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神道大成教

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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(?歴代管長)
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==組織==
==組織==
===歴代管長===
===歴代管長===
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*1平山省斎(1815-1890):幕臣。外国奉行。[[日枝神社]]宮司、[[氷川神社]]大宮司を歴任。[[御嶽教]]初代管長を兼任。『本教真訣』『修道真法』。
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{|class="wikitable"
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*2磯部最信(1821-1898):田安家の家臣。相川県権参事。[[度津神社]]宮司?。『安心立命説』『祝詞集』。
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|+神道大成教の歴代管長
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*(事務取扱)東宮千別(1833-1897):下野の[[亀岡八幡宮]]神職。
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!style="width:5%;"|歴代
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*(事務取扱)村越鉄善(1825‐1908):
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!style="width:10%;"|名前
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*3中山信徴(1846-1917):水戸藩附家老・中山家14代。松岡(手綱)藩主。[[日光東照宮]]9代宮司。氷川神社大宮司。
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!style="width:10%;"|生没年
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*4永井直哉(1850-1912):大和櫛羅藩の第2代藩主。永井家宗家13代。子爵。
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!style="width:10%;"|在職年
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*(事務取扱)笹田黙介(1846-1925):初代埼玉県警部長。秩父事件を処理。
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!style="width:65%;"|略歴
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*(事務取扱)井上信鉄?-1933):[[井上正鉄]]の子孫。
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*5笹田黙介(1846-1925):事務取扱より就任。
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|1
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*6井上信鉄(?-1933):事務取扱より就任。
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|平山省斎
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*7杉本鉄幸:亀卜家らしい。著書『杉本亀卜宅相秘鈔 皇国古伝』。
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|1815-1890
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*8佐伯有義:
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|1882-1890
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*9佐野常羽(1871-1956):佐野常民の子。海軍少将。ボーイスカウトの設立者。
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|幕臣出身の神職・神道家。外国奉行。名は敬忠。[[日枝神社]]宮司、[[氷川神社]]大宮司を歴任。[[御嶽教]]初代管長を兼任。文化12年2月19日生。陸奥国三春藩出身。藩士黒岡活円斎の子。江戸に出て、桑原北林、安積艮斎に師事。1850年(嘉永3年)小普請の平山源太郎の養子となる。1855年(安政2年)岩瀬忠震に同行して長崎へ。外交に奔走し、江戸と京都を往復すること14回。維新の時には徳川慶喜の側近として随従。1868年(明治1年)1月、若年寄を仰せ付けられるが辞職する。1872年(明治5年)、稲葉正邦の勧めで神官教導職となり官社の宮司として氷川神社の改築や日枝神社の昇格に尽力した。1872年(明治5年)9月25日権少教正。翌年2月22日権中教正。3月4日、氷川神社大宮司。11月4日中教正。翌年4月4日、依願免官し教導職に専任。8月19日、権大教正。1875年(明治8年)3月22日、日枝神社祠官。1876年(明治9年)4月22日、氷川神社大宮司に再任し、5月10日に日枝神社祠官を兼任。1877年(明治10年)3月、神道事務局から禊教総管に任じられ、禊教社(坂田派(「禊教」)と東宮派(「大成教禊教」))を管轄する。同年12月8日に制度改正で免官となり12日に氷川神社宮司となる。1879年(明治12年)5月10日、大教正。9月、大成教会を設立。本荘宗秀、小笠原長行、板倉勝静(松叟)、大給恒らと懇意で、特に板倉は親しく大成教の創立員となっている。神官教導職分離を受け、1882年(明治15年)1月23日、依願免官。5月、大成教特立許可を得て管長となる。1884年(明治17年)8月9日、改めて神道総裁から大成教管長に任命される。各地で巡教し、鍛冶橋監獄(東京監獄、市ケ谷刑務所)や宇都宮監獄での説教(教誨)も行った。1875年(明治8年)、外務省から幕末外交史の執筆依頼を受けるが、果たさず。1890年(明治23年)5月22日死去。[[伊勢神宮|神宮]]祭主久邇宮朝彦親王から「素山彦弘道命」の神号を下賜された(波多越与一、1933年(昭和8年)『大日本神社志附録編』大日本敬神会本部)。養子には、日本赤十字社の設立に尽力した男爵平山成信(1854-1929、叔父竹村久成の子)や静岡新聞編集長などを務めた自由民権家の平山陳平(1839-1889)がおり、弟子には桑原芳樹(桑原北林の養子。伊勢神宮少宮司)がいる。日記は外交史料「敬忠日記」(東京大学史料編纂所蔵1[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/list/idata/T16/II_230ho_/550/1/]~6[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/list/idata/T16/II_230ho_/550/6/])として知られる。