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野中寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年5月6日 (木)

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[[file:yachuji (3).JPG|350px|thumb|野中寺]]
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'''野中寺'''(やちゅうじ)は、大阪府羽曳野市(河内国丹南郡)にある[[太子信仰]]の[[真言宗]]寺院。本尊は[[薬師如来]]。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。古代には船氏の氏寺だったという。近世には戒律復興運動の拠点となる[[律院]]となった。[[仲哀天皇陵]]の南にある。河内国丹南郡。[[叡福寺]]と[[大聖勝軍寺]]と共に'''河内三太子'''の一つで通称は'''中之太子'''。[[京都・西明寺|西明寺]]・[[神鳳寺]]と共に[[西明寺流]]の三僧坊の一つ。[[高野山真言宗]]。'''野中律寺'''。山号は青龍山。近くの[[法泉寺]]が野中寺奥之院を称す。
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==歴史==
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===古代~中世===
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聖徳太子を開基として蘇我馬子が創建したとされる。調査では奈良時代前期の法隆寺式の古代伽藍跡が確認されている。
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『日本霊異記』に登場する野中堂は野中寺に当たるとされる。
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南北朝時代に全焼。
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===近世===
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政賢覚栄が[[西明寺]]の慈忍慧猛を招いて律院として復興した。ここで学んだ僧として洪善普摂(法楽寺中興)、忍綱貞紀、忍綱門下の[[慈雲]]([[長栄寺]]中興、[[高貴寺]]中興)(1718-1804)がいた。
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(日本歴史地名大系)
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== 組織 ==
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===歴代===
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*1世から15世まで『日本における戒律伝播の研究』による。
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*16世以降は不詳。輪番制だったので短期で交代したか。
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|style="text-align:center;background-color:#ededed" colspan="2"|'''野中寺'''<br>やちゅうじ
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|慈忍慧猛
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|1613-1675
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|1669-
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|真言律宗野中寺流の祖。1613年(慶長18年)生。1641年(寛永18年)春、西明寺で具足戒受戒。泉涌寺の正専如周に師事する一方、槙尾西明寺の真空了阿にも学ぶ。さらに西大寺で伝法灌頂を受けた。1646年(正保3年)巌松院住職。寛文年間、巌松院に僧坊を設けようとして西明寺から抵抗に遭う。泉涌寺に寓居。1669年(寛文9年)2月、招かれて野中寺に入り律僧坊とした。浄土律の性憲慈空(1646-1719)、黄檗宗の鉄眼道光(1630-1682)に菩薩戒を授ける。1675年(延宝3年)3月21日死去。62歳。慈忍恵猛。
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|慈門信光
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|1624-1707
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|?-1703
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|1624年(寛永1年)生。慈忍慧猛の弟子。1703年(元禄16年)8月8日退任(安養寺文書)。1707年(宝永4年)7月10日死去。84歳。1701年(元禄14年)作の彫像が野中寺に現存。弟子に通玄直心(1656-1731)。
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|style="background-color:#ededed;width:100px;"|概要
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|3
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|聖徳太子信仰の寺院。真言律運動の拠点。
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|戒山慧堅
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|1649-1704
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|1703-1704
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|安養寺中興。久留米出身。1649年(慶安2年)生。元は黄檗宗の僧侶で鉄眼道光のもとで出家。鉄眼道光の戒師でのある野中寺慈忍慧猛に戒律を学ぶ。1670年(寛文10年)具足戒受戒。1685年(貞享2年)[[近江・安養寺]]を中興する。1689年(元禄2年)『律苑僧宝伝』を刊行。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、敬首祖海(1683-1748)の受戒の証明師となる。1703年(元禄16年)8月8日、野中寺住職(安養寺文書)。1704年(宝永1年)3月4日死去。退耕道人。
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|style="background-color:#ededed"|奉斎
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|薬師如来
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|玄道慈観
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|1653-1729
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|1704-1705
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|京都出身。1653年(承応2年)生。大応寺で参禅。1704年(宝永1年)3月3日、野中寺を継承。1705年(宝永2年)8月23日退任。1729年(享保14年)5月17日死去。51歳。
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|style="background-color:#ededed"|所在地
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|5
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|大阪府羽曳野市
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|行海満空
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|1636-1719
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|[[矢田寺]]中興。1636年(寛永13年)生。1719年(享保4年)10月21日死去。84歳。矢田寺に供養塔がある。
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|style="background-color:#ededed"|所在地(旧国郡)
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|6
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|河内国丹南郡
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|湛堂慧淑
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|1669-1720
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|安養寺2世。京都出身。1669年(寛文9年)生。戒山慧堅の弟子。最初、泉涌寺で学び、のち安養寺で戒山慧堅に学ぶ。1688年(元禄1年)冬、野中寺で具足戒を受ける。律僧伝の続編『律門西生録』を編纂。1714年(正徳4年)『青龍山清規』(龍山清規)を制定。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、天台安楽律院流の霊空光謙(1652-1739)、園城寺の義瑞性慶(1667-1737)の授戒の証明師を務めた。1720年(享保5年)5月15日死去。51歳。
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|style="background-color:#ededed"|所属(現在)
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|高野山真言宗
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|洪善普摂
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|1647-1724
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|[[法楽寺]]中興。肥前国出身。1647年(正保4年)生。慈忍慧猛に師事。1724年(享保9年)4月18日死去。78歳。
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|style="background-color:#ededed"|格式など
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|慧燈玄光
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|?-1739
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|南都出身。1739年(元文4年)5月9日死去。
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|style="background-color:#ededed"|関連記事
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|戒龍唯如
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|1666-1747
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*[[西明寺派]]
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|名古屋出身。1666年(寛文6年)生。[[尾張・興正寺]]で学ぶ。美濃三光寺中興に招かれる。1747年(延享4年)5月10日死去。82歳。
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*[[聖徳太子信仰]]
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|10
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|高忍道量
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34.55894, 135.592061, 野中寺
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|?-1730
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|[[真宗院]]慈空性憲(浄土律)の弟子。浄土宗から転派。1730年(享保15年)12月13日死去。
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|11
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|実門慧亨
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|1666-1740
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|安養寺3世。江戸出身。1666年(寛文6年)生。黒田家家臣の子。戒山慧堅の弟子。1740年(元文5年)8月19日死去。75歳。初名は実門元透。
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|秀厳性賢
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|?-1737
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|河内国出身。1737年(元文2年)8月3日死去。秀巌性賢。
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|桂嶽慈香
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|1687-1745
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|大和国出身。1687年(貞享4年)生。長谷寺で学ぶ。1717年(享保2年)11月12日野中寺で受戒。1745年(延享2年)9月6日死去。59歳。
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|慧行行円
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|生没年不詳
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|?-1746
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|大和国出身。元の名は慧海行円だったが、1746年(延享3年)9月に住職を譲り、幕府に本山として認められた時、宛名が「瑞龍慧海」となっていたため「慧海」の名を「慧行」と改めた。
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|瑞龍慧海
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|1707-1781
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|1746-
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|1707年(宝永4年)生。1746年(延享3年)9月、野中寺住職。初名は秀全英郁、ついで智岳覚高、瑞龍堂海と改名。さらに住職就任に際に幕府の任命書に「瑞龍慧海」とあったため改名したという。1781年(天明1年)死去。
|}
|}
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[[category:大阪府]]
 
