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比蘇寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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金峰山寺別当の春豪が弘安2年(1279)に復興。
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さらに西大寺中興の叡尊が滞在し、以後、西大寺末となる。
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さらに[[西大寺]]中興の[[叡尊]]が滞在し、以後、西大寺末となる。
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南北朝時代には後醍醐天皇が行幸して、文観に秘法させている。
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南北朝時代には[[後醍醐天皇]]が行幸して、[[文観]]に秘法させている。
三条西実隆は日記に塔2基が向かい合い、楼門があったと記す。
三条西実隆は日記に塔2基が向かい合い、楼門があったと記す。
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当時、金堂、講堂、食堂、東塔西塔、東室西室、仁王門、中門、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、東院西院、伝燈堂、安居院、温室院、百済院があった。
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縁起では当時、金堂、講堂、食堂、東塔西塔、東室西室、仁王門、中門、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、東院西院、伝燈堂、安居院、温室院、百済院があった。
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文禄3年(1594)9月、東塔は京都伏見に移築され、のち徳川家康が園城寺に移した。
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室町時代再建の東塔は文禄3年(1594)9月、[[豊臣秀吉]]が[[京都]]伏見に移築(慶長2年とも)。さらに慶長5年(1600)、[[徳川家康]]が[[園城寺]]に移して現存する(園城寺ウェブサイト)。
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江戸時代中期、[[曹洞宗]]の朴導秀拙が復興して[[大和・世尊寺]]と称した。
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江戸時代中期、[[曹洞宗]]の朴導秀拙が比曽寺を復興して[[大和・世尊寺]]と称した。
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現在も礎石や古瓦が残る。
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現在も古代の礎石や古瓦が残る。
(日本歴史地名大系)
(日本歴史地名大系)
[[category:奈良県]]
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2017年9月9日 (土) 時点における版

比曽寺は、大和国吉野郡にあった古代寺院吉野寺比蘇山寺現光寺栗天奉寺とも呼ばれた。大和・世尊寺が後身。


歴史

古代

聖徳太子の創建と伝える。『日本書紀』欽明14年5月条に登場する吉野寺が比曽寺のこととされる。『扶桑略記』推古3年条には「吉野比蘇寺」とあり、栴檀で観音像を作り、祀ったという。 発掘調査でも飛鳥時代の伽藍跡が見つかっている。

奈良時代には役小角が大峰山を開く前に拠点としたと伝える。天平時代には神叡や道センが入る。

平安時代には聖宝が入り、地蔵像、弥勒像を造立して祀ったという。 清和上皇行幸(三代実録)。宇多上皇行幸(扶桑略記)。 藤原道長も長保6年(1004)6月などに参拝している。

中世

金峰山寺別当の春豪が弘安2年(1279)に復興。 さらに西大寺中興の叡尊が滞在し、以後、西大寺末となる。 南北朝時代には後醍醐天皇が行幸して、文観に秘法させている。 三条西実隆は日記に塔2基が向かい合い、楼門があったと記す。 縁起では当時、金堂、講堂、食堂、東塔西塔、東室西室、仁王門、中門、如意輪堂、護摩堂、鐘楼、東院西院、伝燈堂、安居院、温室院、百済院があった。

室町時代再建の東塔は文禄3年(1594)9月、豊臣秀吉京都伏見に移築(慶長2年とも)。さらに慶長5年(1600)、徳川家康園城寺に移して現存する(園城寺ウェブサイト)。 江戸時代中期、曹洞宗の朴導秀拙が比曽寺を復興して大和・世尊寺と称した。 現在も古代の礎石や古瓦が残る。

(日本歴史地名大系)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%AF%94%E8%98%87%E5%AF%BA」より作成

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