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大町・専修寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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*越前三門徒法脈
*越前三門徒法脈
*存覚袖日記
*存覚袖日記
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*存覚上人一期記:常楽台主老衲一期記
*三門徒派専照寺歴代系図
*三門徒派専照寺歴代系図
*勝授寺文書
*勝授寺文書

2017年10月28日 (土) 時点における版

専修寺(せんじゅじ)は、越前国足羽郡大町(福井県福井市)にあった浄土真宗本山級寺院大町門徒(三門徒)の発祥地。開山は如導。廃絶。現在の勝授寺が後継寺院とされる。跡地には如導の墓所がある。大町専修寺大町道場。(参考:同名寺院専修寺_(同名)

目次

歴史

創建

開山は和田門徒円善門下の如導。専照寺の伝承では如導は弘安8年(1285)、越前に来て波多野通貞から帰依。正応3年(1290)8月に専修寺を建てたと伝える。ただ『存覚一期記』などによると、如導は応長元年(1311)5月、存覚と共に大町専修寺に滞在した本願寺3世覚如から『教行信証』の伝授を受けたとされるから、実際には14世紀の人物と考えられる。高田門徒専修寺4世専空が越前国坂井郡熊坂(福井県あわら市)に建てた熊坂道場を如導が大町に移したともいう。

発展と分立

如導の弟子の道性は証誠寺を創建。さらに証誠寺から毫摂寺と誠照寺が分立した。 また永享7年(1435)、教義が浄土宗西山派に近づいたとされ、本願寺から破門されたという。この本願寺の処分を内部から主導したグループが分裂して創建したのが専照寺と考えられている(小泉義博説)。 この時期、本願寺教団とは一線を画して活動し、一向一揆と対立する朝倉氏の庇護を受けたため、一向一揆とも交戦する。

本願寺帰参と滅亡

蓮如の周旋で西光寺永存の三男蓮慶が入寺。本願寺に帰属。越前一向一揆に参加して天正3年、鉢伏山に籠り織田信長軍と衝突。賢会の討死で滅亡した。

滅亡後

旧末寺の多くは京都・興正寺末となった。 子の唯賢らは越前を脱出。唯賢の実父が住職を務める加賀国石川郡諸江(石川県金沢市諸江)の諸江坊に避難。のち越前国に帰還し、本願寺顕如に帰依して勝授寺として再興した。 一方、寺跡には了願という僧が庵を建て、慶安5年(1652)興正寺末となる。正徳3年(1713)正覚寺の寺号を得た。 また承応3年(1654)8月、専照寺が専修寺跡地に如導の墓を建立した。

伽藍

塔頭

一老として瑞応寺があった。

歴代

  • 1如導(1253-1340)
  • 2如浄:如導の次男。兄の良如は浄土宗に帰して敦賀・西福寺を建てたため、次男が継いだ。
  • 3良金:如浄の子。専照寺の伝承にいう「了泉」のことで「良金」は「良全」の誤りという(小泉論文)。
  • 蓮慶:鯖江西光寺永存の三男。本願寺6世巧如の曽孫にあたる。本願寺蓮如に帰参。
  • 顕誓:如祐尼(蓮如の妹)の孫。
  • 興預:顕誓の養子。諸江坊賢了の兄。
  • 賢会(-1575):最後の住職。初名は唯受。興預の甥。賢了の子。鉢伏山に一向一揆の一員として籠城したが、織田信長軍の攻撃で天正3年8月17日、討死。

(日本歴史地名大系)

資料

古典籍

  • 中野物語
  • 反古裏書
  • 越前三門徒法脈
  • 存覚袖日記
  • 存覚上人一期記:常楽台主老衲一期記
  • 三門徒派専照寺歴代系図
  • 勝授寺文書

文献

  • 『日本仏教基礎講座』
  • 小泉義博1996「大町専修寺の研究」
  • 藤季涳1935「愚暗記返札の研究」
  • 井上鋭夫1968「北陸教団の展開」
  • 重松明久1973「秘事法門の思想的系譜 越前を中心として」
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%BA%E3%83%BB%E5%B0%82%E4%BF%AE%E5%AF%BA」より作成

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