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本門仏立宗
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | |本門仏立宗開祖。「開導」「開導聖人」と呼ばれる。[[京都・妙蓮寺|妙蓮寺]]加歴53世。京都出身。1817年(文化14年)4月1日生。小間物屋「えびすや」の大路浄喜の子。母はくに。幼名は遷二郎(仙二郎)。蛸薬師通室町に生家があった(現[[京都・誕生寺|誕生寺]])。幼少から文芸に優れ、1830年(天保1年・文政13年)の『平安人物志』中巻29丁の「画」の部に「大路魚 字士龍 蛸薬師新町東 大路三高」とあるのが日扇のこととされる[http://lapis.nichibun.ac.jp/heian/years_bunsei13/heian401.html][https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100122312/viewer/36]。1833年(天保4年)、[[国学者]]城戸千楯(1778-1845)に入門。国学と和歌を学ぶ。この頃から'''清風'''と号す。1841年(天保12年)、千種有功邸で源氏物語を講義。同年の母の死を機に仏道に関心を深める。菩提寺は[[浄土宗]]だったが、往生の教えに納得が行かなかったらしい。翌年江戸で[[儒学者]]松崎慊堂(1771-1844)に師事。帰京後の1845年(弘化2年)、[[本能寺長遠院]]で揮毫会を開催。この時、長遠院住職の随宏院秀典日雄の法華経の教えを聴き、即座に入信。1848年(嘉永1年)4月、日雄に紹介され淡路[[隆泉寺]]で無著日耀を師に出家得度。'''無貪'''と名乗った。[[尼崎本興寺]]の檀林に入ろうとするが、風当たりが強くて入学を断念。京都の生家に戻り、今度は細草檀林[[遠霑寺]]への入学を企図。しかし友人から出世よりも庶民を救うべきだと言われ思いとどまる。その友人の手配で同年7月、東山[[京都・西行庵|西行庵]]に移り、唱題1万遍を行う。しかし、1850年(嘉永3年)、西行庵を管理していた[[双林寺]]からにらまれ、出ざるを得なくなる。この時、還俗したのか、袈裟と衣を脱ぎ、以後、町人の姿で布教する。1856年(安政3年)、皆成論争で同じ久遠派にいた高松藩主兄の松平頼該(1809-1868)に著書『御法のしるべ』を送り信頼を得て高松に招かれた。これが転機となり、翌年1月、京都で在家信者のための本門仏立講を設立。1862年(文久2年)大津追分に法華堂(現[[仏立寺]])を建立。教団最初の寺院となる。1865年(慶応1年)[[仁和寺宮]]の内人となり、'''今大路清風'''と称す。1868年(明治1年)大津法難。取調をした京都府知事長谷信篤から見識が認められて無罪放免。再出家が許可され、[[本能寺龍雲院]]に入った。1869年(明治2年)1月、妙蓮寺の紹介で[[宥清寺]]に入る。ただし住職ではなかったらしい。以後、妙蓮寺の傘下で積極的な布教に邁進。1871年(明治4年)竹内栄と結婚。1872年(明治5年)第二の法難。1874年(明治7年)戸籍登録で長松清風と名乗る。1875年(明治8年)長男斯太郎誕生するが夭折。同年、第三の法難。1877年(明治10年)、第四の法難。1880年(明治13年)、宥清寺前に[[本門仏立講親道場]]を開設。1881年(明治14年)10月12日妻死去。同年[[日蓮]]600回遠諱。1882年(明治15年)11月27日、前妻の姉、ヤス(八尾)と再婚。連れ子のシナ(品尾)を養子とした。弾圧を避けるため1884年(明治17年)、宥清寺を去り、麩屋町の屋敷(現[[長松寺]])に転居。以後「大尊師」と呼ばれる。1886年(明治19年)死期を悟り墓碑を建立。1890年(明治23年) | + | |本門仏立宗開祖。「開導」「開導聖人」と呼ばれる。[[京都・妙蓮寺|妙蓮寺]]加歴53世。京都出身。1817年(文化14年)4月1日生。小間物屋「えびすや」の大路浄喜の子。母はくに。幼名は遷二郎(仙二郎)。蛸薬師通室町に生家があった(現[[京都・誕生寺|誕生寺]])。幼少から文芸に優れ、1830年(天保1年・文政13年)の『平安人物志』中巻29丁の「画」の部に「大路魚 字士龍 蛸薬師新町東 大路三高」とあるのが日扇のこととされる[http://lapis.nichibun.ac.jp/heian/years_bunsei13/heian401.html][https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100122312/viewer/36]。1833年(天保4年)、[[国学者]]城戸千楯(1778-1845)に入門。国学と和歌を学ぶ。この頃から'''清風'''と号す。1841年(天保12年)、千種有功邸で源氏物語を講義。同年の母の死を機に仏道に関心を深める。菩提寺は[[浄土宗]]だったが、往生の教えに納得が行かなかったらしい。翌年江戸で[[儒学者]]松崎慊堂(1771-1844)に師事。帰京後の1845年(弘化2年)、[[本能寺長遠院]]で揮毫会を開催。この時、長遠院住職の随宏院秀典日雄の法華経の教えを聴き、即座に入信。1848年(嘉永1年)4月、日雄に紹介され淡路[[隆泉寺]]で無著日耀を師に出家得度。'''無貪'''と名乗った。[[尼崎本興寺]]の檀林に入ろうとするが、風当たりが強くて入学を断念。京都の生家に戻り、今度は細草檀林[[遠霑寺]]への入学を企図。しかし友人から出世よりも庶民を救うべきだと言われ思いとどまる。その友人の手配で同年7月、東山[[京都・西行庵|西行庵]]に移り、唱題1万遍を行う。しかし、1850年(嘉永3年)、西行庵を管理していた[[双林寺]]からにらまれ、出ざるを得なくなる。この時、還俗したのか、袈裟と衣を脱ぎ、以後、町人の姿で布教する。1856年(安政3年)、皆成論争で同じ久遠派にいた高松藩主兄の松平頼該(1809-1868)に著書『御法のしるべ』を送り信頼を得て高松に招かれた。これが転機となり、翌年1月、京都で在家信者のための本門仏立講を設立。1862年(文久2年)大津追分に法華堂(現[[仏立寺]])を建立。教団最初の寺院となる。1865年(慶応1年)[[仁和寺宮]]の内人となり、'''今大路清風'''と称す。1868年(明治1年)大津法難。取調をした京都府知事長谷信篤から見識が認められて無罪放免。再出家が許可され、[[本能寺龍雲院]]に入った。1869年(明治2年)1月、妙蓮寺の紹介で[[宥清寺]]に入る。ただし住職ではなかったらしい。以後、妙蓮寺の傘下で積極的な布教に邁進。1871年(明治4年)竹内栄と結婚。1872年(明治5年)第二の法難。1874年(明治7年)戸籍登録で長松清風と名乗る。1875年(明治8年)長男斯太郎誕生するが夭折。同年、第三の法難。1877年(明治10年)、第四の法難。1880年(明治13年)、宥清寺前に[[本門仏立講親道場]]を開設。1881年(明治14年)10月12日妻死去。同年[[日蓮]]600回遠諱。1882年(明治15年)11月27日、前妻の姉、ヤス(八尾)と再婚。連れ子のシナ(品尾)を養子とした。弾圧を避けるため1884年(明治17年)、宥清寺を去り、麩屋町の屋敷(現[[長松寺]])に転居。以後「大尊師」と呼ばれる。1886年(明治19年)死期を悟り墓碑を建立。1890年(明治23年)4月10日、大阪の秦新蔵邸親会場(現本成寺)開筵式。5月に病気になる。6月3日、神戸親会場(神戸仏立寺)開筵式。7月9日、自らの坐像を開眼。7月15日、宥清寺の最後の「御修行日」。7月17日、淀川を下り大阪の秦新蔵邸に向かう途中、休憩に寄った守口の茶屋(現[[義天寺]])で死去。74歳。遺言で御牧現喜に託す。8月5日、宥清寺で葬儀。墓は[[仏立霊地]]。1899年(明治32年)5月、妙蓮寺が権大僧正を追贈。1913年(大正2年)、講有3世日随の提案で五山会議に図り、大僧正追贈を議決。(資料C、D) |