著書として『本教真訣』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816072][http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816071][http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816073][http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0364-013110][http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0357-011711](『同略解』[http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0357-011712])、『修道真法』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815446][http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816073]、『俳教真訣』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816009][http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko18/bunko18_00921/index.html](『同略解』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816010][http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1537/index.html])、『省斎遺稿』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/894021]、『神皇系統』[http://iss.ndl.go.jp/books/R000000054-I000037672-00]などがある。「平山省斎印譜」[http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/thumbnailChild/reservoir/1810545192]。関連文献として『省斎年譜草案』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900096][https://books.google.co.jp/books?id=sjoJGP_HyAoC]、「平山敬忠贈位内申書」[https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000000823940.html][http://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000000822644]、『教派神道の形成』、『平山省斎と明治の神道』。[[平山省斎墓|墓所]]は[[谷中霊園]]にある。
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*10前橋庄三郎(?-1948):禊教門人(現・唯一神道禊教)。『禊の真理』。
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*11赤塚新:
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*(事務取扱)笹木福太郎(?-1958):
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|磯部最信
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*(事務取扱)栃谷吉太郎(?-1982):
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|1821-1898
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*12栃谷吉太郎(?-1982):
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|1890-1894
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*13久保安太郎(?-1966):
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|田安家家臣出身の神道家。歌人。相川県権参事。[[度津神社]]宮司。明治初年、佐渡の相川県に赴任し、参事(知事に当たる)の鈴木重嶺を補佐。度津神社宮司を務め、[[相川県中教院]]の開設に尽力した。東京に戻り、平山省斎の大成教会設立に協力。副管長となった。1890年(明治23年)、管長に就任した。1894年(明治27年)、『万朝報』が大成教傘下の[[蓮門教会]]を批難する記事を連載し、対応に追われる。一度、蓮門教祖島村みつを解任したが、騒動が落ち着いた頃、復職を認めた結果、その責任を問われ、11月16日、管長を解職される(『蓮門教衰亡史』)。著書は、『神道唱歌』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815627]、『佐渡名所歌集』[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000503435-00]、『安心立命訣』、『祝詞集』、『含翠庭雑録』など。墓所不明。
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*14栃谷吉太郎(?-1982):
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*15飯田金吾(?-1998):
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|(事務取扱)
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*16飯田典親:
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|(東宮千別)
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|1833-1897
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|(1894-1895)
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|幕末維新期の[[禊教]]門人。下野の[[亀岡八幡宮]](栃木県芳賀郡益子町)神職。常陸国宍戸藩士の孫として宍戸町で生まれる。[[日光山]]で学び、1854年(安政1年)、亀岡八幡宮社家の東宮家の養子となる。1856年(安政3年)、[[井上正鉄]]の法流を受け継ぐ但唱が住職をしていた江戸木下川の浄光寺で村越守一(1813-1880)に出会い、禊教に入門。禁教下で極秘裏に布教を始める。1858年(安政5年)養父が亡くなり、神主を継ぐ。1862年(文久2年)に門下が大きな弾圧を受けたため、門人たちを故郷に匿う。1869年(明治2年)2月、東京で布教開始。1872年(明治5年)4月に教導職の制度ができると、5月3日、門下の代表者として公認を政府に出願。同月11日から教部省が府内の各神社で説教会を開くと、門人らも神田神社で説教した。8月22日、吐菩加美講の許可を受け、禊教として初の政府公認の教団組織を設立。教導職訓導となった。しかし、門下全体を完全にまとめることができず、坂田派(現在の「禊教」と「神道禊教」)が分立する結果となった。1878年(明治11年)から翌年にかけて、[[三宅島]]の[[井上正鉄の墓]]を東京に改葬したが、門人の間でまとまらず、東宮派は[[谷中霊園]]に巨大な墓碑を建立する一方、坂田派は上野に[[井上神社]]を創建し分裂が決定的になった。その他の禊教は1879年(明治12年)11月、大成教会に所属した。1881年(明治14年)、亀岡八幡宮の本殿を再建。東宮本院を開くと共に、大成教に所属した禊教の重鎮として門下の統合に尽力するが、困難を極めた。1894年(明治27年)11月の磯部最信の管長解任を受けて、事務取扱に就任し、12月19日から翌年11月25日まで1年間務める(『官報』)。1896年(明治29年)8月には自派の教会の独立を試みるが果たせず、1897年(明治30年)7月2日死去。(『神道大成教 禊教会本院百五十年小史』)
