|
ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
肥後・本妙寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2026年2月15日 (日)
(?子院など) |
|||
| 1行: | 1行: | ||
| + | [[ファイル:熊本本妙寺・本堂-01.jpg|thumb|500px| ]] | ||
| + | |||
'''本妙寺'''(ほんみょうじ)は、熊本県熊本市西区花園にある[[日蓮宗]]寺院。本尊は[[大曼荼羅]]。[[加藤清正]]菩提寺で清正の墓廟[[本妙寺浄池廟|浄池廟]]がある。[[細川家]]の祈祷所・菩提所でもある。[[六条門流]]の九州総本寺だった。[[後陽成天皇]]の勅願寺。[[紫衣勅許寺院]]。[[日蓮宗久遠寺派]]。山号は発星山(元は法性山)。(参考:同名寺院[[本妙寺]]) | '''本妙寺'''(ほんみょうじ)は、熊本県熊本市西区花園にある[[日蓮宗]]寺院。本尊は[[大曼荼羅]]。[[加藤清正]]菩提寺で清正の墓廟[[本妙寺浄池廟|浄池廟]]がある。[[細川家]]の祈祷所・菩提所でもある。[[六条門流]]の九州総本寺だった。[[後陽成天皇]]の勅願寺。[[紫衣勅許寺院]]。[[日蓮宗久遠寺派]]。山号は発星山(元は法性山)。(参考:同名寺院[[本妙寺]]) | ||
==歴史== | ==歴史== | ||
| + | [[ファイル:熊本本妙寺・本堂-40.jpg|thumb|500px| ]] | ||
1583年(天正11年)、加藤清正が父の加藤清忠の菩提寺として日真を招いて[[大坂]]に創建。所在地は不詳。当初は'''瑞龍院'''と称したという説もある。1588年(天正16年)、清正が熊本に移封すると、日真も従い、最初は熊本城内の旧[[天台宗]]三宝院に滞在した。1600年(慶長5年)に寺も移した。本妙寺と改称したのはこの時からとも。1605年(慶長10年)、[[後陽成天皇]]の勅願寺となり1606年(慶長11年)、近衛信尹の執奏で[[永代紫衣]]を許された。 | 1583年(天正11年)、加藤清正が父の加藤清忠の菩提寺として日真を招いて[[大坂]]に創建。所在地は不詳。当初は'''瑞龍院'''と称したという説もある。1588年(天正16年)、清正が熊本に移封すると、日真も従い、最初は熊本城内の旧[[天台宗]]三宝院に滞在した。1600年(慶長5年)に寺も移した。本妙寺と改称したのはこの時からとも。1605年(慶長10年)、[[後陽成天皇]]の勅願寺となり1606年(慶長11年)、近衛信尹の執奏で[[永代紫衣]]を許された。 | ||
『国郡一統志』によると、1608年(慶長13年)に本圀寺が本妙寺を「九州本寺」としたとあり、『本化別頭仏祖統紀』にも本圀寺17世日桓(1579-1644)が本妙寺を「九州一派首山」としたとある。日真は身延系の僧侶だが、加藤清正が本圀寺を祈願所としていたことに拠るのだろう。これによって本妙寺の地位は強固なものになった。清正は寺領700石を寄進した。 | 『国郡一統志』によると、1608年(慶長13年)に本圀寺が本妙寺を「九州本寺」としたとあり、『本化別頭仏祖統紀』にも本圀寺17世日桓(1579-1644)が本妙寺を「九州一派首山」としたとある。日真は身延系の僧侶だが、加藤清正が本圀寺を祈願所としていたことに拠るのだろう。これによって本妙寺の地位は強固なものになった。清正は寺領700石を寄進した。 | ||
2026年2月15日 (日) 時点における最新版
本妙寺(ほんみょうじ)は、熊本県熊本市西区花園にある日蓮宗寺院。本尊は大曼荼羅。加藤清正菩提寺で清正の墓廟浄池廟がある。細川家の祈祷所・菩提所でもある。六条門流の九州総本寺だった。後陽成天皇の勅願寺。紫衣勅許寺院。日蓮宗久遠寺派。山号は発星山(元は法性山)。(参考:同名寺院本妙寺)
目次 |
歴史
