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証誠寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''証誠寺'''(しょうじょうじ)は、福井県鯖江市にある[[浄土真宗]]の本山寺院。[[大町門徒]](三門徒)系統の[[真宗山元派]]の本山で、真宗越前四本山([[証誠寺]]・[[毫摂寺]]・[[誠照寺]]・[[専照寺]])の一つ。実質的な開山は'''道性'''。横越(よここし)という地名から証誠寺を中心とする流派を'''横越門徒'''ともいう。江戸時代は、[[院家]]の格式を持つ[[聖護院門跡]]の末寺だった。'''證誠寺'''。'''鯖江本山'''。
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'''証誠寺'''(しょうじょうじ)は、福井県鯖江市にある[[浄土真宗]]の本山寺院。[[大町門徒]](三門徒)系統の[[真宗山元派]]の本山で、真宗越前四本山([[証誠寺]]・[[毫摂寺]]・[[誠照寺]]・[[専照寺]])の一つ。寺伝は[[親鸞]]の伝説を伝えるが、実質的な開山は戦国時代の'''道性'''である。横越(よここし)という地名から、証誠寺を中心とする流派を'''横越門徒'''ともいう。江戸時代は、[[院家]]の格式を持つ[[聖護院門跡]]の末寺だった。'''證誠寺'''。'''横越本山'''。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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寺伝によれば、越後流罪の途中に[[親鸞]]が越前国丹羽郡山元村に立ち寄り、教えを説いた。この時、聴聞した人々が建てたのが、証誠寺の起源という。その後、[[善鸞]]や浄如が旧跡を訪ねて説教した。浄如は嘉元2年(1304)8月に[[後二条天皇]]から'''山元山護念院証誠寺'''の名を賜り、[[勅願寺]]となったという。文明7年(1475)3月、[[道性]]が現在地の横越に移したという。
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寺伝によれば、越後流罪の途中に[[親鸞]]が越前国丹羽郡山元村に立ち寄り、教えを説いた。この時、聴聞した人々が建てたのが、証誠寺の起源という。その後、[[善鸞]]や浄如が旧跡を訪ねて説教した。浄如は嘉元2年(1304)8月に[[後二条天皇]]から'''山元山護念院証誠寺'''の名を賜り、[[勅願寺]]となったという。その後、各地を転々としたが、文明7年(1475)3月、[[道性]]が現在地の横越に移したという。史実としてはこの道性が創建したと考えられている。
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道性は三河出身で、大町門徒開祖である専修寺如導の弟子。本願寺にも接近し、存覚と親交。貞和2年(1346)に存覚が義絶された時には、道性の京都寄宿所に滞在させている。また横越門徒に存覚の名で本尊を下賜するなど、交流は深かったようである。
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横越門徒は近江、美濃まで及び、大町門徒系統の中で、最大勢力となった。
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== 歴代住職 ==
== 歴代住職 ==
*1:[[親鸞]](1173-1262):
*1:[[親鸞]](1173-1262):

2016年2月22日 (月) 時点における版

証誠寺(しょうじょうじ)は、福井県鯖江市にある浄土真宗の本山寺院。大町門徒(三門徒)系統の真宗山元派の本山で、真宗越前四本山(証誠寺毫摂寺誠照寺専照寺)の一つ。寺伝は親鸞の伝説を伝えるが、実質的な開山は戦国時代の道性である。横越(よここし)という地名から、証誠寺を中心とする流派を横越門徒ともいう。江戸時代は、院家の格式を持つ聖護院門跡の末寺だった。證誠寺横越本山


歴史

寺伝によれば、越後流罪の途中に親鸞が越前国丹羽郡山元村に立ち寄り、教えを説いた。この時、聴聞した人々が建てたのが、証誠寺の起源という。その後、善鸞や浄如が旧跡を訪ねて説教した。浄如は嘉元2年(1304)8月に後二条天皇から山元山護念院証誠寺の名を賜り、勅願寺となったという。その後、各地を転々としたが、文明7年(1475)3月、道性が現在地の横越に移したという。史実としてはこの道性が創建したと考えられている。 道性は三河出身で、大町門徒開祖である専修寺如導の弟子。本願寺にも接近し、存覚と親交。貞和2年(1346)に存覚が義絶された時には、道性の京都寄宿所に滞在させている。また横越門徒に存覚の名で本尊を下賜するなど、交流は深かったようである。 横越門徒は近江、美濃まで及び、大町門徒系統の中で、最大勢力となった。


歴代住職

  • 1:親鸞(1173-1262):
  • 2:善鸞(1208-1277):親鸞の子。
  • 3:浄如(1236-1311):善鸞の孫。
  • 4:鸞如(1265-1342):
  • 5:旦応(1319-1398):
  • 6:如顕(1364-1445):
  • 7:道閑(1386-1466):
  • 8:道性(1439-1521):証誠寺を創建。大町門徒開祖如導の弟子。本願寺存覚と親交し、彼が義絶された時には庇護した。
  • 9:善秀(善充)(1466-1551):『日本仏教基礎講座』では善透とも。
  • 10:善寿(1537-1587):善寿の子の善照が毫摂寺を創建したともいう。
  • 11:善教(1523-1600):毫摂寺7世?
  • 12:善光(1562-1621):毫摂寺10世?
  • 13:善如(1602-1644):
  • 14:善岌(1619-1656):毫摂寺6世?
  • 15:善養(1636-1708):
  • 16:善応(1653-1721):
  • 17:善閑(1691-1754):
  • 18:善阿(1722-1775):
  • 19:善念(1749-1803):
  • 20:善超(東溟)(1785-1855):公家小倉見季の次男。今出川家の猶子となる。
  • 21:藤原善融(1812-1895):
  • 22:藤原善住(1852-1921):
  • 23:藤原善瑩(1880-1938):
  • 24:藤原善敬(1909-):
  • 25:藤原光教(善鷲):専照寺四男
  • 26:藤原光教:

(望月『仏教大辞典 付録』、『真宗山元派本山證誠寺史』、『真宗山元派本山證誠寺史』に引く『山元山系統略記』。24代までの生没年は『日本仏教基礎講座』)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%A8%BC%E8%AA%A0%E5%AF%BA」より作成

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