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真宗大谷派高山別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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== 歴史 == | == 歴史 == |
2015年9月22日 (火) 時点における版
真宗大谷派高山別院(しんしゅうおおたには・たかやま・べついん)は、岐阜県高山市にある真宗大谷派の別院。寺号は照蓮寺。高山御坊。
歴史
親鸞弟子の嘉念坊善俊が創建したとされる。善俊は、後鳥羽上皇の第12皇子とも、浄興寺善性房の子で上皇の皇孫とも言われる。伊豆三島で京都に向かう親鸞に出会い、弟子となったという。 飛騨国白川郷鳩ケ谷(白川村鳩谷)に入り、照蓮寺を創建した。飛騨に真宗が伝わった最初という。まもなく飯島(白川村飯島)に移転した。善俊は弘安5年(1282)に没した。
長享2年(1488)、白川郷に拠点を置く幕府の内ヶ島為氏は、加賀一向一揆の一国支配に脅威を抱き、照蓮寺を焼き討ちした。10代住職明教は自害したという。 その遺児明心は永平寺で育てられ、15歳で大坂に蓮如を、山科に実如を訪ね、照蓮寺再興の許しを得た。実如の仲介で内ヶ島氏と和睦して帰国。永正元年(1504)、白川郷中野(高山市荘川町中野)に本堂を立てた。明心と13代了教は周辺地域に40ケ所以上の道場を開いたという。 天正13年(1585)、豊臣秀吉の命で飛騨に侵攻した金森長近は照蓮寺と協調する姿勢を取り、高山に寺地を寄進して本堂を立てた。石山合戦では教如を支持し、分立の際には東本願寺に従った。
のち金森家から従純が入り、東本願寺13代宣如六女の佐奈姫を娶った。飛騨、美濃、越中、信濃に末寺90寺を抱えた触頭となったが、金森家が転封になると庇護を失い、末寺との軋轢が表面化した。17代一乗は元禄16年(1703)、本山に献上し、高山御坊となった。
旧地の白川郷中野には掛所として心行坊が置かれていた。現存最古の浄土真宗建築という。明治になり、本寺と同じく照蓮寺と称した。戦後、御母衣ダム建設のため中野地区が水没することになり、昭和36年(1961)、高山市内に移転した。堀端・照蓮寺。善俊の墓もある。
参考文献
- 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部