1583年(天正11年)、加藤清正が父の加藤清忠の菩提寺として日真を招いて大坂に創建。所在地は不詳。当初は瑞龍院と称したという説もある。1588年(天正16年)、清正が熊本に移封すると、日真も従い、最初は熊本城内の旧天台宗三宝院に滞在した。1600年(慶長5年)に寺も移した。本妙寺と改称したのはこの時からとも。1605年(慶長10年)、後陽成天皇の勅願寺となり1606年(慶長11年)、近衛信尹の執奏で永代紫衣を許された。 『国郡一統志』によると、1608年(慶長13年)に本圀寺が本妙寺を「九州本寺」としたとあり、『本化別頭仏祖統紀』にも本圀寺17世日桓(1579-1644)が本妙寺を「九州一派首山」としたとある。日真は身延系の僧侶だが、加藤清正が本圀寺を祈願所としていたことに拠るのだろう。これによって本妙寺の地位は強固なものになった。清正は寺領700石を寄進した。
1611年(慶長16年)6月24日に加藤清正が亡くなると中尾山に葬られた。清正の葬儀は本圀寺日桓を招いて行ったという(『国郡一統志』)。1612年(慶長17年)、一周忌に頓写会が始まる。頓写会の名称は、3回忌の時に大勢が筆を執ることで法華経69384文字を一夜にして写経できたことに由来する。
1614年(慶長19年)、熊本城内の火災で本妙寺が焼失したのを機に加藤清正の廟に移転。1616年(元和2年)、清正七回忌を前に落慶。1632年(寛永9年)、加藤忠広が改易となり、細川忠利が入国する。1633年(寛永10年)300石を寄進し、1634年(寛永11年)、400石に増やした。以後、細川家の祈祷所・連枝位牌所として重視されると共に領民にも日蓮宗を布教した。死後およそ100年を過ぎた享保年間には清正公信仰が浸透し、法華経の守護神としての地位も確立した。1791年(寛政3年)、本堂焼失。1810年(文化7年)清正200年遠忌で本堂など再興。 1868年(明治1年)、浄池廟を神式で祭祀を行い、神仏分離に伴い、1871年(明治4年)に神霊を熊本城内に遷座して加藤神社が創建されるが、浄池廟も存続した。1877年(明治10年)、西南戦争で伽藍焼失。1884年(明治17年)大本堂再建。2016年(平成28年)の熊本地震で被災。
(日本歴史地名大系、寺院ウェブサイト、境内由緒書)
伽藍
本堂ではなく浄池廟を中心として伽藍配置となっている。大本堂から浄池廟に登る参道を胸突雁木と呼ぶ。
- 大本堂:本尊は大曼荼羅。西南戦争で焼失後、1884年(明治17年)起工し、1894年(明治27年)に落慶した。
- 法皇閣:本尊は釈迦如来。丈六の立像という。釈迦堂ともいう。
- 仁王門:1917年(大正6年)建立。鉄筋コンクリート造。
- 浄池廟:加藤清正の墓廟。清正公信仰の総本社。名称は清正の法名「浄池院殿永運日乗大居士」に由来する。拝殿と本殿から構成。本殿内に木像を祀り、その下に遺骸が埋葬されているという。寿像殿もあり、1609年(慶長14年)に制作された最古の像が祀られている。社殿の傍らに浄池公廟碑がある。参道の途中に常夜燈があり、夜闇で熊本城から遥拝する目印にしたという。加藤家の廃絶後、常夜燈もなくなったが、1974年(昭和49年)に市民の篤信者が寄進。
- 六喜廟:胸突雁木の途中にある。加藤忠広らの墓。傍らに国柱会開祖田中智学撰文揮毫の「六喜廟碑」がある。
- 良甫鑑墓:浄池廟の傍らにある。良甫鑑は朝鮮出兵で加藤清正が捕虜として連れてきた朝鮮人。側近として仕えた。1617年(元和3年)の清正七回忌に殉死した。「金宦之墓」。
- 大木兼能墓:浄池廟の傍らにある。大木兼能は加藤清正の重臣。清正死去の翌日に殉死。
- 清正坊墓:加藤清正の前世といわれる清正坊の墓。清正公信仰の興隆には以前から清正坊への信仰があったという説もある。
- 北畠雪山墓
- 栗毛堂:加藤清正の愛馬を祀る。
- 論語猿:
- 加藤清正銅像:浄池廟からさらに325段の石段を登ったところにある。台座含め約17m。1935年(昭和10年)に325年祭で建立。彫刻家の北村西望作。1945年(昭和20年)に金属供出で撤去されたが、1960年(昭和35年)4月、350年祭で再び北村西望の手により再建。
- 津波供養塔:宝篋印塔。1792年(寛政4年)の雲仙岳爆発にともなう大津波の犠牲者を供養する。
- 常題目堂:本尊は黄金仏。1817年(文化14年)開眼。廃絶?
