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鶏足寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | *809年(大同4年) | + | *809年(大同4年):定恵という[[東大寺]]の僧が前年の[[石尊山]]の鳴動を受けて勅命により下向して釈迦如来像を祀り創建したのが始まりという。当時は'''世尊寺'''と称したという。寺宝や遺跡から平安時代に創建されたことは確実視されている。 |
*851年(仁寿1年):[[円仁]]が中興し、'''金剛王院'''と改称。当時は[[天台宗]]だった。 | *851年(仁寿1年):[[円仁]]が中興し、'''金剛王院'''と改称。当時は[[天台宗]]だった。 | ||
*939年(天慶2年):[[平将門]]の乱で、常宥(常祐、定宥?)が調伏祈祷。この時、三本足の鶏が現れ、祈祷壇の上の将門の土首に鶏の足跡が付き、童子が現れ将門の死を予言した。これが将門の死の日とされ鶏足寺と改めたとされる。 | *939年(天慶2年):[[平将門]]の乱で、常宥(常祐、定宥?)が調伏祈祷。この時、三本足の鶏が現れ、祈祷壇の上の将門の土首に鶏の足跡が付き、童子が現れ将門の死を予言した。これが将門の死の日とされ鶏足寺と改めたとされる。 | ||
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2022年9月29日 (木) 時点における版
鶏足寺(けいそくじ)は、栃木県足利市小俣町(下野国足利郡)にある真言宗寺院。本尊は釈迦如来。真言密教慈猛流の根本道場。慈猛(1212-1277)を中興とする。金剛主院と号す。山号は仏手山(参考:同名寺院鶏足寺_(同名))
目次 |
歴史
- 809年(大同4年):定恵という東大寺の僧が前年の石尊山の鳴動を受けて勅命により下向して釈迦如来像を祀り創建したのが始まりという。当時は世尊寺と称したという。寺宝や遺跡から平安時代に創建されたことは確実視されている。
- 851年(仁寿1年):円仁が中興し、金剛王院と改称。当時は天台宗だった。
- 939年(天慶2年):平将門の乱で、常宥(常祐、定宥?)が調伏祈祷。この時、三本足の鶏が現れ、祈祷壇の上の将門の土首に鶏の足跡が付き、童子が現れ将門の死を予言した。これが将門の死の日とされ鶏足寺と改めたとされる。
- 1263年(弘長3年):この年鋳造の梵鐘が現存。
- 1255年(建長7年):頼尊が下野薬師寺の慈猛に帰依し、一山あげて天台宗から真言宗に改宗した。
- 1268年(文永5年):頼尊は伝法灌頂を受け慈猛意教流を相承した。以後、関東における真言宗の中心地の一つとして興隆した。
- 1381年(弘和1年/永徳1年)頃:この頃には鶴岡八幡宮の支配下に入ったという。
- 1553年(天文22年):上杉謙信の兵火で焼失。
- 1591年(天正19年):徳川家康から朱印地10石を与えられ復興。近世は無本寺、田舎本寺だったが、新義真言宗の江戸触頭が鶏足寺の末寺に離末を積極的に働きかけたこともあり勢力は衰えた。
- 1713年(正徳3年):現在の本堂を再建。
- 1732年(享保17年):護摩堂再建。
- 1873年(明治6年):長谷寺末となる。
- 1886年(明治19年):別格本山。
- 1947年(昭和22年)12月23日:真言宗豊山派から独立して「真言宗鶏足寺派」として法人設立(『宗教年報』)。1948年(昭和23年)2月3日登記、宗教法人法に基づき1952年(昭和27年)7月7日認証(宗教便覧)。
- 1953年(昭和28年):「真言教団」として認証、(『仏教宗派辞典』)。1954年(昭和29年)1月6日登記(『宗教年鑑』)。本山、のち大本山と名乗ったようだ。
- 1988年(昭和63年):真言教団を解散し、真言宗豊山派に復帰(『日本歴史地名大系』)。
- (近年、単立となり真言宗慈猛派を名乗るか?)
