ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

出羽・寂光寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年7月30日 (火)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?羽黒山別当)
(?近世の羽黒山執行)
 
(間の12版分が非表示)
3行: 3行:
== 組織 ==
== 組織 ==
===羽黒山執行===
===羽黒山執行===
-
別当を兼ねるときもある。
+
「羽黒山修験道要略」による。「羽黒山修験広法灌頂伝持血脈」(「伝持血脈」)も参照。号は「伝持血脈」による。
-
*[[蜂子皇子]](562-641):[[崇峻天皇]]皇子。
+
*[[蜂子皇子]](562-641):[[崇峻天皇]]皇子。聖徳太子の従兄弟に当たる。崇峻天皇暗殺に際して東北に落ち延びたと言われる。能除太子と同一視される。1823年(文政6年)8月、[[寛永寺]]を通じて朝廷より「照見大菩薩」の諡号を賜る。神仏分離に伴い、1874年(明治7年)2月7日、神号を「蜂子命」と定められた。
*弘俊:蜂子皇子の弟子。皇極天皇1年に初代執行になったとされる。尊法坊と号す。
*弘俊:蜂子皇子の弟子。皇極天皇1年に初代執行になったとされる。尊法坊と号す。
-
*忍慶:
+
*忍慶:大光坊
-
*行善:
+
*行善:理本坊
-
*直酋:
+
*直酋:会部坊。「伝持血脈」では真西。
-
*源慶:
+
*源慶:越前坊。「伝持血脈」では深慶。
-
*行覚:
+
*行覚:理円坊。
-
*弘弁:
+
*弘弁:聖泉坊。
-
*秀慶:
+
*秀慶:下総坊。
-
*宗祐:
+
*宗祐:善教坊。
-
*覚俊:
+
*覚俊:密蔵坊。
-
*行栄:
+
*行栄:総持坊。
-
*良弁:
+
*良弁:山城坊。
-
*行栄:
+
*行栄:総持坊。再任。
-
*行承:
+
*行承:形部坊。「伝持血脈」では行円。
-
*明春:
+
*明春:加賀坊。
-
*宗慶:
+
*宗慶:永真坊。「伝持血脈」では泉慶。
-
*盛慶:
+
*盛慶:三河坊。
-
*了覚:
+
*了覚:了学坊。「伝持血脈」では宗円。
-
*乗円:
+
*乗円:伊豆坊。
-
*承宗:
+
*承宗:佐渡坊。「伝持血脈」では永宗。
-
*隆快:
+
*隆快:播磨坊。
-
*禅盛:
+
*禅盛:甲斐坊。
-
*盛煕:
+
*盛煕:空耶坊。
-
*常久:
+
*常久:暹永坊。
-
*長豪:
+
*長豪:大耶坊。
-
*金薩:
+
*金薩:実蔵坊。
-
*広宗:
+
*広宗:式部坊。
-
*長豪:
+
*長豪:大耶坊。再任。
-
*盛酋:
+
*盛酋:永泉坊。「伝持血脈」では盛酉。
-
*泉慶:
+
*泉慶:永金坊。
-
*重盛:
+
*重盛:義宗坊。「伝持血脈」では重増。
-
*慶善:
+
*慶善:朝泉坊。
-
*慶宗:
+
*慶宗:伊勢坊。「伝持血脈」では慶実。
-
*宗春:
+
*宗春:三河坊。
-
*永泉:
+
*永泉:二位坊。
-
*蔵賢:
+
*蔵賢:薬師坊。
-
*慶海:
+
*慶海:延命坊。
-
*盛永:
+
*盛永:沢内坊。
-
*永慶:
+
*永慶:沢内坊。
-
*慶尊:
+
*慶尊:宝前坊。
-
*永慶:再任?
+
*永慶:華蔵坊。沢内坊とは別人?
-
*慶俊:光明院。
+
*慶俊:初めて別当を兼任した三山執行。[[日月寺]]住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。別当を兼任する。以後、別当は三山執行の兼職となる。再任。宝前坊、光明院と号す。
-
*元慶:薩曼坊。
+
*元慶:薩摩坊。
-
*源慶:
+
*源慶:空照坊。
-
*尊良:
+
*尊良:宝性院。
-
*慶俊:再任?
+
*慶俊:再任。
-
*宥源(-1617)<-1617>
+
*宥源(-1617)<>:慶俊の弟子。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。1605年(慶長10年)ごろ、宝性院尊量に最上義光へ訴えられて、追放された。宝前院と号す。
-
*源慶(-1618)<1617-1618>
+
*源慶(-1618)<1617-1618>:「羽黒山修験道要略」「伝持血脈」に記載なし。「出羽三山史年表」に記載。
-
*宥俊(1573-1661)<1618-1661>
+
*宥俊(1573-1661)<1618-1661>:宥源の弟子。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。1605年(慶長10年)ごろ、宝性院尊量に最上義光へ訴えられて、追放された。最上義光の死後、帰還を果たした。宝前院と号す。
-
*天宥(-1674)<1661-1668>:中興。初名は宥誉。[[天海]]の弟子となり、[[天台宗]]に改宗。1668年(寛文8年)流罪。
+
*天宥(1593-1674)<1661-1668>:中興。宥俊の弟子。もと「宥誉」と称した。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。石工が巧みで、手向の六字橋、東照社の手水舎、荒沢の鳥居、須賀の滝を造営。また[[玉川寺]]の庭園を造営したという。1641年(寛永18年)、江戸で天海に謁して、「天宥」と称す。1661年(寛文1年)、宥俊の死去を受けて、執行を兼ねる。出羽三山全山を羽黒山の支配下に置こうとするが、湯殿山の抵抗にあって実現しなかった。1668年(寛文8年)4月、[[伊豆大島]]に遠島となるが、実際には伊豆[[新島]]に流された。同地で死去。以後、三山執行別当には、寛永寺の高僧が兼任するようになり、羽黒山の独立性は弱まった。宝前院と号す。
 +
*純応:覚樹院。「羽黒山修験道要略」に記載なし。「伝持血脈」に記載。
-
===羽黒山別当===
+
===近世の羽黒山執行===
-
1668年(寛文8年)から輪王寺宮の命で任命され、別当または別当代が執行を兼務。
+
*1668年(寛文8年)から[[輪王寺宮]]の命で任命。別当または別当代が職責を果たす。寛永寺僧が務め、赴任しなかったものが多い。
 +
*主に戸川安章「出羽三山史年表」より。
 +
{|class="wikitable"
 +
|+
 +
!style="width:5%;"|歴代
 +
!style="width:10%;"|別当
 +
!style="width:5%;"|別当代
 +
!style="width:10%;"|生没年
 +
!style="width:10%;"|在職年
 +
!style="width:10%;"|号
 +
!style="width:40%;"|備考
 +
|-
 +
|52
 +
|圭海
 +
|
 +
|
 +
|1668-1675
 +
|尊重院
 +
|宝樹院(徳川家綱の生母)の弟という。元は「月窓」と称した[[日蓮宗]]僧侶という。[[毘沙門堂]]公海の弟子。寛永寺浄円院に住す。[[愛宕山]]長床坊に転じる。
 +
|-
 +
|
 +
|(圭海)
 +
|圭純
 +
|
 +
|1668-1675
 +
|円鏡院
 +
|「出羽三山史年表」には記載なし。
 +
|-
 +
|53
 +
|(輪王寺宮)
 +
|実胤
 +
|?-1677
 +
|1675-1677
 +
|寿命院
 +
|
 +
|-
 +
|54
 +
|(輪王寺宮)
 +
|円海
 +
|
 +
|1677-1677
 +
|明光院
 +
|
 +
|-
 +
|55
 +
|胤海
 +
|
 +
|
 +
|1677-1682
 +
|凌雲院
 +
|天海の弟子。[[寛永寺]]学頭。[[寛永寺凌雲院]]。「別当別当代一覧」では1678年(延宝6年)就任。[[伯耆大山]]の[[伯耆・大山寺|大山寺]]学頭4世。
 +
|-
 +
|
 +
|(胤海)
 +
|周海
 +
|
 +
|
 +
|惣持院
 +
|「出羽三山史年表」には記載ないが「別当別当代一覧」では1678年(延宝6年)就任の別当代とする。
 +
|-
 +
|56
 +
|(輪王寺宮)
 +
|良諶
 +
|
 +
|1683-1684
 +
|覚前院
 +
|
 +
|-
 +
|57
 +
|公雄
 +
|
 +
|
 +
|1684-1691
 +
|円覚院
 +
|「別当別当代一覧」では1689年(元禄2年)退任のように記す。
 +
|-
 +
|
 +
|(公雄・義天)
 +
|照寂
 +
|
 +
|1684-1692
 +
|和合院
 +
|
 +
|-
 +
|58
 +
|義天
 +
|
 +
|
 +
|1691-1699
 +
|仏項院
 +
|義天以後は覚諄まで羽黒山に下向せず。「別当別当代一覧」では1692年(元禄5年)就任。
 +
|-
 +
|
 +
|(義天)
 +
|光海
 +
|
 +
|1692-1699
 +
|心地院
 +
|
 +
|-
 +
|59
 +
|智舟
 +
|
 +
|
 +
|1699-1705
 +
|願王院
 +
|寛永寺明王院。著書に『台宗二百題』。「別当別当代一覧」では「智周」とする。
 +
|-
 +
|
 +
|(智舟)
 +
|存海
 +
|
 +
|1699-1705
 +
|理善院
 +
|「別当別当代一覧」では「祐存」とする。
 +
|-
 +
|60
 +
|貫通
 +
|
 +
|?-1709
 +
|1705-1709
 +
|楞伽院
 +
|[[寛永寺]]執当16代。立石寺48世。(略歴は[[立石寺#組織]]を参照)「別当別当代一覧」では「貫道」とする。
 +
|-
 +
|
 +
|(貫通)
 +
|了堂
 +
|
 +
|1705-1709
 +
|大乗院
 +
|
 +
|-
 +
|61
 +
|(輪王寺宮)
 +
|弁海
 +
|
 +
|1709-1719
 +
|智妙院
 +
|「別当別当代一覧」では1710年(宝永7年)就任とする。「出羽三山史年表」では退任年を記さない。
 +
|-
 +
|
 +
|慈永
 +
|
 +
|
 +
|1719-1720
 +
|霊山院
 +
|[[善光寺大勧進]]に転任(75世の慈泉か)。「出羽三山史年表」では就任年を記さない。就任年は「別当別当代一覧」による。
 +
|-
 +
|62
 +
|(輪王寺宮)
 +
|智英
 +
|?-1721
 +
|1720-1721
 +
|施徳院
 +
|病死。「別当別当代一覧」では「知英」とする。「別当別当代一覧」では1719年(享保4年)就任とする。
 +
|-
 +
|63
 +
|(輪王寺宮)
 +
|亮天
 +
|
 +
|1721-1730
 +
|性源院
 +
|「別当別当代一覧」では1720年(享保5年)就任とする。
 +
|-
 +
|64
 +
|(輪王寺宮)
 +
|可道
 +
|
 +
|1730-1739
 +
|久遠院
 +
|
 +
|-
 +
|65
 +
|(輪王寺宮)
 +
|覚泉
 +
|
 +
|1739-1741
 +
|霊光院
 +
|
 +
|-
 +
|66
 +
|(輪王寺宮)
 +
