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頂法寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[file:Kokudo0205.jpg|thumb|300px|六角堂頂法寺(国土地理院空中写真より)]] | [[file:Kokudo0205.jpg|thumb|300px|六角堂頂法寺(国土地理院空中写真より)]] | ||
- | + | 587年、聖徳太子が[[四天王寺]]建設の木材調達のために山城国愛宕郡土車里の池で沐浴した時、念持仏の如意輪観音を近くの木の枝に掛けたところ、動かなくなったため、この地に祀ったのが起源とされる。 | |
+ | 聖徳太子はその守護を小野妹子に託した。妹子は出家して専務と名乗り、仏前に花を供えたのが池坊華道の始まりとされる。 | ||
+ | [[平安京]]建設時に道路建設の妨げになるため、移転することになったが、堂宇が自ら動いて北に5丈(15m)ずれたという逸話があり、旧地に残った礎石が「臍石」という。臍石は平安京の中心と言われた。 | ||
+ | 822年、嵯峨天皇の勅願所となる。 | ||
+ | 996年、花山法皇が御幸して西国霊場として興隆。 | ||
平安時代中期から信仰を集めた。1125年(天治2年)12月5日、大火で焼失。創建以来初めてという。 | 平安時代中期から信仰を集めた。1125年(天治2年)12月5日、大火で焼失。創建以来初めてという。 | ||
鎌倉時代初期には[[延暦寺]]の末寺となっていた。 | 鎌倉時代初期には[[延暦寺]]の末寺となっていた。 | ||
- | 1201年(建仁1年) | + | 1201年(建仁1年)、親鸞が比叡山から100日にわたり通って参籠。夢中で聖徳太子の化身としての観音から託宣を受け、偈文を授かり、比叡山を去り、[[法然]]の下で[[浄土教]]に専するきっかけとなった。 |
貴族だけでなく、古くから庶民の信仰を集めたが | 貴族だけでなく、古くから庶民の信仰を集めたが | ||
応仁の乱で京都の形と仕組みが大きく変わった後は、下京の町堂としての性格を強める。 | 応仁の乱で京都の形と仕組みが大きく変わった後は、下京の町堂としての性格を強める。 | ||
+ | 八坂神社祇園祭の山鉾の巡行順を決めるくじ取り式は江戸時代末まで六角堂で行われていた。 | ||
室町時代、専慶が花道を始める(伝承では小野妹子に始まるという)。 | 室町時代、専慶が花道を始める(伝承では小野妹子に始まるという)。 | ||
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1641年(寛永18年)、内裏建設の余材で再建。塔頭として本坊[[池坊]]の他、多聞院・不動院・[[住心院]]・愛染院などがあった。 | 1641年(寛永18年)、内裏建設の余材で再建。塔頭として本坊[[池坊]]の他、多聞院・不動院・[[住心院]]・愛染院などがあった。 | ||
その後も焼失を繰り返し、現在の堂宇は1875年(明治8年)の再建(ウェブサイトでは1877年(明治10年)とする)。戦後、天台宗延暦寺派から離脱。 | その後も焼失を繰り返し、現在の堂宇は1875年(明治8年)の再建(ウェブサイトでは1877年(明治10年)とする)。戦後、天台宗延暦寺派から離脱。 | ||
- | + | 1977年、池坊会館を建設。 | |
(日本歴史地名大系) | (日本歴史地名大系) | ||
== 伽藍 == | == 伽藍 == | ||
- | * | + | *本堂:本尊は[[如意輪観音]]。聖徳太子念持仏と伝える。1寸8分(5.5cm)。秘仏。御前立本尊がある。如意輪観音は中世以降、聖徳太子の本地仏とされた。両脇に聖徳太子二歳像と親鸞「夢想之像」も祀る。脇仏として[[毘沙門天]]、[[地蔵菩薩]]、[[不動明王]]、[[阿弥陀如来]]2体、[[弁財天]]、[[文殊菩薩]]、[[青面金剛]]も祀る。現在の堂は明治10年頃の再建で、六角形の堂宇の前に入母屋造千鳥破風付の拝堂が接続する。 |
- | * | + | *太子堂:本尊は[[聖徳太子]]。頂法寺の開山堂。太子の二歳像を中心に十六歳像、騎馬像を祀る。 |
- | * | + | *親鸞堂:本尊は[[親鸞]]。「草鞋の御影」などを祀る。 |
*石不動:巨石を祀る。 | *石不動:巨石を祀る。 | ||
- | *唐崎社:[[唐崎神社]] | + | *茶所:西国霊場33観音を祀る。 |
- | * | + | *唐崎社:[[唐崎神社]]の神を祀る。[[明星菩薩]]とみなしているらしい。頂法寺鎮守。[[祇園神]]と[[天満宮]]を合祀。 |
- | * | + | *日彰稲荷神社:祭神は[[稲荷神]]。 |
+ | *聖徳太子沐浴の池:石の井筒が目印。このほとりに僧坊が建てられ、[[池坊]]の名の由来となった。 | ||
+ | *臍石:[[平安京]]の中心を示したという石。元は門前の六角通りの路上にあったが、明治に本堂前に移された。 | ||
+ | *鐘楼堂:1605年再建。梵鐘は1954年鋳造復元。六角通りを挟んだ飛地境内にある。隣に浄土真宗系の[[六角会館]]があるが直接の関係はない。 | ||
*[[小野妹子墓]]:大阪府南河内郡太子町。池坊が管理している。 | *[[小野妹子墓]]:大阪府南河内郡太子町。池坊が管理している。 | ||
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==塔頭== | ==塔頭== | ||
- | *[[池坊]] | + | *[[池坊]]:本坊。現在の池坊会館の地にあった。池坊会館は1977年建設。池坊家元事務所、いけばな資料館などがある。 |
*多聞院:廃絶。 | *多聞院:廃絶。 | ||
*不動院:廃絶。 | *不動院:廃絶。 |
2021年9月4日 (土) 時点における版
頂法寺(ちょうほうじ)は、京都府京都市中京区にある観音信仰の天台宗寺院。聖徳太子旧跡。親鸞旧跡。聖徳太子建立四十六寺の一つ。本尊は如意輪観音。六角堂として知られる。西国三十三所観音霊場第18番札所。天台宗単立。本坊だった池坊は華道の家元として知られる。山号は紫雲山。
目次 |
歴史
587年、聖徳太子が四天王寺建設の木材調達のために山城国愛宕郡土車里の池で沐浴した時、念持仏の如意輪観音を近くの木の枝に掛けたところ、動かなくなったため、この地に祀ったのが起源とされる。 聖徳太子はその守護を小野妹子に託した。妹子は出家して専務と名乗り、仏前に花を供えたのが池坊華道の始まりとされる。 平安京建設時に道路建設の妨げになるため、移転することになったが、堂宇が自ら動いて北に5丈(15m)ずれたという逸話があり、旧地に残った礎石が「臍石」という。臍石は平安京の中心と言われた。 822年、嵯峨天皇の勅願所となる。 996年、花山法皇が御幸して西国霊場として興隆。 平安時代中期から信仰を集めた。1125年(天治2年)12月5日、大火で焼失。創建以来初めてという。
鎌倉時代初期には延暦寺の末寺となっていた。 1201年(建仁1年)、親鸞が比叡山から100日にわたり通って参籠。夢中で聖徳太子の化身としての観音から託宣を受け、偈文を授かり、比叡山を去り、法然の下で浄土教に専するきっかけとなった。
貴族だけでなく、古くから庶民の信仰を集めたが 応仁の乱で京都の形と仕組みが大きく変わった後は、下京の町堂としての性格を強める。 八坂神社祇園祭の山鉾の巡行順を決めるくじ取り式は江戸時代末まで六角堂で行われていた。
室町時代、専慶が花道を始める(伝承では小野妹子に始まるという)。
1641年(寛永18年)、内裏建設の余材で再建。塔頭として本坊池坊の他、多聞院・不動院・住心院・愛染院などがあった。 その後も焼失を繰り返し、現在の堂宇は1875年(明治8年)の再建(ウェブサイトでは1877年(明治10年)とする)。戦後、天台宗延暦寺派から離脱。 1977年、池坊会館を建設。 (日本歴史地名大系)
伽藍
- 本堂:本尊は如意輪観音。聖徳太子念持仏と伝える。1寸8分(5.5cm)。秘仏。御前立本尊がある。如意輪観音は中世以降、聖徳太子の本地仏とされた。両脇に聖徳太子二歳像と親鸞「夢想之像」も祀る。脇仏として毘沙門天、地蔵菩薩、不動明王、阿弥陀如来2体、弁財天、文殊菩薩、青面金剛も祀る。現在の堂は明治10年頃の再建で、六角形の堂宇の前に入母屋造千鳥破風付の拝堂が接続する。
- 太子堂:本尊は聖徳太子。頂法寺の開山堂。太子の二歳像を中心に十六歳像、騎馬像を祀る。
- 親鸞堂:本尊は親鸞。「草鞋の御影」などを祀る。
- 石不動:巨石を祀る。
- 茶所:西国霊場33観音を祀る。
- 唐崎社:唐崎神社の神を祀る。明星菩薩とみなしているらしい。頂法寺鎮守。祇園神と天満宮を合祀。
- 日彰稲荷神社:祭神は稲荷神。
- 聖徳太子沐浴の池:石の井筒が目印。このほとりに僧坊が建てられ、池坊の名の由来となった。
- 臍石:平安京の中心を示したという石。元は門前の六角通りの路上にあったが、明治に本堂前に移された。
- 鐘楼堂:1605年再建。梵鐘は1954年鋳造復元。六角通りを挟んだ飛地境内にある。隣に浄土真宗系の六角会館があるが直接の関係はない。
- 小野妹子墓:大阪府南河内郡太子町。池坊が管理している。
塔頭
- 池坊:本坊。現在の池坊会館の地にあった。池坊会館は1977年建設。池坊家元事務所、いけばな資料館などがある。
- 多聞院:廃絶。
- 不動院:廃絶。
- 住心院:本山修験の寺院。聖護院門跡の院家。京都岩倉に移転して現存する。
- 愛染院:廃絶。
- 能満院:廃絶。天保から元治頃、大願という画僧を中心とする仏画工房があったという。その仏画は京都市立芸術大学に残されている(『仏教図像聚成』として刊行)。
組織
歴代住職
歴代住職は頂法寺池坊#組織を参照。
資料
古典籍
- 「六角堂縁起」:『諸寺縁起集(醍醐寺本)』所収。東京国立博物館デジタルライブラリー[1]
- 「六角堂頂法寺縁起」:1197年(建久8年)の年記を持つが近世の作とみられる。
- 「洛陽六角堂略縁起」:近世の縁起
- 『花道古書集成』[2]