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水無瀬神宮

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年6月1日 (土)

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[[file:minase-jingu (4).jpg|350px|thumb|水無瀬神宮]]
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'''水無瀬神宮'''(みなせ・じんぐう)は、大阪府三島郡島本町広瀬(摂津国島上郡)にある[[後鳥羽天皇]]を祀る[[霊社]]。もと'''水無瀬御影堂'''、'''水無瀬法華堂'''と称した。明治になり、同様に[[承久の乱]]に関与した[[土御門天皇]]と[[順徳天皇]]も合祀された。三帝を祀る神社としては、[[鎌倉]]の[[新宮神社]]([[鶴岡八幡宮]]内)や配流先に創建された後鳥羽帝の[[隠岐神社]]、順徳帝の[[真野宮]]、土御門帝の[[阿波神社]]がある。官幣大社。天皇奉斎神社。御霊信仰。
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|style="text-align:center;background-color:#ededed" colspan="2"|'''水無瀬神宮'''<br>みなせ じんぐう
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|後鳥羽天皇を祀った神社。
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|大阪府三島郡島本町広瀬3-10-24
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|摂津国島上郡
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|官幣大社
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|後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇
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*[[天皇奉斎神社]]
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==概要==
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'''水無瀬神宮'''(みなせ・じんぐう)は、大阪府三島郡島本町にある[[後鳥羽天皇]]を祀る[[霊社]]。もと'''水無瀬御影堂'''、'''水無瀬法華堂'''と称した。明治になり、同様に[[承久の乱]]に関与した[[土御門天皇]]と[[順徳天皇]]も合祀された。三帝を祀る神社としては、[[鎌倉]]の[[新宮神社]]([[鶴岡八幡宮]]内)や配流先に創建された後鳥羽帝の[[隠岐神社]]、順徳帝の[[真野宮]]、土御門帝の[[阿波神社]]がある。
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==由緒==
==由緒==
==歴史==
==歴史==
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一帯は1199年頃に後鳥羽上皇が建てた離宮水無瀬殿(皆瀬御所、広瀬御所とも)があった。
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[[file:Kokudo0277.jpg|thumb|300px|水無瀬神宮(国土地理院空中写真より)]]
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1239年2月22日、隠岐で上皇が崩御すると遺勅により藤原信成・親成父子が1240年、離宮跡に御影堂を建てて菩提を弔った。
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*1199年頃:後鳥羽上皇、離宮水無瀬殿(皆瀬御所、広瀬御所とも)を建立
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御霊信仰の性格も強かった。
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*1233年9月18日:藻璧門院(後堀河天皇中宮)崩御。生前ではあるが後鳥羽院の怨霊の仕業ともいわれる。
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後村上天皇が大興禅寺の創建を発願したが実現しなかった。
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*1234年5月20日:仲恭天皇崩御。
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1488年、天皇250年遠忌に宗祇らが法楽連歌「水無瀬三吟百韻」を奉納。
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*1234年8月6日:後堀河天皇崩御。
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1494年8月、後土御門天皇は隠岐から神霊を迎えて「水無瀬宮」(水無瀬神とも)の号を贈った。
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*1239年2月14日:後鳥羽上皇、隠岐にて水無瀬親成に御手印置文を授与。
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*1239年2月22日:隠岐で上皇が崩御
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1596年、地震で損傷。1600年、内裏の建物を移築して再建。
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*1239年12月5日:三浦義村死去。