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|(村越鉄善)
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|1825-1908
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|(1894-1895)
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|幕末維新期の禊教門人。井上正鉄の直弟子の村越正久の次男。村越守一と坂田正安兄弟の甥。村越守一に師事。1858年(安政5年)、産霊の伝を受ける。兄の鉄久の養子となり、村越本家を継ぐ。維新後は木下川村の白鬚神社や[[氷川神社]]の神職を務めた。1894年(明治27年)11月の磯部最信の管長解任を受けて、事務取扱に就任し、12月19日から翌年11月25日まで1年間務める(『官報』)。1908年(明治41年)12月9日死去。子は彫金家で文展審査員の村越道守(1901-1943)。
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|中山信徴
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|1846-1917
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|1895-
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|2万5000石を領した水戸藩附家老・中山家14代当主。松岡(手綱)藩主。[[日光東照宮]]9代宮司。[[氷川神社]]大宮司。丹治氏。弘化3年4月10日生まれ。兄信宝の養子。1861年(文久1年)松岡城主となり、1868年(明治1年)1月24日に領地が藩に格上げされ、大名となる。1873年(明治6年)隠居。1874年(明治7年)4月、氷川神社大宮司兼権少教正。1895年(明治28年)11月25日、管長に就任するが(『官報』)、同年辞任(『新宗教教団・人物辞典』)。1896年(明治29年)12月26日、日光東照宮宮司に就任。大正6年1月29日死去。子に嗣子の男爵中山信実、子爵青木信光(1869-1949)など。墓所は、松岡城近くにある。
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|永井直哉
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|1850-1912
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|1897-1912
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|大和櫛羅藩の第2代藩主。永井家宗家13代。子爵。井上正滝の五男。嘉永3年9月4日生まれ。明治2年6月、櫛羅藩知事。明治17年7月、子爵。明治30年2月24日、管長就任(『官報』)。明治45年、在職中に死去。
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|(笹田黙介)
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|明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。
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|笹田黙介
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|1846-1925
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|?-1924
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|初代埼玉県警部長。秩父事件を処理。明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。大正11年、管長に就任。大正13年辞任。
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|井上信鉄
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|?-1933
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|1924-1933
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|明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。大正13年10月24日、管長に就任認可(『官報』)。在職中の昭和8年2月3日、死去(『官報』)。
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|杉本鉄幸
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|亀卜家らしい。著書『杉本亀卜宅相秘鈔 皇国古伝』。昭和8年3月18日管長就任認可(『官報』)。辞職。
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|佐伯有義
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|1934-1935
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|1934年(昭和9年)3月20日就任認可(官報)。翌年8月12日、辞職(官報)。
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|佐野常羽
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|1871-1956
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|1935-
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|1935年(昭和10年)8月12日、管長に就任(官報)。伯爵。佐野常民の子。海軍少将。ボーイスカウトの設立者。宗教制度調査会委員。
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|前橋庄三郎
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|?-1948
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|禊教門人。禊神道教会(旧禊第六教院、現・唯一神道禊教)教長。著書に『禊の真理』。弟子に唯一神道禊教教長で梅田神明宮宮司の関口鉄三郎(-2002)。墓所は、多磨墓地。(井上正鉄研究会会報)
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|赤塚新
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|(笹木福太郎)
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(鎌田東二 2002『平山省斎と明治の神道』)
(鎌田東二 2002『平山省斎と明治の神道』)