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2019年3月25日 (月) 時点における版
本門仏立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は、長松日扇を開祖とする日蓮宗日隆門流系の教団。本山は京都市上京区の宥清寺。幕末の設立で戦後の独立。正式表記は本門佛立宗。
目次 |
寺院
組織
講有
- 過去には宥清寺住職とは必ずしも一致しなかったが、現在は宥清寺住職を兼務する。
- その地位を「講有位」という。「御講有」と尊称される。現在の任期は4年らしい。就任日は7月2日で固定されているようで「委嘱伝承の儀」が行われる。就任を披露する講有晋位式・住職晋山式は秋に実施することが定例。退任後は「講尊」と呼ばれる。
- 2世~19世の名と就任年は『新宗教教団・人物事典』による(4世~8世の就任年は疑義があるので採用しなかった)。なお同書では20世を御牧日勤とするが、現在の教団資料では21世としている。
- 資料B:『佛立新聞』
- 資料C:『宥清寺』
- 資料D:『佛立開導日扇聖人物語』
- 資料W1:妙深寺ウェブサイト
- 資料W2:HBSNEWS
世数 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 | |
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1 | 開導 | 長松日扇 (長松清風) | 1817-1890 | 1857-1890 | 本門仏立宗開祖。「開導」「開導聖人」と呼ばれる。妙蓮寺加歴53世。京都出身。1817年(文化14年)4月1日生。小間物屋「えびすや」の大路浄喜の子。母はくに。幼名は遷二郎(仙二郎)。蛸薬師通室町に生家があった(現誕生寺)。幼少から文芸に優れ、1830年(天保1年・文政13年)の『平安人物志』中巻29丁の「画」の部に「大路魚 字士龍 蛸薬師新町東 大路三高」とあるのが日扇のこととされる[1][2]。1833年(天保4年)、国学者城戸千楯(1778-1845)に入門。国学と和歌を学ぶ。この頃から清風と号す。1841年(天保12年)、千種有功邸で源氏物語を講義。同年の母の死を機に仏道に関心を深める。菩提寺は浄土宗だったが、往生の教えに納得が行かなかったらしい。翌年江戸で儒学者松崎慊堂(1771-1844)に師事。帰京後の1845年(弘化2年)、本能寺長遠院で揮毫会を開催。この時、長遠院住職の随宏院秀典日雄の法華経の教えを聴き、即座に入信。1848年(嘉永1年)4月、日雄に紹介され淡路隆泉寺で無著日耀を師に出家得度。無貪と名乗った。尼崎本興寺の檀林に入ろうとするが、風当たりが強くて入学を断念。京都の生家に戻り、今度は細草檀林遠霑寺への入学を企図。しかし友人から出世よりも庶民を救うべきだと言われ思いとどまる。その友人の手配で同年7月、東山西行庵に移り、唱題1万遍を行う。しかし、1850年(嘉永3年)、西行庵を管理していた双林寺からにらまれ、出ざるを得なくなる。この時、還俗したのか、袈裟と衣を脱ぎ、以後、町人の姿で布教する。1856年(安政3年)、皆成論争で同じ久遠派にいた高松藩主兄の松平頼該(1809-1868)に著書『御法のしるべ』を送り信頼を得て高松に招かれた。これが転機となり、翌年1月、京都で在家信者のための本門仏立講を設立。1862年(文久2年)大津追分に法華堂(現仏立寺)を建立。教団最初の寺院となる。1865年(慶応1年)仁和寺宮の内人となり、今大路清風と称す。1868年(明治1年)大津法難。取調をした京都府知事長谷信篤から見識が認められて無罪放免。再出家が許可され、本能寺龍雲院に入った。1869年(明治2年)1月、妙蓮寺の紹介で宥清寺に入る。ただし住職ではなかったらしい。以後、妙蓮寺の傘下で積極的な布教に邁進。1871年(明治4年)竹内栄と結婚。1872年(明治5年)第二の法難。1874年(明治7年)戸籍登録で長松清風と名乗る。