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1631年、火災で被災。後水尾天皇が社殿の復興に力を注ぎ、1650年頃、[[内侍所]]旧材で再建された。これが現在の社殿という。
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*1240年1月24日:北条時房死去。
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再建は間に合わなかったが1638年、400年遠忌には天皇の和歌も献じられた。
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*1240年:遺勅により藤原信成・親成父子が離宮跡に御影堂を建てて菩提を弔った。御霊信仰の性格も強かった。
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以後、50年ごとの遠忌には天皇貴族の和歌奉納が恒例となった。
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*1244年:将軍九条頼経、後鳥羽院宸筆を模して法華経の版木を作り、100部を刷って供養。
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1737年、故あって神号を返上。
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*1294年5月8日:後鳥羽院の神霊が託宣。「青侍石見介入道子石熊丸」という人物に憑依して、心地覚心を開山として水無瀬に大興禅寺を創建せよと神勅。院宣によって許可を得たという。(霊託記)
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1873年、水無瀬宮と改称。官幣中社となる。
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*1333年11/12:隠岐から京都に帰還した後醍醐天皇が水無瀬具兼に対して水無瀬御影堂領を安堵。
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1939年、天皇700年祭に合わせて官幣大社に昇格し、水無瀬神宮と改称した。
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*1336年11/16:北朝の光厳上皇、御影堂に祈念。同日、院宣により御影堂領を安堵。翌日殺生禁断。
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*1338年:光厳上皇、美濃有里を寄進。
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*1339年3/24:光厳上皇の院宣で兵粮徴収を禁止
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*1339年7月10日:後鳥羽院の神霊が託宣。1294年の託宣に触れて大興禅寺の創建を改めて求める。鎌倉幕府が滅んだのは北条時頼が建てた新宮神社の祭祀を北条高時の代になって疎かにになったからだと告げ、また後醍醐天皇も大原法華堂に祈願したので叶えてやったが、その後は疎かになったので隠岐や吉野においやったと告げた(まもなく8/16に崩御)。国政を揺るがす存在であることを誇示している。21日に霊託は洞院公賢に伝えられ、22日に天聴に達する(霊託記)。この頃、「水無瀬御堂長老至一上人」という僧侶がいたことが『井蛙抄』にみえ、覚心の弟子の「志一」([[粉河寺]]、[[誓度寺]]を復興)に該当する可能性がある。この人物が託宣の成立に関わった可能性があるという。
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*1340年8月19日:後村上天皇、所領寄進
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*1344年3月9日:足利直義、「水無瀬殿大興禅寺」に禁制を下賜。しかし寺院は成立していなかったとみられている。
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*貞和年間:足利尊氏・直義、水無瀬御影堂を禅寺に改めるために心地覚心を住職に招こうとしたが、心地覚心は固辞して遁走した。(弧峰和尚行実)
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*1353年5月22日:後村上天皇、弧峰覚明に大興禅寺の造営料を寄進。(綸旨)
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*1488年:天皇250年遠忌に宗祇らが法楽連歌「水無瀬三吟百韻」を奉納。
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*1494年8月:後土御門天皇は隠岐から神霊を迎えて「水無瀬宮」(水無瀬神とも)の号を贈った。
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*1596年、地震で損傷。
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*1600年、内裏の建物を移築して再建。
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*1631年、火災で被災。後水尾天皇が社殿の復興
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*1638年、400年遠忌には天皇の和歌も献じられた。以後、50年ごとの遠忌には天皇貴族の和歌奉納が恒例となった。
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*1650年頃、[[内侍所]]旧材で再建された。これが現在の社殿という。
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*1737年、故あって神号を返上。
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*1873年、水無瀬宮と改称。官幣中社となる。
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*1939年3月1日:天皇700年祭に合わせて官幣大社に昇格し、水無瀬神宮と改称した。内務省告示第87号[https://dl.ndl.go.jp/pid/2960138/1/4]。
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*1939年4/1:列格奉告祭。祭式祝詞[https://dl.ndl.go.jp/pid/2960157/1/5]。勅使として掌典千種有秀を差遣[https://dl.ndl.go.jp/pid/2960154/1/6]
(『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか)
(『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか)
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*[[山城・宝積寺]]:京都府乙訓郡大山崎町銭原。[[真言宗智山派]]
*[[山城・宝積寺]]:京都府乙訓郡大山崎町銭原。[[真言宗智山派]]
*[[西観音寺]]:大阪府三島郡島本町山崎。[[天台宗]]。後鳥羽天皇の菩提所にもなり、位牌を祀っていた。廃絶。
*[[西観音寺]]:大阪府三島郡島本町山崎。[[天台宗]]。後鳥羽天皇の菩提所にもなり、位牌を祀っていた。廃絶。
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*[[勝幡寺]]:大阪府三島郡島本町山崎。[[真言宗東寺派]]
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*[[勝幡寺]]:大阪府三島郡島本町山崎。[[真言宗東寺派]]。後鳥羽天皇の崩御の直後に廟を築いたともいう。
*[[豊楽寺]]:水無瀬家ゆかりの寺院。
*[[豊楽寺]]:水無瀬家ゆかりの寺院。
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*安養寺:大阪府三島郡島本町高浜。1344年の禁制に記載。「別院安養寺」とある。臨済宗法灯派。1577年には退転していたが「由良門院之衆」を取り立てて再興する計画があった。廃絶。
==組織==
==組織==
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===宮司===
===宮司===
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*水無瀬忠輔():子爵。経家の養子。
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*水無瀬忠輔(1853-1916)<1875-1916>:子爵。水無瀬経家の養子。裏松勲光の子。1872年、水無瀬家の養子となる。1874年12月、家督相続。水無瀬宮権宮司、教導職中講義[https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-12227]?。のち権大講義。1875年6月、水無瀬宮宮司、大講義。1884年、子爵に列す。1887年4/19水無瀬宮宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2944373/1/2]。1616/2/20死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2953175/1/3]。
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*水無瀬忠政()<-1925-1941->:子爵。
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*水無瀬忠政(1881-1963)<1916-1932>:子爵。水無瀨忠輔の長男。1881年生。1916年(大正5年)3月20日、水無瀬宮宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2953199/1/11]。同日襲爵。1932/12/15退任[https://dl.ndl.go.jp/pid/2958269/1/12]。1938年(昭和13年)6月23日、水無瀬宮宮司再任。1942年(昭和17年)12月24日、退任。
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*水無瀬忠房(1884-1932)<1932-1932>:水無瀨忠輔の次男。1932/12/15水無瀬宮宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2958269/1/12]。同月31日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/2958280/1/4]。
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*谷垣義雄()<1933-1938>:奈良県出身。1912年、皇典講究所神職養成部卒業[https://dl.ndl.go.jp/pid/2951999/1/13]。丹生川上神社禰宜を経て1928/11/10、伊豆山神社宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2957025/1/6]。1933/1/19水無瀬宮宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2958287/1/4]。1938年(昭和13年)6月23日、[[出雲大社]]権宮司[https://dl.ndl.go.jp/pid/2959932/1/6]。1945年(昭和20年)10月9日退職[https://dl.ndl.go.jp/pid/2962129/1/2]。
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*水無瀬忠政()<1938->:1938年(昭和13年)6月23日、水無瀬宮宮司再任[https://dl.ndl.go.jp/pid/2959932/1/6]。1942年(昭和17年)12月24日、退任。
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*水無瀬忠房()<>:陸軍歩兵中尉。1942年(昭和17年)12月24日、水無瀬宮宮司。?
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*水無瀬忠寿()<>:
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*水無瀬忠成()<>
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===権宮司===
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*水無瀬保丸()<>:1875年(明治8年)在職。
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==資料==
==資料==
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*水無瀬神宮1979『水無瀬神宮と周辺の史跡』
*水無瀬神宮1979『水無瀬神宮と周辺の史跡』
*水無瀬神宮1992『水無瀬神宮物語』
*水無瀬神宮1992『水無瀬神宮物語』
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*1922『大阪府全志』[https://books.google.co.jp/books?id=3C2B-BXElYcC&hl=ja&pg=PP712]
*魚澄惣五郎1926「南北朝時代に於ける水無瀬御影堂」『龍谷大学論叢』266
*魚澄惣五郎1926「南北朝時代に於ける水無瀬御影堂」『龍谷大学論叢』266
*魚澄惣五郎1931「水無瀨御影堂の信仰」『古社寺の研究』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921019/212]
*魚澄惣五郎1931「水無瀨御影堂の信仰」『古社寺の研究』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921019/212]
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*1930『大阪府官幣社現行特殊慣行神事』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173949/87]
*1930『大阪府官幣社現行特殊慣行神事』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173949/87]
*1933『大日本神社志2』「水無瀨宮」
*1933『大日本神社志2』「水無瀨宮」
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*中村直勝「後鳥羽院」『天皇と国史の進展』
*1939平泉澄『後鳥羽天皇を偲び奉る』
*1939平泉澄『後鳥羽天皇を偲び奉る』
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*1939『上方』103号「水無瀬神宮号」:後鳥羽天皇七百年御式年祭特集
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*1939『上方』103号「水無瀬神宮号」:後鳥羽天皇700年式年祭特集。106号、108号も。
*内務省神社局1939「官幣中社水無瀬宮神社名改称竝に官幣大社に昇格の御事に就て」『内務厚生時報』4-3
*内務省神社局1939「官幣中社水無瀬宮神社名改称竝に官幣大社に昇格の御事に就て」『内務厚生時報』4-3
*天坊幸彦1940「郷土史より見たる水無瀬神宮」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1138896/57]
*天坊幸彦1940「郷土史より見たる水無瀬神宮」[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1138896/57]
147行: 141行:
*田邑二枝1971『隠岐の後鳥羽院抄』
*田邑二枝1971『隠岐の後鳥羽院抄』
*1973「水無瀬宮年中行事」『日本祭礼行事集成6』
*1973「水無瀬宮年中行事」『日本祭礼行事集成6』
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*1975『島本町史』
*佐野和史1980「水無瀬神宮三帝神霊還遷の経緯:皇霊奉斎神社創立の一考察」『神道宗教』
*佐野和史1980「水無瀬神宮三帝神霊還遷の経緯:皇霊奉斎神社創立の一考察」『神道宗教』
*松林靖明1981「この世の妄念にかかはられて―後鳥羽院の怨霊」『帝塚山短期大学紀要 人文・社会科学編』18
*松林靖明1981「この世の妄念にかかはられて―後鳥羽院の怨霊」『帝塚山短期大学紀要 人文・社会科学編』18
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*岸泰子2005「寛政度内裏造営以降の内侍所仮殿の造営・下賜と神嘉殿」[https://doi.org/10.3130/aija.70.171_1]
*岸泰子2005「寛政度内裏造営以降の内侍所仮殿の造営・下賜と神嘉殿」[https://doi.org/10.3130/aija.70.171_1]
*2008「水無瀬神宮縁起」『大阪伝承地誌集成』
*2008「水無瀬神宮縁起」『大阪伝承地誌集成』
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*小森崇弘2008「後土御門天皇と水無瀬:神号贈与と文芸活動をめぐって」『人間文化研究』22
*今野慶信2009「後鳥羽院の怨霊」『後鳥羽院のすべて』
*今野慶信2009「後鳥羽院の怨霊」『後鳥羽院のすべて』
*2009「後鳥羽院関係史蹟事典」『後鳥羽院のすべて』
*2009「後鳥羽院関係史蹟事典」『後鳥羽院のすべて』
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*2018「隠岐と後鳥羽院―祭礼にこめられた敬慕と追悼」『島根県立古代出雲歴史博物館企画展 隠岐の祭礼と芸能』
*2018「隠岐と後鳥羽院―祭礼にこめられた敬慕と追悼」『島根県立古代出雲歴史博物館企画展 隠岐の祭礼と芸能』
*豊田裕章2019「水無瀬離宮(水無瀬殿)の空間構成と機能について」[http://hdl.handle.net/11173/2837]
*豊田裕章2019「水無瀬離宮(水無瀬殿)の空間構成と機能について」[http://hdl.handle.net/11173/2837]
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[[category:大阪府]]

2024年6月1日 (土) 時点における最新版

水無瀬神宮

水無瀬神宮(みなせ・じんぐう)は、大阪府三島郡島本町広瀬(摂津国島上郡)にある後鳥羽天皇を祀る霊社。もと水無瀬御影堂水無瀬法華堂と称した。明治になり、同様に承久の乱に関与した土御門天皇順徳天皇も合祀された。三帝を祀る神社としては、鎌倉新宮神社鶴岡八幡宮内)や配流先に創建された後鳥羽帝の隠岐神社、順徳帝の真野宮、土御門帝の阿波神社がある。官幣大社。天皇奉斎神社。御霊信仰。

目次

由緒

歴史

水無瀬神宮(国土地理院空中写真より)
  • 1199年頃:後鳥羽上皇、離宮水無瀬殿(皆瀬御所、広瀬御所とも)を建立
  • 1233年9月18日:藻璧門院(後堀河天皇中宮)崩御。生前ではあるが後鳥羽院の怨霊の仕業ともいわれる。
  • 1234年5月20日:仲恭天皇崩御。
  • 1234年8月6日:後堀河天皇崩御。
  • 1239年2月14日:後鳥羽上皇、隠岐にて水無瀬親成に御手印置文を授与。
  • 1239年2月22日:隠岐で上皇が崩御
  • 1239年12月5日:三浦義村死去。
  • 1240年1月24日:北条時房死去。
  • 1240年:遺勅により藤原信成・親成父子が離宮跡に御影堂を建てて菩提を弔った。御霊信仰の性格も強かった。
  • 1244年:将軍九条頼経、後鳥羽院宸筆を模して法華経の版木を作り、100部を刷って供養。
  • 1294年5月8日:後鳥羽院の神霊が託宣。「青侍石見介入道子石熊丸」という人物に憑依して、心地覚心を開山として水無瀬に大興禅寺を創建せよと神勅。院宣によって許可を得たという。(霊託記)
  • 1333年11/12:隠岐から京都に帰還した後醍醐天皇が水無瀬具兼に対して水無瀬御影堂領を安堵。
  • 1336年11/16:北朝の光厳上皇、御影堂に祈念。同日、院宣により御影堂領を安堵。翌日殺生禁断。
  • 1338年:光厳上皇、美濃有里を寄進。
  • 1339年3/24:光厳上皇の院宣で兵粮徴収を禁止
  • 1339年7月10日:後鳥羽院の神霊が託宣。1294年の託宣に触れて大興禅寺の創建を改めて求める。鎌倉幕府が滅んだのは北条時頼が建てた新宮神社の祭祀を北条高時の代になって疎かにになったからだと告げ、また後醍醐天皇も大原法華堂に祈願したので叶えてやったが、その後は疎かになったので隠岐や吉野においやったと告げた(まもなく8/16に崩御)。国政を揺るがす存在であることを誇示している。21日に霊託は洞院公賢に伝えられ、22日に天聴に達する(霊託記)。この頃、「水無瀬御堂長老至一上人」という僧侶がいたことが『井蛙抄』にみえ、覚心の弟子の「志一」(粉河寺誓度寺を復興)に該当する可能性がある。この人物が託宣の成立に関わった可能性があるという。
  • 1340年8月19日:後村上天皇、所領寄進
  • 1344年3月9日:足利直義、「水無瀬殿大興禅寺」に禁制を下賜。しかし寺院は成立していなかったとみられている。
  • 貞和年間:足利尊氏・直義、水無瀬御影堂を禅寺に改めるために心地覚心を住職に招こうとしたが、心地覚心は固辞して遁走した。(弧峰和尚行実)
  • 1353年5月22日:後村上天皇、弧峰覚明に大興禅寺の造営料を寄進。(綸旨)
  • 1488年:天皇250年遠忌に宗祇らが法楽連歌「水無瀬三吟百韻」を奉納。
  • 1494年8月:後土御門天皇は隠岐から神霊を迎えて「水無瀬宮」(水無瀬神とも)の号を贈った。
  • 1596年、地震で損傷。
  • 1600年、内裏の建物を移築して再建。
  • 1631年、火災で被災。後水尾天皇が社殿の復興
  • 1638年、400年遠忌には天皇の和歌も献じられた。以後、50年ごとの遠忌には天皇貴族の和歌奉納が恒例となった。
  • 1650年頃、内侍所旧材で再建された。これが現在の社殿という。
  • 1737年、故あって神号を返上。
  • 1873年、水無瀬宮と改称。官幣中社となる。
  • 1939年3月1日:天皇700年祭に合わせて官幣大社に昇格し、水無瀬神宮と改称した。内務省告示第87号[1]
  • 1939年4/1:列格奉告祭。祭式祝詞[2]。勅使として掌典千種有秀を差遣[3]

(『国史大辞典』、『日本歴史地名大系』ほか)

社殿構成

供僧

当初は臨済宗法燈派の僧侶の関与が深く、心地覚心を開山に招いて大興禅寺という臨済宗寺院を神宮寺として建てる計画もあった。 中世後期から近くの真言宗宝積寺や天台宗西観音寺の僧侶が供僧として奉仕した。ただし、神宮寺、あるいは別当寺のような固定的な関係ではなかったらしい。両寺は離宮八幡宮の供僧も務めていた。

  • 山城・宝積寺:京都府乙訓郡大山崎町銭原。真言宗智山派
  • 西観音寺:大阪府三島郡島本町山崎。天台宗。後鳥羽天皇の菩提所にもなり、位牌を祀っていた。廃絶。
  • 勝幡寺:大阪府三島郡島本町山崎。真言宗東寺派。後鳥羽天皇の崩御の直後に廟を築いたともいう。
  • 豊楽寺:水無瀬家ゆかりの寺院。
  • 安養寺:大阪府三島郡島本町高浜。1344年の禁制に記載。「別院安養寺」とある。臨済宗法灯派。1577年には退転していたが「由良門院之衆」を取り立てて再興する計画があった。廃絶。

組織

水無瀬家

  • 水無瀬親信(1137-1197):水無瀬家の祖。後鳥羽天皇の叔父に当たる。
  • 水無瀬親兼():後鳥羽天皇の側近。承久の乱の後、上皇にならい出家。
  • 水無瀬信成():後鳥羽天皇の側近。
  • 水無瀬親成(生没年不詳):父信成と共に後鳥羽上皇に忠節を尽くす。1239年(延応1年)の上皇の遺命で水無瀬離宮を与えられ、菩提を弔うように命じられる。水無瀬御影堂を創建。水無瀬家を称すのはこれ以後。
  • 水無瀬良親():
  • 水無瀬具良():
  • 水無瀬具兼():
  • 水無瀬具隆():
  • 水無瀬具景():
  • 水無瀬重親():
  • 水無瀬季兼():三条公冬の子。重親の養子となる。
  • 水無瀬英兼():
  • 水無瀬兼成():三条西公条の子。英兼の養子。
  • 水無瀬氏成():
  • 水無瀬兼俊():
  • 水無瀬氏信():
  • 水無瀬兼豊():養子。
  • 水無瀬氏孝():
  • 水無瀬兼条():氏孝の子。
  • 水無瀬経業():氏孝の子。兄兼条の養子となる。
  • 水無瀬師成():
  • 水無瀬友信():
  • 水無瀬忠成():養子。氏孝の子。
  • 水無瀬成貞():
  • 水無瀬有成():
  • 水無瀬教成():
  • 水無瀬経家():養子。


羽林家。分家として七条家・町尻家・桜井家・山井家がある。近くの浄土宗阿弥陀院が水無瀬家の菩提寺。

宮司

  • 水無瀬忠輔(1853-1916)<1875-1916>:子爵。水無瀬経家の養子。裏松勲光の子。1872年、水無瀬家の養子となる。1874年12月、家督相続。水無瀬宮権宮司、教導職中講義[4]?。のち権大講義。1875年6月、水無瀬宮宮司、大講義。1884年、子爵に列す。1887年4/19水無瀬宮宮司[5]。1616/2/20死去[6]
  • 水無瀬忠政(1881-1963)<1916-1932>:子爵。水無瀨忠輔の長男。1881年生。1916年(大正5年)3月20日、水無瀬宮宮司[7]。同日襲爵。1932/12/15退任[8]。1938年(昭和13年)6月23日、水無瀬宮宮司再任。1942年(昭和17年)12月24日、退任。
  • 水無瀬忠房(1884-1932)<1932-1932>:水無瀨忠輔の次男。1932/12/15水無瀬宮宮司[9]。同月31日死去[10]
  • 谷垣義雄()<1933-1938>:奈良県出身。1912年、皇典講究所神職養成部卒業[11]。丹生川上神社禰宜を経て1928/11/10、伊豆山神社宮司[12]。1933/1/19水無瀬宮宮司[13]。1938年(昭和13年)6月23日、出雲大社権宮司[14]。1945年(昭和20年)10月9日退職[15]
  • 水無瀬忠政()<1938->:1938年(昭和13年)6月23日、水無瀬宮宮司再任[16]。1942年(昭和17年)12月24日、退任。
  • 水無瀬忠房()<>:陸軍歩兵中尉。1942年(昭和17年)12月24日、水無瀬宮宮司。?
  • 水無瀬忠寿()<>:
  • 水無瀬忠成()<>:

権宮司

  • 水無瀬保丸()<>:1875年(明治8年)在職。

写真

資料

古典籍

  • 「後鳥羽院御霊託記」:『続群書類従』
  • 「明応四年水無瀬宮法楽百首」:『続群書類従』
  • 『水無瀬神宮文書』:『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書』11[17]。明治時代の文書も。
  • 『古事類苑』[18]

参考文献

  • 水無瀬神宮1939『水無瀬神宮と承久役論』
  • 水無瀬神宮1941『官幣大社水無瀬神宮略記』
  • 水無瀬神宮1941『水無瀬神宮御法楽和歌集』
  • 水無瀬神宮1979『水無瀬神宮と周辺の史跡』
  • 水無瀬神宮1992『水無瀬神宮物語』
  • 1922『大阪府全志』[19]
  • 魚澄惣五郎1926「南北朝時代に於ける水無瀬御影堂」『龍谷大学論叢』266
  • 魚澄惣五郎1931「水無瀨御影堂の信仰」『古社寺の研究』[20]
  • 魚澄惣五郎1940「御所藏文書より見たる水無瀬神宮の沿革」[21]
  • 1930『大阪府官幣社現行特殊慣行神事』[22]
  • 1933『大日本神社志2』「水無瀨宮」
  • 中村直勝「後鳥羽院」『天皇と国史の進展』
  • 1939平泉澄『後鳥羽天皇を偲び奉る』
  • 1939『上方』103号「水無瀬神宮号」:後鳥羽天皇700年式年祭特集。106号、108号も。
  • 内務省神社局1939「官幣中社水無瀬宮神社名改称竝に官幣大社に昇格の御事に就て」『内務厚生時報』4-3
  • 天坊幸彦1940「郷土史より見たる水無瀬神宮」[23]
  • 金丸二郎1940『後鳥羽天皇七百年式年御祭記念展観図録』
  • 高島屋編1941『後鳥羽天皇七百年式年祭水無瀬神宮隠岐神社奉納刀匠昭和の御番鍛冶作刀展』[24]
  • 1941『官国幣社特殊神事調』3[25]
  • 伊藤治一1943「順徳天皇御神霊の水無瀬宮に奉還」『順徳天皇』
  • 斎藤長三1944『佐渡に於ける順徳天皇』[26]
  • 1964『重要文化財水無瀬神宮茶室修理工事報告書』
  • 藤井貞文1956「後鳥羽上皇御意志の成立-怨霊思想の解明の一として」『神道宗教』13
  • 藤井貞文1963「後鳥羽上皇御霊の発動」『神道宗教』32
  • 龍粛「後鳥羽院霊託とその時勢」
  • 龍粛1957「承久の変の遺響」『鎌倉時代 下』
  • 田邑二枝1971『隠岐の後鳥羽院抄』
  • 1973「水無瀬宮年中行事」『日本祭礼行事集成6』
  • 1975『島本町史』
  • 佐野和史1980「水無瀬神宮三帝神霊還遷の経緯:皇霊奉斎神社創立の一考察」『神道宗教』
  • 松林靖明1981「この世の妄念にかかはられて―後鳥羽院の怨霊」『帝塚山短期大学紀要 人文・社会科学編』18
  • 松林靖明1985「『承久記』と後鳥羽院の怨霊」[27]
  • 村重寧1990「後鳥羽院像と信実」『MUSEUM』476
  • 志村有弘1991「後鳥羽上皇水無瀬神宮」『歴史読本』36-3
  • 田中阿里子1991「荒魂の鎮まる社 水無瀬神宮--配流、後鳥羽帝の鎮魂の社」『歴史と旅』250
  • 佐々木孝浩1994「追善歌会としての影供:後鳥羽院影供についての一考察」[28]
  • 山田雄二1997「鎌倉時代の天皇陵:後鳥羽・土御門・順徳を中心に」『季刊考古学』58
  • 山田雄二1998「崇徳院怨霊と後鳥羽院怨霊の交錯:『保元物語』崇徳院怨霊譚の形成」『日本宗教文化史研究』
  • 山田雄司2001『崇徳院怨霊の研究』
  • 山田雄司ウェブサイト「崇徳院・後鳥羽院怨霊関係文献」[29]
  • 上野武 1999「隠岐本と後鳥羽院怨霊の鎮魂--冷泉家時雨亭文庫蔵本 『隠岐本 新古今和歌集』 の成立について」
  • 遠藤一2001「後鳥羽院の〈怨霊〉とその成仏について-親鸞史料から見た」
  • 大阪府教育委員会・兵庫県教育委員会2003『近畿地方の近世社寺建築 5』
  • 徳永誓子2004「水無瀬御影堂と臨済宗法灯派」『日本宗教文化史研究』
  • 徳永誓子2005「後鳥羽院怨霊と後嵯峨皇統」『日本史研究』512
  • 布谷陽子2005「承久の乱後の王家と後鳥羽追善仏事」『中世の地域と宗教』
  • 岸泰子2005「寛政度内裏造営以降の内侍所仮殿の造営・下賜と神嘉殿」[30]
  • 2008「水無瀬神宮縁起」『大阪伝承地誌集成』
  • 小森崇弘2008「後土御門天皇と水無瀬:神号贈与と文芸活動をめぐって」『人間文化研究』22
  • 今野慶信2009「後鳥羽院の怨霊」『後鳥羽院のすべて』
  • 2009「後鳥羽院関係史蹟事典」『後鳥羽院のすべて』
  • 2009鈴木彰「後鳥羽院像の展開」『後鳥羽院のすべて』
  • 戸田靖久2010「水無瀬御影堂の宗教的運営体制:「供僧」の分析を通して」[31]
  • 小崎良伸2012『後鳥羽院の怨霊封じと百人一首の謎』
  • 杉崎貴英2013「峰定寺阿弥陀三尊像の伝来をめぐって:水無瀬御影堂旧在の後鳥羽院関係仏か」『日本宗教文化史研究』
  • 奥崎智道・藤澤彰・赤石憲祐2013「近代佐渡における真野宮御造営と3代目間島杢太郎について」[32]
  • 龍口恭子2016「法燈国師と後鳥羽院」[33]
  • 谷口雄太2016「京都足利氏と水無瀬神宮」『中世東国の社会と文化』
  • 2018「隠岐と後鳥羽院―祭礼にこめられた敬慕と追悼」『島根県立古代出雲歴史博物館企画展 隠岐の祭礼と芸能』
  • 豊田裕章2019「水無瀬離宮(水無瀬殿)の空間構成と機能について」[34]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B0%B4%E7%84%A1%E7%80%AC%E7%A5%9E%E5%AE%AE」より作成

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