|弁宥
 +
|
 +
|1741-1747
 +
|正光院
 +
|
 +
|-
 +
|67
 +
|(輪王寺宮)
 +
|諄慶
 +
|?-1759
 +
|1747-1759
 +
|医王院
 +
|病死。
 +
|-
 +
|68
 +
|(輪王寺宮)
 +
|智印
 +
|
 +
|1759-1766
 +
|智願院
 +
|「別当別当代一覧」では「知印」とする。
 +
|-
 +
|69
 +
|(輪王寺宮)
 +
|亮豊
 +
|
 +
|1766-1775
 +
|戒光院
 +
|
 +
|-
 +
|70
 +
|(輪王寺宮)
 +
|義詮
 +
|
 +
|1775-1782
 +
|得禅院
 +
|辞任後2年間、別当代任命されず。
 +
|-
 +
|71
 +
|(輪王寺宮)
 +
|義俊
 +
|
 +
|1784-1788
 +
|成満院
 +
|「別当別当代一覧」では1782年(天明2年)就任とする。
 +
|-
 +
|72
 +
|(輪王寺宮)
 +
|官惇
 +
|?-1791
 +
|1788-1791
 +
|化城院
 +
|
 +
|-
 +
|73
 +
|(輪王寺宮)
 +
|義研
 +
|
 +
|1791-1808
 +
|篤行院
 +
|
 +
|-
 +
|74
 +
|(輪王寺宮)
 +
|亮明
 +
|
 +
|1808-1811
 +
|慈心院
 +
|
 +
|-
 +
|75
 +
|'''覚諄'''
 +
|
 +
|?-1847
 +
|1811-1825
 +
|深達院
 +
|羽黒山中興。権僧正。越前勝山の出身。[[平泉寺]]で得度。[[日光山医王院]]より転住。山内の支持を得て、諸改革の実行を成功させた。1820年(文政3年)、本社再建を実現。さらに1823年(文政6年)、社号を「出羽神社」とし、正一位の神階授与、「照見大菩薩」号下賜を実現した。「別当別当代一覧」では1813年(文化10年)就任とする。荘厳院、深達院、摩訶衍院と号す。
 +
|-
 +
|76
 +
|山海
 +
|
 +
|1784-1853
 +
|1825-1836
 +
|楞伽院
 +
|日光山藤本院から転任。世良田[[長楽寺]]を経て[[善光寺大勧進]]に転住。(略歴は[[善光寺大勧進#組織]]を参照)
 +
|-
 +
|77
 +
|覚音
 +
|
 +
|?-1842
 +
|1836-1842
 +
|光明院
 +
|日光山医王院から転任。「別当別当代一覧」では1837年(天保8年)就任とする。
 +
|-
 +
|78
 +
|(輪王寺宮)
 +
|実円
 +
|
 +
|1842-1846
 +
|隆信院
 +
|延暦寺常光院に転じる。「出羽三山史年表」では別当代とするが、「別当別当代一覧」では1843年(天保14年)就任の別当とする。
 +
|-
 +
|79
 +
|澄海
 +
|
 +
|?-1864
 +
|1846-1861
 +
|龍王院(海龍王院)
 +
|日光山龍光院から転任。権僧正。手向蓮台寺に隠居。「別当別当代一覧」では1847年(弘化4年)就任とする。
 +
|-
 +
|80
 +
|官田
 +
|
 +
|?-1872
 +
|1861-1870
 +
|霊山院(霊鷲院)
 +
|寛永寺福聚院から転任。出羽国村山郡出身。立石寺弟子。権僧正。1870年(明治3年)10月還俗して「羽黒宝前」と名乗る。出羽神社社司となる。 1872年(明治5年)死去。
 +
|}
-
*圭海()<1668-1675>:宝樹院(徳川家綱の生母)の弟という。元は[[日蓮宗]]僧侶という。[[毘沙門堂]]公海の弟子。浄円院に住す。[[愛宕山]]長床坊に転じる。尊重院と号す。
 