子院など
- 本院:
- 宗務所:
- 妙心院:
- 龍渕院:
- 延寿院:
- 雲晴院:
- 本地院:
- 静明院:
- 常住院:
- 東光院:
- 仙乗院:
- 智運院:
- 林蔵院:廃絶か。
- 元昭坊:廃絶か。
- 正善院:廃絶か。
- 妙音坊:廃絶か。
- 元陽院:廃絶か。
- 玉泉坊:廃絶か。
- 唯心院:廃絶か。
- 蓮浄院:廃絶か。
- 堯心院:廃絶か。
画像
組織
歴代
| 世数 | 号 | 法諱 | 字 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 発星院 | 日真 | 慧性 | 1565-1626 | 1585-1608 | 妙伝寺12世。下総佐倉出身。1565年(永禄8年)生。久遠寺日乾の弟子。朝鮮出兵にも従軍。1608年(慶長13年)引退。大村純信に招かれ、大村本経寺を創建。肥前島原護国寺、豊後鶴崎法心寺、肥後では府中妙永寺、府中本覚寺、川尻法宣寺、水俣法華寺などを創建。1626年(寛永3年)4月22日死去。62歳。東光院。発星院。(1560-1628とも) |
| 2 | 妙雲院 | 日繞 | ー | ?-1609 | 1608-1609 | 1609年(慶長14年)8月12日死去。 |
| 3 | 本行院 | 日遥 | 学淵 | 1581-1659 | 1609-? | 通称は高麗上人。朝鮮慶尚道河東の出身。1581年(宣祖14年)生。晋州城陥落の翌月、1593年(宣祖26年)7月、13歳の時、路頭に迷っているところを加藤清正軍の兵士に助けられたと伝える。清正の帰国と共に来日し、六条檀林にいた日真の師匠である日乾に預けられ僧となった。身延山や飯高壇林で学び、1609年(慶長14年)日饒の死と共に呼び戻され、本妙寺3世となった。1611年(慶長16年)に清正が亡くなるとその埋葬に関わり、その墓のそばに寺を移した。1659年(万治2年)2月26日(16日とも)死去。79歳。好仁。(『日鮮史話』) |
| 4 | 本住院 | 日選 | 文夙 | ?-1652 | ?-1652 | 1652年(承応1年)9月10日死去。 |
| 5 | 一円院 | 日悠 | 文省 | 1621-1698 | 1659-1665 | 1621年(元和7年)生。日遥の弟子。1659年(万治2年)5月15日、本妙寺住職。1665年(寛文5年)引退。1698年(元禄11年)7月8日死去。78歳。 |
| 6 | 恵雲院 | 日潤 | ー | 1626-1691 | 1665-1691 | 日遥の弟子。1626年(寛永3年)生。1665年(寛文5年)12月15日、本妙寺住職。1691年(元禄4年)1月21日死去。66歳。法華経寺47世、頂妙寺16世か。 |
| 7 | 玄収院 | 日顗 | ー | 1630-1709 | ?-1709 | 日悠の弟子。1630年(寛永7年)生。1709年(宝永6年)1月6日死去。80歳。 |
| 8 | 久遠院 | 日長 | ー | ?-1682 | 1681-1682 | 1682年(天和2年)6月5日死去。 |
| 9 | 正心院 | 日栄 | 察情 | 1636-1708 | 1685-1699 | 1636年(寛永13年)生。1685年(貞享2年)12月13日、本妙寺住職。1699年(元禄12年)引退。1708年(宝永5年)10月30日死去。73歳。 |
| 10 | 寂円院 | 日堯 | 玄恵 | ?-1707 | 1699-1707 | 1699年11月9日、本妙寺住職。1707年(宝永4年)11月18日死去。 |
| 11 | 好堅院 | 日山 | 春照 | 1674-1715 | 1709-1714 | 1674年(延宝2年)生。六条32世。本妙寺11世。1709年(宝永6年)11月1日、本妙寺住職。1714年(正徳4年)5月引退。1715年(正徳5年)6月1日死去。42歳。好賢院。 |
| 12 | 静照院 | 日良 | 三恵 | 1670-1727 | 1715-? | 1670年(寛文10年)生。1715年(正徳5年)1月3日、本妙寺住職。1727年(享保12年)9月29日死去。58歳。六条29世。 |