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==概要==
 
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'''野中寺'''(やちゅうじ)は、大阪府羽曳野市にある[[太子信仰]]の[[真言宗]]寺院。本尊は[[薬師如来]]。[[聖徳太子建立四十六寺]]の一つ。古代には船氏の氏寺だったという。近世には戒律復興運動の拠点となる[[律院]]となった。[[仲哀天皇陵]]の南にある。河内国丹南郡。[[叡福寺]]と[[大聖勝軍寺]]と共に'''河内三太子'''の一つで通称は'''中之太子'''。[[京都・西明寺|西明寺]]・[[神鳳寺]]と共に[[西明寺流]]の三僧坊の一つ。[[高野山真言宗]]。野中律寺。山号は青龍山。近くの[[法泉寺]]が野中寺奥之院を称す。
 
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==歴史==
 
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===古代〜中世===
 
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聖徳太子を開基として蘇我馬子が創建したとされる。調査では奈良時代前期の法隆寺式の古代伽藍跡が確認されている。
 
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『日本霊異記』に登場する野中堂は野中寺に当たるとされる。
 
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南北朝時代に全焼。
 
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===近世===
 
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政賢覚栄が[[西明寺]]の慈忍慧猛を招いて律院として復興した。ここで学んだ僧として洪善普摂(法楽寺中興)、忍綱貞紀、忍綱門下の[[慈雲]]([[長栄寺]]中興、[[高貴寺]]中興)(1718-1804)がいた。
 
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(日本歴史地名大系)
 