2017年1月15日 (日) 時点における版

大成教(たいせいきょう)は、元幕臣平山省斎(1815-1890)が設立した、東京都渋谷区に本部を置く神道系教団教派神道の一つ。

一覧

組織

歴代管長

神道大成教の歴代管長
歴代 名前 生没年 在職年 略歴
1 平山省斎 1815-1890 1882-1890 幕臣出身の神職・神道家。外国奉行。名は敬忠。日枝神社宮司、氷川神社大宮司を歴任。御嶽教初代管長を兼任。文化12年2月19日生。陸奥国三春藩出身。藩士黒岡活円斎の子。江戸に出て、桑原北林、安積艮斎に師事。1850年(嘉永3年)小普請の平山源太郎の養子となる。1855年(安政2年)岩瀬忠震に同行して長崎へ。外交に奔走し、江戸と京都を往復すること14回。維新の時には徳川慶喜の側近として随従。1868年(明治1年)1月、若年寄を仰せ付けられるが辞職する。1872年(明治5年)、稲葉正邦の勧めで神官教導職となり官社の宮司として氷川神社の改築や日枝神社の昇格に尽力した。1872年(明治5年)9月25日権少教正。翌年2月22日権中教正。3月4日、氷川神社大宮司。11月4日中教正。翌年4月4日、依願免官し教導職に専任。8月19日、権大教正。1875年(明治8年)3月22日、日枝神社祠官。1876年(明治9年)4月22日、氷川神社大宮司に再任し、5月10日に日枝神社祠官を兼任。1877年(明治10年)3月、神道事務局から禊教総管に任じられ、禊教社(坂田派(「禊教」)と東宮派(「大成教禊教」))を管轄する。同年12月8日に制度改正で免官となり12日に氷川神社宮司となる。1879年(明治12年)5月10日、大教正。9月、大成教会を設立。本荘宗秀、小笠原長行、板倉勝静(松叟)、大給恒らと懇意で、特に板倉は親しく大成教の創立員となっている。神官教導職分離を受け、1882年(明治15年)1月23日、依願免官。5月、大成教特立許可を得て管長となる。1884年(明治17年)8月9日、改めて神道総裁から大成教管長に任命される。各地で巡教し、鍛冶橋監獄(東京監獄、市ケ谷刑務所)や宇都宮監獄での説教(教誨)も行った。1875年(明治8年)、外務省から幕末外交史の執筆依頼を受けるが、果たさず。1890年(明治23年)5月22日死去。神宮祭主久邇宮朝彦親王から「素山彦弘道命」の神号を下賜された(波多越与一、1933年(昭和8年)『大日本神社志附録編』大日本敬神会本部)。養子には、日本赤十字社の設立に尽力した男爵平山成信(1854-1929、叔父竹村久成の子)や静岡新聞編集長などを務めた自由民権家の平山陳平(1839-1889)がおり、弟子には桑原芳樹(桑原北林の養子。伊勢神宮少宮司)がいる。日記は外交史料「敬忠日記」(東京大学史料編纂所蔵1[1]~6[2])として知られる。著書として『本教真訣』[3][4][5][6][7](『同略解』[8])、『修道真法』[9][10]、『俳教真訣』[11][12](『同略解』[13][14])、『省斎遺稿』[15]、『神皇系統』[16]などがある。「平山省斎印譜」[17]。関連文献として『省斎年譜草案』[18][19]、「平山敬忠贈位内申書」[20][21]、『教派神道の形成』、『平山省斎と明治の神道』。墓所谷中霊園にある。
2 磯部最信 1821-1898 1890-1894 田安家家臣出身の神道家。歌人。相川県権参事。度津神社宮司。明治初年、佐渡の相川県に赴任し、参事(知事に当たる)の鈴木重嶺を補佐。度津神社宮司を務め、相川県中教院の開設に尽力した。東京に戻り、平山省斎の大成教会設立に協力。副管長となった。1890年(明治23年)、管長に就任した。1894年(明治27年)、『万朝報』が大成教傘下の蓮門教会を批難する記事を連載し、対応に追われる。一度、蓮門教祖島村みつを解任したが、騒動が落ち着いた頃、復職を認めた結果、その責任を問われ、11月16日、管長を解職される(『蓮門教衰亡史』)。著書は、『神道唱歌』[22]、『佐渡名所歌集』[23]、『安心立命訣』、『祝詞集』、『含翠庭雑録』など。墓所不明。
(事務取扱) (東宮千別) 1833-1897 (1894-1895) 幕末維新期の禊教門人。下野の亀岡八幡宮(栃木県芳賀郡益子町)神職。常陸国宍戸藩士の孫として宍戸町で生まれる。日光山で学び、1854年(安政1年)、亀岡八幡宮社家の東宮家の養子となる。1856年(安政3年)、井上正鉄の法流を受け継ぐ但唱が住職をしていた江戸木下川の浄光寺で村越守一(1813-1880)に出会い、禊教に入門。禁教下で極秘裏に布教を始める。1858年(安政5年)養父が亡くなり、神主を継ぐ。1862年(文久2年)に門下が大きな弾圧を受けたため、門人たちを故郷に匿う。1869年(明治2年)2月、東京で布教開始。1872年(明治5年)4月に教導職の制度ができると、5月3日、門下の代表者として公認を政府に出願。同月11日から教部省が府内の各神社で説教会を開くと、門人らも神田神社で説教した。