伽藍
- 本堂:本尊は釈迦如来。西脇に不動明王を祀る。1713年(正徳3年)再建。
- 護摩堂:本尊は五大明王。1732年(享保17年)再建。五大尊堂、赤御堂とも。
- 定宥入定塚:平将門を調伏した定宥の塚。
- 閻魔堂:
- 勅使門:鎌倉時代、正和年間の建立。最古の建造物。
子院
- 五尊教会
- 授明院:廃絶。
- 西光坊:廃絶。
- 浄満坊:廃絶。
- 恵性院:現存。
- 明月院:廃絶。
- 安養院:廃絶。
組織
歴代住職
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
定恵 | 生没年不詳 | 809 | 鶏足寺開山。東大寺の僧侶だという。藤原鎌足の子の定恵とは別人か。 | |
円仁 | 794-864 | 851 | 天台宗山門派の祖。北関東には円仁伝説が多い。 | |
定宥 | 833-968 | 不詳 | 939年(天慶2年)平将門の調伏を成就させ、鶏足寺と改称する。968年(安和1年)11月24日、136歳で入定したという。境内に入定塚がある。 | |
25 | 慈猛 | 1212-1277 | 不詳 | 中興1世。下野薬師寺長老。1212年(建暦2年)生。高野山金剛三昧院頼賢の弟子。後宇多天皇は留興長老の号を賜った。1277年(建治3年)4月21日死去。入仏房。良賢とも。 |
26 | 頼尊 | 1244-1316 | 不詳 | 中興2世。鶏足寺学頭。鶏足寺33世とも。慈猛を招聘したという。1316年(正和5年)3月29日、73歳で死去というが年代の整合性が合わなくなるため異説もある。弟子に善通寺宥範。一乗坊法印。備前僧都。 |
27 | 尊慶 | 1271-1355 | 不詳 | 中興3世。鶏足寺学頭。1271年(文永8年)生。頼尊の弟子。1355年(正平10年/文和4年)6月6日死去。85歳。弟子に世良田総持寺開山の慶範。 |
28 | 尊猷 | 1283-1369 | 不詳 | 中興4世。鶏足寺学頭。足利家の出身。足利尊氏の連枝の山下殿(不詳)の次男という。尊慶の弟子。1283年(弘安6年)生。1369年(応安2年)3月28日死去。87歳。道場坊と号す。弟子に尊誉、空覚、源宥。 |
29 | 巌祐 | 1294-1375 | 不詳 | 鶏足寺学頭。常陸国行方郡出身。1294年(永仁2年)生。尊慶、尊猷の弟子。1375年(天授1年/永和1年)3月20日死去。82歳。道場坊、定門坊と号す。 |
30 | 祐慶 | 1299-1376 | 不詳 | 宇都宮出身。巌祐の弟子。1299年(正安1年)生。宇都宮金剛定寺で学ぶ。1376年(永和2年)2月21日死去。78歳。鶏足寺学頭にはなっていないか。 |
31 | 慶吽 | 生没年不詳 | 不詳 | 鶏足寺学頭。宇都宮出身。祐慶の実弟という。巌祐、祐慶の弟子。「永和8年癸未」2月15日死去。84歳。金剛院と号す。 |
32 | 祐尊 | 生没年不詳 | 不詳 | 鶏足寺学頭。下野国桑島出身。祐尊の弟子。金剛院と号す。 |
33 | 尊海 | 生没年不詳 | 不詳 | 鶏足寺学頭。下野国桑島出身。祐尊の弟子。金剛院と号す。由良光明坊行人という。 |
34 | 尊鑁 | 生没年不詳 | 不詳 | 鶏足寺学頭。尊海の弟子。金剛院と号す。 |
35 | 尊等 | 生没年不詳 | 不詳 | 鶏足寺学頭。平氏。尊鑁の弟子。渋川義昌を檀那として入寺。初めは授明院に住す。 |
36 | 俊円 | 生没年不詳 | 不詳 | 尊等の弟子。92歳。 |
37 | 俊永 | 生没年不詳 | 不詳 | 87歳。 |
38 | 秀応 | 生没年不詳 | 不詳 | 52歳。 |