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== 組織 ==
 
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===歴代===
 
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*1慈忍慧猛(恵猛)(1613-1662)<>:真言律宗野中寺流の祖。1641年(寛永18年)春、西明寺で具足戒受戒。泉涌寺の正専如周に師事する一方、槙尾西明寺の真空了阿にも学ぶ。さらに西大寺で伝法灌頂を受けた。1646年(正保3年)巌松院住職。寛文年間、巌松院に僧坊を設けようとして西明寺から抵抗に遭う。泉涌寺に寓居。1669年(寛文9年)2月、招かれて野中寺に入り律僧坊とした。浄土律の性憲慈空(1646-1719)、黄檗宗の鉄眼道光(1630-1682)に菩薩戒を授ける。
 
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*2慈門信光(1624-1707)<>:弟子に通玄直心(1656-1731)。
 
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*3戒山慧堅(1649-1704)<>:久留米出身。元は黄檗宗の僧侶で鉄眼道光のもとで出家。鉄眼道光の戒師でのある野中寺慧猛に戒律を学ぶ。1670年(寛文10年)具足戒受戒。1685年(貞享2年)[[近江・安養寺]]を中興する。退耕道人。1689年(元禄2年)『律苑僧宝伝』を刊行。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、敬首祖海(1683-1748)の受戒の証明師となる。
 
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*4玄道慈観()<>:1729年(享保14年)死去。
 
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*5行海満空()<>:1719年(享保4年)死去。[[矢田寺]]中興。
 
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*6湛堂慧淑(1669-1720)<>:戒山慧堅の弟子。最初、泉涌寺で学び、のち安養寺で戒山慧堅に学ぶ。1688年(元禄1年)冬、野中寺で具足戒を受ける。律僧伝の続編『律門西生録』を編纂。1714年(正徳4年)『青龍山清規』(龍山清規)を制定。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、天台安楽律院流の霊空光謙(1652-1739)、園城寺の義瑞性慶(1667-1737)の授戒の証明師を務めた。
 
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*7洪善普摂(?-1724)<>:[[法楽寺]]中興。
 
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*8慧燈玄光()<>:1739年(元文4年)死去。
 
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*9戒龍唯如()<>:1747年(延享4年)死去。
 
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*10高忍道量()<>:
 
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*11実門慧亨()<>:
 
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*12秀厳性賢()<>:秀巌性賢。
 
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*13桂嶽慈香()<>:
 
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*14慧行行円(生没年不詳)<>:
 
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*15瑞龍慧海()<>:
 
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*法操智瑞?(1772-1844)
*法操智瑞?(1772-1844)
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==参考文献==
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==資料==
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==脚注==
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2021年5月6日 (木) 時点における最新版

野中寺

野中寺(やちゅうじ)は、大阪府羽曳野市(河内国丹南郡)にある太子信仰真言宗寺院。本尊は薬師如来聖徳太子建立四十六寺の一つ。古代には船氏の氏寺だったという。近世には戒律復興運動の拠点となる律院となった。仲哀天皇陵の南にある。河内国丹南郡。叡福寺大聖勝軍寺と共に河内三太子の一つで通称は中之太子西明寺神鳳寺と共に西明寺流の三僧坊の一つ。高野山真言宗野中律寺。山号は青龍山。近くの法泉寺が野中寺奥之院を称す。

目次

歴史

古代~中世

聖徳太子を開基として蘇我馬子が創建したとされる。調査では奈良時代前期の法隆寺式の古代伽藍跡が確認されている。 『日本霊異記』に登場する野中堂は野中寺に当たるとされる。 南北朝時代に全焼。

近世

政賢覚栄が西明寺の慈忍慧猛を招いて律院として復興した。ここで学んだ僧として洪善普摂(法楽寺中興)、忍綱貞紀、忍綱門下の慈雲長栄寺中興、高貴寺中興)(1718-1804)がいた。 (日本歴史地名大系)

組織

歴代

  • 1世から15世まで『日本における戒律伝播の研究』による。
  • 16世以降は不詳。輪番制だったので短期で交代したか。
世数 生没年 在職年 略歴
1 慈忍慧猛 1613-1675 1669- 真言律宗野中寺流の祖。1613年(慶長18年)生。1641年(寛永18年)春、西明寺で具足戒受戒。泉涌寺の正専如周に師事する一方、槙尾西明寺の真空了阿にも学ぶ。さらに西大寺で伝法灌頂を受けた。1646年(正保3年)巌松院住職。寛文年間、巌松院に僧坊を設けようとして西明寺から抵抗に遭う。泉涌寺に寓居。1669年(寛文9年)2月、招かれて野中寺に入り律僧坊とした。浄土律の性憲慈空(1646-1719)、黄檗宗の鉄眼道光(1630-1682)に菩薩戒を授ける。1675年(延宝3年)3月21日死去。62歳。慈忍恵猛。
2 慈門信光 1624-1707 ?-1703 1624年(寛永1年)生。慈忍慧猛の弟子。1703年(元禄16年)8月8日退任(安養寺文書)。1707年(宝永4年)7月10日死去。84歳。1701年(元禄14年)作の彫像が野中寺に現存。弟子に通玄直心(1656-1731)。
3 戒山慧堅 1649-1704 1703-1704 安養寺中興。久留米出身。1649年(慶安2年)生。元は黄檗宗の僧侶で鉄眼道光のもとで出家。鉄眼道光の戒師でのある野中寺慈忍慧猛に戒律を学ぶ。1670年(寛文10年)具足戒受戒。1685年(貞享2年)近江・安養寺を中興する。1689年(元禄2年)『律苑僧宝伝』を刊行。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、敬首祖海(1683-1748)の受戒の証明師となる。1703年(元禄16年)8月8日、野中寺住職(安養寺文書)。1704年(宝永1年)3月4日死去。退耕道人。
4 玄道慈観 1653-1729 1704-1705 京都出身。1653年(承応2年)生。大応寺で参禅。1704年(宝永1年)3月3日、野中寺を継承。1705年(宝永2年)8月23日退任。1729年(享保14年)5月17日死去。51歳。
5 行海満空 1636-1719 矢田寺中興。1636年(寛永13年)生。1719年(享保4年)10月21日死去。84歳。矢田寺に供養塔がある。
6 湛堂慧淑 1669-1720 安養寺2世。京都出身。1669年(寛文9年)生。戒山慧堅の弟子。最初、泉涌寺で学び、のち安養寺で戒山慧堅に学ぶ。1688年(元禄1年)冬、野中寺で具足戒を受ける。律僧伝の続編『律門西生録』を編纂。1714年(正徳4年)『青龍山清規』(龍山清規)を制定。浄土律の霊潭性澂(1676-1734)、天台安楽律院流の霊空光謙(1652-1739)、園城寺の義瑞性慶(1667-1737)の授戒の証明師を務めた。1720年(享保5年)5月15日死去。51歳。
7 洪善普摂 1647-1724 法楽寺中興。肥前国出身。1647年(正保4年)生。慈忍慧猛に師事。1724年(享保9年)4月18日死去。78歳。
8 慧燈玄光 ?-1739 南都出身。1739年(元文4年)5月9日死去。
9 戒龍唯如 1666-1747 名古屋出身。1666年(寛文6年)生。尾張・興正寺で学ぶ。美濃三光寺中興に招かれる。1747年(延享4年)5月10日死去。82歳。
10 高忍道量 ?-1730 真宗院慈空性憲(浄土律)の弟子。浄土宗から転派。1730年(享保15年)12月13日死去。
11 実門慧亨 1666-1740 安養寺3世。江戸出身。1666年(寛文6年)生。黒田家家臣の子。戒山慧堅の弟子。1740年(元文5年)8月19日死去。75歳。初名は実門元透。
12 秀厳性賢 ?-1737 河内国出身。1737年(元文2年)8月3日死去。秀巌性賢。
13 桂嶽慈香 1687-1745 大和国出身。1687年(貞享4年)生。長谷寺で学ぶ。1717年(享保2年)11月12日野中寺で受戒。1745年(延享2年)9月6日死去。59歳。
14 慧行行円 生没年不詳 ?-1746 大和国出身。元の名は慧海行円だったが、1746年(延享3年)9月に住職を譲り、幕府に本山として認められた時、宛名が「瑞龍慧海」となっていたため「慧海」の名を「慧行」と改めた。
15 瑞龍慧海 1707-1781 1746- 1707年(宝永4年)生。1746年(延享3年)9月、野中寺住職。初名は秀全英郁、ついで智岳覚高、瑞龍堂海と改名。さらに住職就任に際に幕府の任命書に「瑞龍慧海」とあったため改名したという。1781年(天明1年)死去。
  • 法操智瑞?(1772-1844)
  • 野口明運()<>:
  • 野口明真 ()<>:
  • 野口真戒()<>:

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