| 13 | 本従院 | 日念 | 恵観 | 1665-1735 | 1725-1729 | 1665年(寛文5年)生。1725年(享保10年)12月3日本妙寺住職。1729年(享保14年)3月11日引退。1735年(享保20年)9月16日死去。71歳。 |
| 14 | 誠諦院 | 日証 | 栄境 | 1670-1750 | 1729-1739 | 1670年(寛文10年)生。1729年(享保14年)9月、本妙寺住職。1739年(元文4年)4月19日引退。1750年(寛延3年)12月4日死去。81歳。鷹峰化主か。 |
| 15 | 鷲峰院 | 日晴 | 栄旭 | 1687-1740 | 1740-1740 | 1687年(貞享4年)生。1740年(元文5年)7月15日、本妙寺住職。1740年(元文5年)7月23日死去。54歳。 |
| 16 | 霊智院 | 日感 | 感通 | ?-1761 | 1741-1760 | 1741年(寛保1年)12月5日、本妙寺住職。1760年(宝暦10年)9月25日引退。1761年(宝暦11年)7月17日死去。鷹峰檀林化主か。 |
| 17 | 諦智院 | 日健 | 智健 | 1698-1782 | 1760-1774 | 1698年(元禄11年)生。1760年(宝暦10年)12月21日、本妙寺住職。1774年(安永3年)10月引退。常照寺5世。1782年(天明2年)4月19日死去。85歳。 |
| 18 | 敷揚院 | 日大 | 雲含 | 1713-1798 | 1774-1782 | 1713年(正徳3年)生。1774年(安永3年)、本妙寺住職。1782年(天明2年)引退。1798年(寛政10年)2月25日死去。86歳。 |
| 19 | 霊智院 | 日慧 | 桓山 | ?-1785 | 1783-1785 | 1783年(天明3年)12月、本妙寺住職。1785年(天明5年)12月6日死去。 |
| 20 | 一妙院 | 日導 | 智渓 | 1724-1789 | 1785-1789 | 1724年(享保9年)生。1789年(寛政1年)7月12日死去。66歳。『祖書綱要』の著者として知られる。初名は日深。中村檀林玄能153世。 |
| 21 | 不染院 | 日亮 | 長貞 | 1749-1812 | 1789-1812 | 1749年(寛延2年)生。1789年(寛政1年)12月13日、本妙寺住職。1812年(文化9年)12月22日死去。64歳。中村檀林191世。 |
| 22 | 智勇院 | 日進 | 智勇 | 1761-1821 | 1813-1817 | 1761年(宝暦11年)生。1813年(文化10年)10月22日、本妙寺住職。1817年(文化14年)引退。1821年(文政4年)11月11日死去。61歳。 |
| 23 | 本来院 | 日法 | 普耀 | 1750-1819 | 1817-1819 | 1750年(寛延3年)生。1817年(文化14年)4月8日、本妙寺住職。1819年(文政2年)11月10日死去。70歳。鷹峰檀林玄能213世 |
| 24 | 明玄院 | 日声 | ー | ?-1833 | 1819-? | 1819年(文政2年)4月19日、本妙寺住職。1833年(天保4年)12月7日死去。鷹峰318世。松崎檀林236世。 |
| 25 | 普明院 | 日暲 | 義伯 | 1767-1856 | 1832-1846 | 1767年(明和4年)生。1832年(天保3年)9月21日、本妙寺住職。1846年(弘化3年)8月引退。1856年(安政3年)9月21日死去。90歳。鷹峰307世。 |
| 26 | 俊光院 | 日成 | 澄俊 | 1796-1860 | 1847-1860 | 1796年(寛政8年)生。1847年(弘化4年)10月、本妙寺住職。1860年(万延1年)8月14日死去。65歳。 |