-
*実胤(-1677)<1675-1677>:別当代。寿命院と号す。
 
-
*円海()<1677-1677>:別当代。明光院と号す。
 
-
*胤海()<1677-1682>:東叡山学頭から転任。[[寛永寺凌雲院]]。
 
-
*良諶()<1683-1684>:留主居。覚前院と号す。
 
-
*公雄()<1684-1691>:円覚院と号す。
 
-
*照寂()<1684-1692>:名代。和合院と号す。
 
-
*義天()<1691-1699>:仏項院と号す。
 
-
*光海()<1692-1699>:別当代。心地院と号す。
 
-
*智舟()<1699-1705>:願王院と号す。
 
-
*存海()<1699-1705>:別当代。理善院と号す。
 
-
*貫通()<1705-1709>:楞伽院と号す。
 
-
*了堂()<1705-1709>:留主居。大乗院と号す。
 
-
*弁海()<1709->:別当代。智妙院と号す。
 
-
*慈永()<-1720>:霊山院と号す。[[善光寺大勧進]]に転任。
 
-
*智英(-1721)<1720-1721>:別当代。施徳院と号す。病死。
 
-
*亮天()<1721-1730>:別当代。性源院と号す。
 
-
*可道()<1730-1739>:別当代。久遠院と号す。
 
-
*覚泉()<1739-1741>:別当代。霊光院と号す。
 
-
*弁宥()<1741-1747>:別当代。正光院と号す。
 
-
*諄慶(-1759)<1747-1759>:別当代。医王院と号す。病死。
 
-
*智印()<1759-1766>:別当代。智願院と号す。
 
-
*亮豊()<1766-1775>:別当代。戒光院と号す。
 
-
*義詮()<1775-1782>:別当代。得禅院と号す。2年間、別当代任命されず。
 
-
*義俊()<1784-1788>:別当代。成満院と号す。
 
-
*官淳(-1791)<1788-1791>:別当代。化城院と号す。
 
-
*義研()<1791-1808>:別当代。篤行院と号す。
 
-
*亮明()<1808-1811>:別当代。慈心院と号す。
 
-
*覚諄(-1847)<1811-1825>:中興。日光山医王院から転任。深達院と号す。
 
-
*山海()<1825-1836>:日光山藤本院から転任。楞伽院と号す。
 
-
*覚音(-1842)<1836-1842>:日光山医王院から転任。光明院と号す。
 
-
*実円()<1842-1846>:別当代。隆信院と号す。延暦寺常光院に転じる。
 
-
*澄海(-1864)<1846-1861>:日光山龍光院から転任。龍王院と号す。
 
-
*官田()<1861-1870>:寛永寺福聚院から転任。霊山院と号す。1870年(明治3年)10月還俗して「羽黒宝前」と名乗る。出羽神社社司となる。
 
-
 
-
 
-
*天宥まで、島津伝道「羽黒山修験道要略」より。源慶のみ「出羽三山史年表」から。
 
-
*天宥から官田まで戸川安章「出羽三山史年表」より
 
[[Category:山形県]]
[[Category:山形県]]

