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院室兼帯寺院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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概要
院室兼帯寺院とは、真言宗において、門跡寺院の院室寺院の寺号を名目的に与えられた寺院のことである。
門跡とは皇族貴族が住職となることが定められた寺院の格式のことであるが、それに付属する寺院を院家または院室と呼ぶ。本来、院家寺院は門跡寺院の山内寺院(塔頭)のような形で付属するものである。時代が下ると、地方の末寺に無住廃絶となった院室寺院の名称を与え、末寺を統率する格式の一つとした。この格式を持つ寺院を院室兼帯寺院と呼ぶのである。
これは近世、仁和寺、醍醐寺、大覚寺などの真言宗の門跡寺院と中部関東北陸東北の地方有力寺院、いわゆる田舎本寺の間において行われた。 当初は住職一代限りに認められ、個人的なもので、公的な使用は禁止されていたが、享保年間ごろより、寺院に代々付属する格式という傾向が生まれた。 この院室兼帯寺院になるには、まず新義真言宗江戸触頭である江戸四箇寺に申請する。その吟味を受けたあと、智積院、長谷寺に回され、両寺院から各門跡に請願されることになっていた。 享保年間から慶応年間に至るまでに63寺ほどが院室兼帯寺院になったといわれているが実際にはまだ他にもあるらしい。
背景には門跡寺院の法流末寺への影響力拡大の思惑と、田舎本寺の上昇志向があったことが指摘されている。江戸時代、門跡寺院の勢力拡大を恐れた幕府の方針もあって、教相(古義・新義)による本末関係が重視され、法流(事相)による本末関係が希薄化になった。田舎本寺の支配は江戸触頭に委ねられ、法流の本寺にもなっている門跡寺院は、末寺に対して影響力を行使できなくなった。門跡寺院は法流上の末寺に対して影響力を維持したい思惑があった。一方、田舎本寺としては、序列を重視する封建社会のなかで他の寺院より有利な立場に立ちたい思惑があった。
1871年(明治4年)5月、門跡制度、廃止を受けて、同年6月17日に院家院室の号も廃止された。 この結果、多くの院室兼帯寺院が一斉に離末して、智積院、長谷寺を本寺とするようになった。
ちなみに門跡寺院が末寺に対して院家院室号を与える制度は、本山派や浄土真宗でも実施されていた。
一覧
仁和寺
大覚寺
- 善定寺:埼玉県加須市。
- 信濃・長命寺:長野県東御市祢津。
- 武蔵・法恩寺:埼玉県入間郡越生町。「荘厳王院」。
- 感応院:神奈川県藤沢市。「無垢染院」。
- 讃岐・宝生院:香川県小豆郡土庄町。「普賢院」。
- 三谷寺:香川県丸亀市飯山町。「随喜心院」。
不明
- 聖天院:埼玉県日高市。
参考文献
- 櫛田良洪1964(昭和39)『真言密教成立過程の研究』山喜房仏書林 未見
- 坂本勝成1970(昭和45)「院室兼帯寺院について」『立正大学文学部論叢』38
- 村上直1998(平成10)『近世高尾山史の研究』名著出版、未見