8月22日、吐菩加美講の許可を受け、禊教として初の政府公認の教団組織を設立。教導職訓導となった。しかし、門下全体を完全にまとめることができず、坂田派(現在の「禊教」と「神道禊教」)が分立する結果となった。1878年(明治11年)から翌年にかけて、三宅島井上正鉄の墓を東京に改葬したが、門人の間でまとまらず、東宮派は谷中霊園に巨大な墓碑を建立する一方、坂田派は上野に井上神社を創建し分裂が決定的になった。その他の禊教は1879年(明治12年)11月、大成教会に所属した。1881年(明治14年)、亀岡八幡宮の本殿を再建。東宮本院を開くと共に、大成教に所属した禊教の重鎮として門下の統合に尽力するが、困難を極めた。1894年(明治27年)11月の磯部最信の管長解任を受けて、事務取扱に就任し、12月19日から翌年11月25日まで1年間務める(『官報』)。1896年(明治29年)8月には自派の教会の独立を試みるが果たせず、1897年(明治30年)7月2日死去。(『神道大成教 禊教会本院百五十年小史』)
(事務取扱) (村越鉄善) 1825-1908 (1894-1895) 幕末維新期の禊教門人。井上正鉄の直弟子の村越正久の次男。村越守一と坂田正安兄弟の甥。村越守一に師事。1858年(安政5年)、産霊の伝を受ける。兄の鉄久の養子となり、村越本家を継ぐ。維新後は木下川村の白鬚神社や氷川神社の神職を務めた。1894年(明治27年)11月の磯部最信の管長解任を受けて、事務取扱に就任し、12月19日から翌年11月25日まで1年間務める(『官報』)。1908年(明治41年)12月9日死去。子は彫金家で文展審査員の村越道守(1901-1943)。
3 中山信徴 1846-1917 1895-? 2万5000石を領した水戸藩附家老・中山家14代当主。松岡(手綱)藩主。日光東照宮9代宮司。氷川神社大宮司。丹治氏。弘化3年4月10日生まれ。兄信宝の養子。1861年(文久1年)松岡城主となり、1868年(明治1年)1月24日に領地が藩に格上げされ、大名となる。1873年(明治6年)隠居。1874年(明治7年)4月、氷川神社大宮司兼権少教正。1895年(明治28年)11月25日、管長に就任するが(『官報』)、同年辞任(『新宗教教団・人物辞典』)。1896年(明治29年)12月26日、日光東照宮宮司に就任。大正6年1月29日死去。子に嗣子の男爵中山信実、子爵青木信光(1869-1949)など。墓所は、松岡城近くにある。
4 永井直哉 1850-1912 1897-1912 大和櫛羅藩の第2代藩主。永井家宗家13代。子爵。井上正滝の五男。嘉永3年9月4日生まれ。明治2年6月、櫛羅藩知事。明治17年7月、子爵。明治30年2月24日、管長就任(『官報』)。明治45年、在職中に死去。
(事務取扱) (笹田黙介) 1846-1925 (1912-?) 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。
(事務取扱) (井上信鉄) ?-1933 (1912-?) 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。
5 笹田黙介 1846-1925 ?-1924 初代埼玉県警部長。秩父事件を処理。明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。大正11年、管長に就任。大正13年辞任。
6 井上信鉄 ?-1933 1924-1933 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。大正13年10月24日、管長に就任認可(『官報』)。在職中の昭和8年2月3日、死去(『官報』)。
7 杉本鉄幸 1933-1934 亀卜家らしい。著書『杉本亀卜宅相秘鈔 皇国古伝』。昭和8年3月18日管長就任認可(『官報』)。辞職。
8 佐伯有義 1934-1935 1934年(昭和9年)3月20日就任認可(官報)。翌年8月12日、辞職(官報)。
9 佐野常羽 1871-1956 1935- 1935年(昭和10年)8月12日、管長に就任(官報)。伯爵。佐野常民の子。海軍少将。ボーイスカウトの設立者。宗教制度調査会委員。
10 前橋庄三郎 ?-1948 禊教門人。禊神道教会(旧禊第六教院、現・唯一神道禊教)教長。著書に『禊の真理』。弟子に唯一神道禊教教長で梅田神明宮宮司の関口鉄三郎(-2002)。墓所は、多磨墓地。(井上正鉄研究会会報)
11 赤塚新
(事務取扱) (笹木福太郎) ?-1958
(事務取扱) (栃谷吉太郎) ?-1982
12 栃谷吉太郎 ?-1982
13 久保安太郎 ?-1966
14 栃谷吉太郎 再任
15 飯田金吾 ?-1998
16 飯田典親


(鎌田東二 2002『平山省斎と明治の神道』)


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