ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

永観旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年9月25日 (月)

移動: 案内, 検索

永観(えいかん、ようかん)(1033-1111)は平安時代末の三論宗真言宗浄土教の僧。京都出身。東大寺別当83世。禅林寺7世中興。

略歴

石清水八幡宮別当元命の子。あるいは源国経の子とも。山崎国成寺に入り、不動明王の加護を得た。禅林寺深観に師事。密教を学んだ。東大寺戒壇院で受戒し、有慶に三論宗を学ぶ。1086年(応徳3年)維摩会講師。光明山寺に住し、のち禅林寺に移る。禅林寺7世。浄土教に傾倒。真言三論系の寺院だった禅林寺を浄土教に帰していく契機となり、中興とされる。長座念仏して舎利の倍増を得る。念仏行道に励むとき、阿弥陀像が先を走り、振り向き「永観遅し」と言ったという。永観堂の名の由来。 1100年(康和2年)5月21日、東大寺別当83世(「仏家次第」では73世)。在任中、大和国の夫役を興福寺のためでなく、東大寺修復のために用いるべきことを訴えた。七重塔、正倉院、食堂、大仏殿回廊などを修復した。1102年(康和4年)、興福寺衆徒が東大寺周辺に火を放つと、強訴のため八幡宮の神輿を初めて京都に入京させた。1102年(康和4年)辞職して禅林寺に帰った。1111年(天永2年)11月3日死去。著書『往生拾因』『往生講式』『弥陀経要記』『三時念仏記』など。永観律師。(『東大寺辞典』ほか)


旧跡

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B0%B8%E8%A6%B3%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール