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松尾寺金光院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年9月23日 (金)

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松尾寺金光院は香川県仲多度郡琴平町(讃岐国多度郡)にあった真言宗寺院。松尾寺およびその鎮守の金毘羅大権現(金刀比羅宮)の別当を務めた。

組織

住職

山下家の出身者に限定され、他家から入院する場合は山下家の養子となった。また公家の猶子となったが、その猶子先は正親町家、鷲尾家、姉小路家、甘露寺家、葉室家、甘露寺家などと一定しなかった。紫衣を許可されたこともある。永代ではなかったが仁和寺院室を兼務したこともある(院室兼帯寺院)。極官は権僧正。

  • 「象頭山金光院松尾寺の組織」[1]
  • 「松尾寺伝法次第」[2]
  • 1989『香川県史』「歴代住職と家中」[3]
  • 「家密枢鑑」:1757年(宝暦7年)。金光院歴代。伽藍。『新編香川叢書・史料篇1』[4]
世数 名前 生没 在職 略歴
1 宥範 1270-1352 ?-1331-? 善通寺中興の宥鑁と同一人物とされる。1270年(文永7年)生。1331年(元弘1年/元徳3年)善通寺誕生院を再興した。1352年(正平7年/文和1年)7月1日死去。以後、200年空白。
2 宥遍 ?-1570 ?-1570 神窟を開いて神罰を受け、愛宕山の松の枝に引き裂かれて掛かっていたという(宥遍松)。1570年(元亀1年)10月12日死去。
3 宥雅 生没年不詳 ?-1579 領主長尾大隅守の縁者という。1573年(天正1年)金毘羅宝殿を建立。棟札に「松尾寺別当金光院宥雅」とある。1579年(天正7年)長曽我部元親の侵攻で長尾家が滅亡し宝物・古文書をもって堺に逃れた。そのため除歴された。
4 宥厳 ?-1600 1579?-1600 長曽我部の「陣中にいた」という。1579年(天正7年)就任か。1600年(慶長5年)2月19日死去。
5 宥盛 ?-1613 1600-1613 金刀比羅宮中興。香西郡川部村郷士の井上家知の子。下大行司社の神孫という。1600年(慶長5年)に就任。金毘羅大権現の信仰を確立し金刀比羅本教教祖とされる。1605年(慶長10年)頃、高野山浄菩提院を兼務。1613年(慶長18年)1月6日死去。金剛坊と号す。天狗となり、象頭山の守護神として祀られる。1857年(安政4年)6月、大僧正追贈。厳魂神社祭神。神号は厳魂彦命。『破禅抄』『色葉経』『南台僧正空海記』の自筆本が多和文庫に現存。
6 宥〓 ?-1645 1613-1645 豊田郡河内村の山下盛光の子。山下家出身者が住職となる慣例の初め。母は宥盛の弟の義姉。宥盛に師事。1613年(慶長18年)就任。1621年(元和7年)仁和寺宮令旨で法印。1637年(寛永14年)大覚寺宮令旨で上人位。金光院内および町方で有力な地位を占めることになる菅家・木村家・荒川家・小国家などを招いた。1645年(正保2年)11月3日死去。(〓は「目見」)
7 宥典 1626-1675 1645-1666 三野郡財田西村の山下盛政(宥〓のいとこ)の子。1626年(寛永3年)生。1645年(正保2年)、20歳で就任。1646年(正保3年)将軍徳川家光に謁見。1648年(慶安1年)3月、社領330石朱印状を拝領。境内の大規模な整備を行ったという。1666年(寛文6年)隠居。1675年(延宝3年)11月25日、大坂で死去(12月とも)。深海房と号す。
8 宥栄 1631-1693 1666-1691 宥〓の甥。山下盛包の子。1631年(寛永8年)生。1666年(寛文6年)就任。翌年1月15日、将軍徳川家綱に謁見。同年2月、大覚寺宮令旨により上人位。1672年(寛文12年)「山下家規則」を定め、住職は山下家から入るように定めた。1691年(元禄4年)隠居。1693年(元禄6年)1月15日死去。63歳。了心房と号す。
9 宥山 1669-1736 1691-1736 宥栄の甥。山下盛貞の子。正親町家の猶子。1669年(寛文9年)生。1691年(元禄4年)就任。1705年(宝永2年)、仁和寺宮令旨で法印。1709年(宝永6年)、院室仁和寺恵命院を兼務し、権僧正。初めて参内、天皇謁見を実現。1713年(正徳3年)と1717年(享保2年)に将軍に謁見。霊雲寺浄厳から受法。高野山の義剛・通玄と親交を持った。諸堂を整備。1708年(宝永5年)から「金光院日帳」を書き始める。1736年(元文1年)9月8日死去。68歳。46年にわたり在職した。
10 宥弁 ?-1760 1737-1760 宥山の甥。菅正治(宥山の妹婿)の子。鷲尾家の猶子。1737年(元文2年)就任。1739年(元文4年)頃、随心院門跡堯厳(のち還俗して関白九条尚実となる)から雲足御輿を拝領。1745年(延享2年)、青蓮院門跡尊祐法親王から紫衣を許可。1753年(宝暦3年)、天皇の御撫物下賜を受け、1月・5月・9月に玉体安康の祈願を行うようになる。同年12月、勅願所となる。1754年(宝暦4年)権僧正となり、天皇に拝謁。1760年(宝暦10年)5月、「日本一社」の臨時を賜る。1760年(宝暦10年)10月、将軍家祈願所の申請のために江戸に出るが、同年12月、江戸滞在中に死去。
11 宥存 1739-1787 1761-1787 宥山の甥。二条城与力の柳下忠次郎(宥山実弟)の子。姉小路家猶子。1739年(元文4年)生。1761年(宝暦11年)2月に就任。4月に将軍徳川家治に謁見。1766年(明和3年)、将軍家に祭礼札の献上を行うようになる。1779年(安永8年)には1月・5月・9月に将軍家祈祷を行い、巻数を献上することとなる(徳川家祈願所となる)。1786年(天明6年)権少僧都法印。画家でもあり伊藤若冲の数少ない弟子の一人でもある。1787年(天明7年)10月死去。49歳。
12 宥昌 ?-1807 7代山下盛福の弟。1807年(文化4年)死去。
13 宥彦 ?-1811 宇和島山下家の山下盛孝の次男。1811年(文化8年)死去。
14 宥慎 1792-1813 1811-1813 8代山下盛胤の弟。1792年(寛政4年)生。1813年(文化10年)死去。22歳。
15 宥学 ?-1813 1813-1813 多度津神原家出身。1813年(文化10年)死去。在職1ヶ月。
16 宥怡 1785-1844 1814-1824 豊田郡河内村の川崎伊八良の子。甘露寺国長の猶子。1785年(天明5年)生。1796年(寛政8年)、得度して宥昌に師事。1814年(文化11年)4月、住職に就任。10月、将軍徳川家斉に謁見。12月、権律師法橋。1824年(文政7年)9月、隠居。詩・書・俳句を好み、サロンを形成した。文化活動が財政を圧迫し、1833年(天保4年)高松藩から直光院に移るように命じられた。1844年(弘化1年)11月9日死去。60歳。
17 宥天 ?-1832 1824-1832 宥怡と不和。1832年(天保3年)死去。
18 宥日 1815-1836 1832-1836 1815年(文化12年)生。宥怡と不和。1836年(天保7年)死去。22歳。
19 宥黙 ?-1857 1837-1857 藩士佐野利右衛門の次男。山下家9代山下盛興の養子となる。葉室家猶子。1834年(天保5年)7月、後継者となる。1837年(天保8年)4月に就任。宥怡との関係改善を図る。1838年(天保9年)7月、権少僧都。1845年(弘化2年)2月、金堂落慶法要。1854年(安政1年)3月、権僧正。青蓮院宮より紫衣素絹直綴の着用を許可される。1857年(安政4年)6月、宥盛への大僧正追贈を実現。1857年(安政4年)8月19日死去。
20 宥常 1839-1892 1857-1868 琴陵宥常。宇和島山下家の出身。甘露寺受長の猶子。1857年(安政4年)就任。1868年(明治1年)還俗。宮司の項目を参照。

山下家

住職は山下家の出身者から出ることが定められていた。「里方」「大山下」などと呼ばれた。金光院の諸役を務めた。有力な分家がいくつか登場した。

  • 1山下盛光()<>:宥〓の父。
  • 2山下盛包()<>:宥〓の弟。宥栄の父。
  • 3山下盛貞()<>:山下盛包の子。
  • 4山下
  • 5山下
  • 6山下
  • 7山下盛福()<>:宥昌の兄。
  • 8山下盛胤()<>:宥慎の兄。
  • 9山下盛興()<>:
  • 10山下盛住()<>:

山下盛邑

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%85%89%E9%99%A2」より作成

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