| 27 | 恵明院 | 日従 | 光彦 | 1798-1871 | 1864-1868 | 1798年(寛政10年)生。1864年(元治1年)、本妙寺住職。1868年(明治1年)引退。1871年(明治4年)1月26日死去。74歳。 |
| 28 | 慶寿院 | 日萇 | 慶寿 | 1800-1868 | ?-1868 | 1800年(寛政12年)生。1868年(明治1年)12月11日死去。69歳。鷹峰檀林文能421世。鶏冠井檀林玄能405世。 |
| 29 | 温譲院 | 日慈 | 普耀 | ?-1872 | ?-1872 | 1872年(明治5年)9月25日死去。鷹峰檀林玄能380世。 |
| 30 | 光詮院 | 日宗 | 恵澄 | ?-1900 | 1871-1874 | 1871年11月から1874年12月まで本妙寺住職。浄池廟の仏祭への復旧に尽力。1900年(明治33年)10月19日死去。 |
| 准30 | 通応院 | 上野日〓 | 上野月潭 | ?-1880 | 1874-1877 | 熊本出身。1874/12月、「当山の法灯を襲く」。1877年引退。1880年8月25日東京で死去。 |
| 31 | 雷雲院 | 岩村日轟 | 岩村琢円 | 1826-1904 | 1878-1888 | 13代日蓮宗管長。本圀寺47世。肥後本妙寺31世を経て1870年(明治3年)12月、紀伊・報恩寺18世。韮山本立寺。1898年(明治31年)、13代日蓮宗管長。岩村琢円。(略歴は、本圀寺#組織を参照) |
| 准31 | 本地院 | 日妙 | ? | 1823-1894 | ー | 1894年6/11死去。72歳。 |
| 32 | 一心院 | 塩田日観 | 塩田恵啓 | 1858-1891 | 1888- | 1858年(安政5年)生。1891年(明治24年)3月30日死去。34歳。 |
| 33 | 禅妙院 | 馬渡日勇 | 馬渡弁斉 | 1833-1916 | 1891- | 1916年(大正5年)9月14日死去。 |
| 准33 | 光詮院 | 吉見日勝 | ? | 1818-1892 | ー | 1892/1/17死去。75歳。 |
| 34 | 一本院 | 金崎日柱 | 金崎恵厚 | 1873-1926 | 1901-1906,1909-1926 | 1873年(明治6年)生。1901年(明治34年)、本妙寺住職。1906年(明治39年)引退。1909年(明治42年)、再び本妙寺住職に就任。1926年(大正15年)6月2日死去。54歳。 |
| 35 | 融義院 | 上木日褒 | 上木陽山 | 1844-1909 | 1906-1909 | 1844年(天保15年)生。住職就任で問題となる。1909年(明治42年)8月3日死去。66歳。 |
| 36 | 一雨院 | 塩出日等 | 塩出孝潤 | 1877-1942 | 1927-1942 | 宗務総監。広島県出身。1877年(明治10年)生。1899年(明治32年)日蓮宗大檀林を卒業。下総・妙興寺、谷中大雄寺を経て1927年、本妙寺住職。布教師、宗会議員、教学部長を歴任。1938年(昭和13年)宗務総監。山頂に325年遠忌記念に加藤清正像を建立。1942年(昭和17年)7月2日死去。66歳。 |
| 37 | 一乗院 | 日昇 | ? | 1903-1947 | 1942-1947 | 1903年(明治36年)生。1947年(昭和22年)1月17日死去。45歳。 |
| 38 | 大千院 | 日照 | ? | 1866-1953 | 1947-1953 | 1866年(慶応2年)生。1953年(昭和28年)8月30日死去。88歳。 |
| 39 | 玄振院 | 池上日正 | 池上義豊 | 1906-1968 | 1954-1968 | 1906年(明治39年)生。1968年(昭和43年)7月23日死去。63歳。 |
| 40 | 玄裕院 | 池上日瀞 | 池上尊義 | 1932- | 1968-2011 | |
| 41 | ? | 池上正示 | 1960- | 2011- |
資料
- 「熊本市本妙寺所蔵 『道元禅師頂相』」[3]