39 | 憲秀 | 生没年不詳 | 不詳 | 91歳。 |
40 | 舜誉 | 生没年不詳 | 不詳 | 72歳。 |
41 | 俊意 | 生没年不詳 | 不詳 | 52歳。 |
42 | 宥尊 | 生没年不詳 | 不詳 | 58歳。 |
43 | 宥範 | 生没年不詳 | 不詳 | 71歳。 |
44 | 龍寿 | 生没年不詳 | 不詳 | 68歳。 |
45 | 宥慶 | 生没年不詳 | 不詳 | |
46 | 宥学 | 生没年不詳 | 不詳 | 58歳。 |
47 | 祐恵 | 生没年不詳 | 不詳 | 62歳。 |
48 | 温恵 | 生没年不詳 | 不詳 | 76歳。 |
49 | 宥弁 | 生没年不詳 | 不詳 | 78歳。 |
50 | 宥瑞 | 生没年不詳 | 不詳 | 67歳。 |
51 | 尊慧 | 生没年不詳 | 不詳 | 72歳。 |
52 | 学尊 | 生没年不詳 | 不詳 | 78歳。 |
53 | 来尊 | 生没年不詳 | 不詳 | 68歳。 |
54 | 田下憲尊 | 生没年不詳 | 不詳 | 75歳。 |
55 | 来雄 | 生没年不詳 | 不詳 | 70歳。 |
56 | 上野相憲 | 1832-1898 | 不詳 | 長谷寺化主56世。(略歴は長谷寺#組織を参照) |
57 | 戒伝 | 生没年不詳 | 不詳 | 57歳。神林戒伝? |
58 | 親海 | 生没年不詳 | 不詳 | 83歳。 |
59 | 小林正盛 | 1876-1937 | 1914- | 長谷寺化主66世。茨城県古河市出身。1876年(明治9年)生。1913年(大正2年)肥前・誕生院創建に尽くす。1914年(大正3年)鶏足寺住職。1930年(昭和5年)長谷寺化主。1937年(昭和12年)6月18日死去。(略歴は長谷寺#組織を参照) |
60 | 伊藤周盛 | 1891-? | 「真言教団」管長。1891年(明治24年)生。小林正盛の弟子。豊山大学卒。米国開教師。1916年(大正5年)から1931年(昭和6年)まで高野山米国別院に駐在。戦後、「真言教団」を設立。 | |
伊藤恵盛 | 「真言教団」管長。 | |||
伊藤俊浩 |
資料
- 「鶏足寺世代血脈」:慈宥が1429年(永享1年)に編纂。その後も加筆。[3]。[4]
- 「鶏足寺世代譜」
- 「下野国足利郡小俣鶏足寺下野上野侍檀那帳写覚」
- 「小俣郷鶏足寺縁起事」:足利誌資料草稿の一つ。鶏足寺世代血脈を含む。西尾市岩瀬文庫。
- 「鶏足寺縁起略抄写」:足利誌資料草稿の一つ。西尾市岩瀬文庫。
- 「鶏足寺所蔵古文書集」:足利誌資料草稿の一つ。西尾市岩瀬文庫。
- 丸山太一郞1916「下野下利郡小俣村鶏足寺銅仏之銘」『考古学雑誌』7-2
- 1933「小俣の鷄足寺」『足利大観』
- 1933「小俣町及び鷄足寺」『上毛及上毛人』197
- 1935「鶏足寺年表」
- 伊藤周盛1940『下野小俣 鶏足寺』
- 1975『近代足利市史3』
- 柳田貞夫1975『在地土豪と南北朝の動乱:足利西部地区の中世前期史』
- 野村隆1979「足利市鶏足寺の石塔(資料報告)」『史迹と美術』49-1
- 1983「密教の普及と鶏足寺」『新編足利の歴史』
- 1983「鶏足寺世代血脈抄」『鷲宮町史史料4』
- 1987「小俣鶏足寺の法流」『伊勢崎市史 通史編1』
- 内山純子1990「常陸における真言宗の展開」『東国における仏教諸宗派の展開』?
- 1999『小俣川沿岸遺跡群発掘調査報告書:圃場整備事業に伴う鶏足寺周辺遺跡の調査報告』
- 小此木輝之2002「真言宗の展開と関東武士」『中世寺院と関東武士』