2024年7月30日 (火) 時点における最新版

寂光寺(じゃっこうじ)は、出羽国田川郡にあった出羽三山羽黒山天台宗寺院。(参考:同名寺院寂光寺

組織

羽黒山執行

「羽黒山修験道要略」による。「羽黒山修験広法灌頂伝持血脈」(「伝持血脈」)も参照。号は「伝持血脈」による。

  • 蜂子皇子(562-641):崇峻天皇皇子。聖徳太子の従兄弟に当たる。崇峻天皇暗殺に際して東北に落ち延びたと言われる。能除太子と同一視される。1823年(文政6年)8月、寛永寺を通じて朝廷より「照見大菩薩」の諡号を賜る。神仏分離に伴い、1874年(明治7年)2月7日、神号を「蜂子命」と定められた。
  • 弘俊:蜂子皇子の弟子。皇極天皇1年に初代執行になったとされる。尊法坊と号す。
  • 忍慶:大光坊
  • 行善:理本坊
  • 直酋:会部坊。「伝持血脈」では真西。
  • 源慶:越前坊。「伝持血脈」では深慶。
  • 行覚:理円坊。
  • 弘弁:聖泉坊。
  • 秀慶:下総坊。
  • 宗祐:善教坊。
  • 覚俊:密蔵坊。
  • 行栄:総持坊。
  • 良弁:山城坊。
  • 行栄:総持坊。再任。
  • 行承:形部坊。「伝持血脈」では行円。
  • 明春:加賀坊。
  • 宗慶:永真坊。「伝持血脈」では泉慶。
  • 盛慶:三河坊。
  • 了覚:了学坊。「伝持血脈」では宗円。
  • 乗円:伊豆坊。
  • 承宗:佐渡坊。「伝持血脈」では永宗。
  • 隆快:播磨坊。
  • 禅盛:甲斐坊。
  • 盛煕:空耶坊。
  • 常久:暹永坊。
  • 長豪:大耶坊。
  • 金薩:実蔵坊。
  • 広宗:式部坊。
  • 長豪:大耶坊。再任。
  • 盛酋:永泉坊。「伝持血脈」では盛酉。
  • 泉慶:永金坊。
  • 重盛:義宗坊。「伝持血脈」では重増。
  • 慶善:朝泉坊。
  • 慶宗:伊勢坊。「伝持血脈」では慶実。
  • 宗春:三河坊。
  • 永泉:二位坊。
  • 蔵賢:薬師坊。
  • 慶海:延命坊。
  • 盛永:沢内坊。
  • 永慶:沢内坊。
  • 慶尊:宝前坊。
  • 永慶:華蔵坊。沢内坊とは別人?
  • 慶俊:初めて別当を兼任した三山執行。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。別当を兼任する。以後、別当は三山執行の兼職となる。再任。宝前坊、光明院と号す。
  • 元慶:薩摩坊。
  • 源慶:空照坊。
  • 尊良:宝性院。
  • 慶俊:再任。
  • 宥源(-1617)<>:慶俊の弟子。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。1605年(慶長10年)ごろ、宝性院尊量に最上義光へ訴えられて、追放された。宝前院と号す。
  • 源慶(-1618)<1617-1618>:「羽黒山修験道要略」「伝持血脈」に記載なし。「出羽三山史年表」に記載。
  • 宥俊(1573-1661)<1618-1661>:宥源の弟子。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。1605年(慶長10年)ごろ、宝性院尊量に最上義光へ訴えられて、追放された。最上義光の死後、帰還を果たした。宝前院と号す。
  • 天宥(1593-1674)<1661-1668>:中興。宥俊の弟子。もと「宥誉」と称した。日月寺住職を経て、三山執行となる(『羽黒山中興覚書』)。石工が巧みで、手向の六字橋、東照社の手水舎、荒沢の鳥居、須賀の滝を造営。また玉川寺の庭園を造営したという。1641年(寛永18年)、江戸で天海に謁して、「天宥」と称す。1661年(寛文1年)、宥俊の死去を受けて、執行を兼ねる。出羽三山全山を羽黒山の支配下に置こうとするが、湯殿山の抵抗にあって実現しなかった。1668年(寛文8年)4月、伊豆大島に遠島となるが、実際には伊豆新島に流された。同地で死去。以後、三山執行別当には、寛永寺の高僧が兼任するようになり、羽黒山の独立性は弱まった。宝前院と号す。
  • 純応:覚樹院。「羽黒山修験道要略」に記載なし。「伝持血脈」に記載。

