5日死去。40歳。死去直前に権大僧正。広開院と号す。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1186291/1/142]
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2023年6月18日 (日) 時点における最新版

真宗大谷派八尾別院(しんしゅうおおたには・やお・べついん)は、大阪府八尾市にある真宗大谷派別院。寺号は大信寺。別格別院だった(大谷派寺院録)。明治初年、河内県庁が置かれた。

歴史

東本願寺12代教如が1607年(慶長12年)に創建した。元々、西本願寺に付いた久宝寺御坊顕証寺を中心とする寺内町があったが、1606年(慶長11年)、年貢を巡っての役人と町民が対立し、一部の町民が東側に新たに町を設けた。これを東本願寺に付いた河内・慈願寺が支援し、教如が御坊を設けた。その後、13代宣如の8子である宣縁が2世住職となった。近世を通じて連枝が住職に入り、輪番制となったのは1885年(明治18年)のことであった。1660年(万治3年)現在地に移転し伽藍が整えられた。1788年(天明8年)、東本願寺が京都大火で焼失すると、御坊の本堂が京都に移築され、御影堂として利用された。堂宇は1799年(寛政11年)に返還された。明治初年、河内県が設置されたとき、対面所に県庁が置かれた。1953年(昭和28年)、本堂は突然、地鳴りのような轟音を立てて倒壊した。シロアリの被害であった。1967年(昭和42年)復興した。数少ない教如の名号筆「十字名号」が残されている。(木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部)

組織

住職

  • 1教如(1558-1614)<1607->:
  • 2宣縁(1637-1672)<>:従因。宣如の四男。1637年(寛永14年)生。1646年(正保3年)得度。1672年(寛文12年)7月14日死去。36歳。智光院と号す。
  • 3琢性(1649-1700)<?-1678>:東本願寺16世。一如。1678年(延宝6年)東本願寺法嗣となる。
  • 4常智(1667-1717)<1681->:晴含。本統寺4世。1667年(寛文7年)生。1681年(天和1年)12月11日、大信寺住職となる。1717年(享保2年)2月24日死去。51歳。深広院(深厚院)と号す。
  • 5性含(1712-1745)<>:真智。常智の長男。1712年(正徳2年)生。1745年(延享2年)死去。明了院と号す。
  • 6真覚(1715-1761)<>:超芸。常智の次男。1715年(正徳5年)生。和泉・真宗寺16世を経て大信寺を継ぐ。1761年(宝暦11年)死去。円妙院と号す。
  • 達央(1776-?)<>:長浜別院7世。最勝院、超発院と号す。
  • 7大谷達智(1827-1885)<>:朗晶。本統寺5世。1885年(明治18年)5月9日死去。深量院と号す。
  • 8大谷達善尼(?-1867)<>:達央の室。達如の娘?。1867年(慶応3年)10月8日死去。超誓院(超世院)と号す。
  • 大谷勝尊(1858-1913)<>:高田本誓寺を兼務。
  • 9大谷瑩心(1898-1937)<1930-1937>:船場本徳寺19世。大谷勝尊の子。1898年(明治31年)生。1918年(大正7年)得度。1924年(大正13年)本徳寺住職。1930年(昭和5年)大信寺住職を兼務。1929年(昭和4年)権僧正。1937年(昭和12年)11月5日死去。40歳。死去直前に権大僧正。広開院と号す。[1]


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