1875年(明治8年)長男斯太郎誕生するが夭折。同年、第三の法難。1877年(明治10年)、第四の法難。1880年(明治13年)、宥清寺前に本門仏立講親道場を開設。1881年(明治14年)10月12日妻死去。同年日蓮600回遠諱。1882年(明治15年)11月27日、前妻の姉、ヤス(八尾)と再婚。連れ子のシナ(品尾)を養子とした。弾圧を避けるため1884年(明治17年)、宥清寺を去り、麩屋町の屋敷(現長松寺)に転居。以後「大尊師」と呼ばれる。1886年(明治19年)死期を悟り墓碑を建立。1890年(明治23年)4月10日、大阪の秦新蔵邸親会場(現本成寺)開筵式。5月に病気になる。6月3日、神戸親会場(神戸仏立寺)開筵式。7月9日、自らの坐像を開眼。7月15日、宥清寺の最後の「御修行日」。7月17日、淀川を下り大阪の秦新蔵邸に向かう途中、休憩に寄った守口の茶屋(現義天寺)で死去。74歳。遺言で御牧現喜に託す。8月5日、宥清寺で葬儀。墓は仏立霊地。1899年(明治32年)5月、妙蓮寺が権大僧正を追贈。1913年(大正2年)、講有3世日随の提案で五山会議に図り、大僧正追贈を議決。(資料C、D) |
2 | 御牧日聞 | 1853-1911 | 1890-1911 | 講有2世。義天寺開山。鷲山寺(現法華宗本門流大本山)83世。妙蓮寺(現本門法華宗大本山)54世。御牧現喜。大津出身。1853年(嘉永6年)1月1日生。大津追分の米問屋「米卯」の二代目御牧卯兵衛の長男。1861年(文久1年)日扇に入門。1869年(明治2年)2月19日宥清寺で出家得度。1884年(明治17年)、弾圧を避けるために転居した日扇に代わり宥清寺住職となる。1890年(明治23年)7月、日扇の遺言により本門仏立講講有2世に就任。1900年(明治33年)光長寺にあった本門法華宗東校の教師となる。1903年(明治36年)6月、鷲山寺貫首に就任。1904年(明治37年)本門法華宗管長に就任。1911年(明治44年)妙蓮寺貫首就任。同年8月25日死去。(資料C) | |
3 | 野原日随 | 1854-1920 | 1911-1920 | 講有3世。京都・誕生寺開山。妙蓮寺(現本門法華宗大本山)55世。1854年(安政1年)3月12日生。1911年(明治44年)9月講有就任。1920年(大正9年)退任。1920年(大正9年)12月12日死去。(資料B639、648) | |
4 | 加歴 | 御牧日教 | 1857-1912 | (加歴) | 講有4世加歴。妙蓮寺(現本門法華宗大本山)加歴60世。1857年(安政4年)生。清雄寺に入り関東布教。1912年(大正1年)1月17日死去。同寺に墓。(資料B673、資料W1) |
5 | 小野山日風 | 1856-1929 | 1920- | 講有5世。妙蓮寺(現本門法華宗大本山)加歴65世。1856年(安政3年)1月18日生。1920年(大正9年)講有就任。1929年(昭和4年)8月20日死去。(資料B632・656) | |
6 | 明田日睿 | 1874-1928 | 講有6世。1874年(明治7年)生。1928年(昭和3年)7月21日死去。(資料B667) | ||
7 | 中興開基 | 西村日淳 | 1872-1956 | 講有7世。1872年(明治5年)生。1956年(昭和31年)1月6日死去。 | |
8 | 加歴 | 田中日歓 | 1869-1944 | (加歴) | 講有8世加歴。1869年(明治2年)生。乗泉寺を中興。妙蓮寺(現本門法華宗大本山)加歴61世。1936年(昭和11年)加歴。1944年(昭和19年)5月30日死去。(資料B665) |
9 | 亀井日声 | 1875-1938 | 1935-1938 | 講有9世。1875年(明治8年)10月生。1935年(昭和10年)講有就任。1938年(昭和13年)退任。1938年(昭和13年)9月23日死去。(資料B669) | |
10 | 中興開基 | 西村日淳 | 1872-1956 | 1938-1947 | 講有10世。再任。教団独立を果たす。 |