近世の羽黒山執行

  • 1668年(寛文8年)から輪王寺宮の命で任命。別当または別当代が職責を果たす。寛永寺僧が務め、赴任しなかったものが多い。
  • 主に戸川安章「出羽三山史年表」より。
歴代 別当 別当代 生没年 在職年 備考
52 圭海 1668-1675 尊重院 宝樹院(徳川家綱の生母)の弟という。元は「月窓」と称した日蓮宗僧侶という。毘沙門堂公海の弟子。寛永寺浄円院に住す。愛宕山長床坊に転じる。
(圭海) 圭純 1668-1675 円鏡院 「出羽三山史年表」には記載なし。
53 (輪王寺宮) 実胤 ?-1677 1675-1677 寿命院
54 (輪王寺宮) 円海 1677-1677 明光院
55 胤海 1677-1682 凌雲院 天海の弟子。寛永寺学頭。寛永寺凌雲院。「別当別当代一覧」では1678年(延宝6年)就任。伯耆大山大山寺学頭4世。
(胤海) 周海 惣持院 「出羽三山史年表」には記載ないが「別当別当代一覧」では1678年(延宝6年)就任の別当代とする。
56 (輪王寺宮) 良諶 1683-1684 覚前院
57 公雄 1684-1691 円覚院 「別当別当代一覧」では1689年(元禄2年)退任のように記す。
(公雄・義天) 照寂 1684-1692 和合院
58 義天 1691-1699 仏項院 義天以後は覚諄まで羽黒山に下向せず。「別当別当代一覧」では1692年(元禄5年)就任。
(義天) 光海 1692-1699 心地院
59 智舟 1699-1705 願王院 寛永寺明王院。著書に『台宗二百題』。「別当別当代一覧」では「智周」とする。
(智舟) 存海 1699-1705 理善院 「別当別当代一覧」では「祐存」とする。
60 貫通 ?-1709 1705-1709 楞伽院 寛永寺執当16代。立石寺48世。(略歴は立石寺#組織を参照)「別当別当代一覧」では「貫道」とする。
(貫通) 了堂 1705-1709 大乗院
61 (輪王寺宮) 弁海 1709-1719 智妙院 「別当別当代一覧」では1710年(宝永7年)就任とする。「出羽三山史年表」では退任年を記さない。
慈永 1719-1720 霊山院 善光寺大勧進に転任(75世の慈泉か)。「出羽三山史年表」では就任年を記さない。就任年は「別当別当代一覧」による。
62 (輪王寺宮) 智英 ?-1721 1720-1721 施徳院 病死。「別当別当代一覧」では「知英」とする。「別当別当代一覧」では1719年(享保4年)就任とする。
63 (輪王寺宮) 亮天 1721-1730 性源院 「別当別当代一覧」では1720年(享保5年)就任とする。
64 (輪王寺宮) 可道 1730-1739 久遠院
65 (輪王寺宮) 覚泉 1739-1741 霊光院
66 (輪王寺宮) 弁宥 1741-1747 正光院
67 (輪王寺宮) 諄慶 ?-1759 1747-1759 医王院 病死。
68 (輪王寺宮) 智印 1759-1766 智願院 「別当別当代一覧」では「知印」とする。
69 (輪王寺宮) 亮豊 1766-1775 戒光院
70 (輪王寺宮) 義詮 1775-1782 得禅院 辞任後2年間、別当代任命されず。
71 (輪王寺宮) 義俊 1784-1788 成満院 「別当別当代一覧」では1782年(天明2年)就任とする。
72 (輪王寺宮) 官惇 ?-1791 1788-1791 化城院
73 (輪王寺宮) 義研 1791-1808 篤行院
74 (輪王寺宮) 亮明 1808-1811 慈心院
75 覚諄 ?-1847 1811-1825 深達院 羽黒山中興。権僧正。越前勝山の出身。平泉寺で得度。日光山医王院より転住。山内の支持を得て、諸改革の実行を成功させた。1820年(文政3年)、本社再建を実現。さらに1823年(文政6年)、社号を「出羽神社」とし、正一位の神階授与、「照見大菩薩」号下賜を実現した。「別当別当代一覧」では1813年(文化10年)就任とする。荘厳院、深達院、摩訶衍院と号す。
76 山海 1784-1853 1825-1836 楞伽院 日光山藤本院から転任。世良田長楽寺を経て善光寺大勧進に転住。(略歴は善光寺大勧進#組織を参照)
77 覚音 ?-1842 1836-1842 光明院 日光山医王院から転任。「別当別当代一覧」では1837年(天保8年)就任とする。
78 (輪王寺宮) 実円 1842-1846 隆信院 延暦寺常光院に転じる。「出羽三山史年表」では別当代とするが、「別当別当代一覧」では1843年(天保14年)就任の別当とする。
79 澄海 ?-1864 1846-1861 龍王院(海龍王院) 日光山龍光院から転任。権僧正。手向蓮台寺に隠居。「別当別当代一覧」では1847年(弘化4年)就任とする。
80 官田 ?-1872 1861-1870 霊山院(霊鷲院) 寛永寺福聚院から転任。出羽国村山郡出身。立石寺弟子。権僧正。1870年(明治3年)10月還俗して「羽黒宝前」と名乗る。出羽神社社司となる。 1872年(明治5年)死去。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E3%83%BB%E5%AF%82%E5%85%89%E5%AF%BA」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール