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比蘇寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月20日 (土)
比蘇寺(ひそでら)は、大和国吉野郡(奈良県吉野郡大淀町)の吉野にあった古代寺院。吉野川右岸(北側)にあり、奈良時代以前はこのあたりが吉野の中心地だったと言われる。聖徳太子建立四十六寺の一つ。役小角旧跡、聖宝旧跡、叡尊旧跡。吉野寺、比曽寺、檜曽寺、比蘇山寺、現光寺、栗天奉寺とも呼ばれた。大和・世尊寺が後身。
歴史
古代
聖徳太子の創建と伝える。『日本書紀』欽明14年5月条に登場する吉野寺が比曽寺のこととされる。『扶桑略記』推古3年条には「吉野比蘇寺」とあり、栴檀で観音像を作り、祀ったという。日本霊異記には光を放つ阿弥陀像があると記す。 発掘調査でも飛鳥時代の伽藍跡が見つかっている。薬師寺式伽藍に似ているという。
奈良時代には役小角が大峰山を開く前に拠点としたと伝える。天平時代には神叡が隠遁して虚空蔵菩薩の霊感を得たといい、晩年の道センが滞在して『梵網経』の注釈を著す。
平安時代には聖宝が入り、地蔵像、弥勒像を造立して祀ったという。 清和上皇行幸(三代実録)。宇多上皇行幸(扶桑略記)。 藤原道長も長保6年(1004)6月などに参拝している。
中世
金峰山寺別当の春豪が弘安2年(1279)に復興。 さらに西大寺中興の叡尊が滞在し、以後、西大寺末となる。 南北朝時代には後醍醐天皇が行幸して、文観に秘法させている。 三条西実隆は日記に塔2基が向かい合い、楼門があったと記す。 縁起では当時、金堂、講堂、食堂、東塔西塔、東室西室、仁王門、中門、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、東院西院、伝燈堂、安居院、温室院、百済院があった。
室町時代再建の東塔は文禄3年(1594)9月、豊臣秀吉が京都伏見に移築(慶長2年とも)。さらに慶長5年(1600)、徳川家康が園城寺に移して現存する(園城寺ウェブサイト)。 江戸時代中期、曹洞宗の朴導秀拙が比曽寺を復興して大和・世尊寺と称した。 現在も古代の礎石や古瓦が残る。
東京麻布の浄土真宗光照寺は比蘇寺が三河を経て江戸時代に移った由緒を伝えるが不詳(日本歴史地名大系)。
(日本歴史地名大系、国史大辞典)