11 | 梶本日颯 | 1883-1963 | 1947-1952 | 講有11世。1883年(明治16年)生。1947年(昭和22年)講有就任。1952年(昭和27年)退任。1963年(昭和38年)2月9日死去。(資料B662) | |
12 | 御牧日宥 | 1888-1960 | 1952-1956 | 講有12世。1888年(明治21年)生。1952年(昭和27年)講有就任。1956年(昭和31年)退任。1960年(昭和35年)2月20日死去。(資料B662) | |
13 | 亀井日如 | 1893-1959 | 1956-1959 | 講有13世。1893年(明治26年)生。1956年(昭和31年)講有就任。1959年(昭和34年)退任。1959年(昭和34年)2月9日死去。(資料B662) | |
14 | 梶本日颯 | 1883-1963 | 1959-1963 | 講有14世。再任。(資料B662) | |
15 | 田中日晨 | 1899-1984 | 1963-1966 | 講有15世。1899年(明治32年)10月26日生。1963年(昭和38年)講有就任。1966年(昭和41年)退任。1984年(昭和59年)8月31日死去。(資料B656) | |
16 | 小山日幹 | 1898-1993 | 1966-1978 | 講有16世。1898年(明治31年)生。1966年(昭和41年)講有就任。1978年(昭和53年)退任。1993年(平成5年)3月24日死去。清雄寺に墓。(資料B663・665) | |
17 | 石岡日養 | 1902-1986 | 1978-1986 | 講有17世。1902年(明治35年)生。1978年(昭和53年)講有就任。1986年(昭和61年)退任。1986年(昭和61年)6月16日死去。(資料B666) | |
18 | 西村日地 | 1916-1987 | 1982-1987 | 講有18世。1916年(大正5年)生。1982年(昭和57年)講有就任。1987年(昭和62年)退任。1987年(昭和62年)5月4日死去。(資料B665) | |
19 | 梶本日裔 | 1913-2017 | 1987-1991 | 講有19世。1913年(大正2年)生。1987年(昭和62年)講有就任。1991年(平成3年)退任。2017年(平成29年)死去。 | |
20 | 水谷日尚 | 講有20世。乗泉寺問題。 | |||
21 | 御牧日勤 | 1916-1996 | 1992-1996 | 講有21世。1916年(大正5年)生。1992年(平成4年)講有就任。1996年(平成8年)退任。1996年(平成8年)6月17日死去。(資料B666) | |
22 | 井上日慶 | 1909-2001 | 1996-1998 | 講有22世。1909年(明治42年)9月17日生。1996年(平成8年)7月講有就任。1998年(平成10年)11月退任。2001年(平成13年)10月22日死去。92歳。(資料B648・W2) | |
23 | 野崎日丞 | 1920-2009 | 2000-2004 | 講有23世。奈良本妙寺住職。1920年(大正9年)7月29日生。2000年(平成12年)講有就任。2009年(平成21年)12月28日死去。著書に『法花経和歌大集』『近代日本の仏教改革者・日扇』『仏立教学選集 第5集』。「野﨑日丞」。(資料B660) | |
24 | 小山日誠 | 1931- | 2004-2012 | 講有24世。1931年(昭和6年)3月8日生。2004年(平成16年)7月2日就任。2008年(平成20年)再任。2012年(平成24年)7月2日退任。 | |
25 | 山内日開 | 2012- | 講有25世。2012年(平成24年)7月2日講有就任。(資料B630) | ||
26 | 高須日良 | 2016- | 講有26世。2016年(平成28年)7月2日講有就任。 |