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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

本門仏立宗

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年9月6日 (日)

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本門仏立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は、長松日扇を開祖とする日蓮宗日隆門流系の教団。本山は京都市上京区の宥清寺。幕末の設立で戦後の独立。正式表記は本門佛立宗

目次

歴史

日扇の時代

日扇、1845年(弘化2年)、本能寺長遠院住職の随宏院秀典日雄の法華経の教えを聴き、即座に入信。 1848年(嘉永1年)4月、日雄に紹介され淡路隆泉寺で無著日耀を師に出家得度。無貪と名乗った。尼崎本興寺の檀林に入ろうとするが、風当たりが強くて入学を断念。京都の生家に戻り、今度は細草檀林遠霑寺への入学を企図。しかし友人から出世よりも庶民を救うべきだと言われ思いとどまる。その友人の手配で同年7月、東山西行庵に移り、唱題1万遍を行う。しかし、1850年(嘉永3年)、西行庵を管理していた双林寺からにらまれ、出ざるを得なくなる。この時、還俗したのか、袈裟と衣を脱ぎ、以後、町人の姿で布教する。1856年(安政3年)、皆成論争で同じ久遠派にいた高松藩主兄の松平頼該(1809-1868)に著書『御法のしるべ』を送り信頼を得て高松に招かれた。これが転機となり、翌年1月、京都で在家信者のための本門仏立講を設立。1862年(文久2年)大津追分に法華堂(現仏立寺)を建立。教団最初の寺院となる。

1868年(明治1年)大津法難。大津64カ寺から訴えられ逮捕。京都六角獄舎に拘留。取調をした京都府知事長谷信篤から見識が認められて無罪放免。再出家が許可され、本能寺龍雲院に入った。1869年(明治2年)1月、京都・妙蓮寺の紹介で宥清寺に入る。ただし住職ではなかったらしい。以後、妙蓮寺の傘下で積極的な布教に邁進。 1872年(明治5年)第二の法難。京都府に逮捕される。7月釈放され、本能寺預かりとなる。 1875年(明治8年)3月、第三の法難。医師会からの訴えで京都府の取り調べを受け、遠足停止を命令される。 1877年(明治10年)、第四の法難。神官僧侶が日扇の追放をもくろむ。同年、要式本尊を定める。 1879年(明治12年)、大津法華堂が仏立寺の寺号を公称する。

1880年(明治13年)3月15日、宥清寺前に本門仏立講親会場を開設。1882年(明治15年)「本門仏立講入門規則」を制定。組織化をすすめる。 1883年(明治16年)2月、福井座事件。日扇、弾圧を避けるため1884年(明治17年)、宥清寺を去り、麩屋町の屋敷(現長松寺)に転居。 「本門仏立講定則」改正。

1887年(明治20年)、退転17組が懺悔状を提出。1888年(明治21年)、宥清寺制誡。

1890年(明治23年)7月17日、淀川を下り大阪の秦新蔵邸に向かう途中、休憩に寄った守口の茶屋(現義天寺)で死去。74歳。


東京布教と組織化の推進

1882年(明治15年)田中日歓が東京に移り麻布乗泉寺に仮住まいして関東布教。1893年(明治26年)乗泉寺近くの家屋を買収して布教を本格化する。 1885年(明治18年)御牧日教が清雄寺に入り関東仏立講を開設。1898年(明治31年)清雄寺入手。1901年(明治34年)11月、清雄寺に東京支部を設置。以後、「関東根本道場」を称す。 1898年(明治31年)本部支部制を制定。 1905年(明治38年)、朝鮮釜山布教を始める。 1906年(明治39年)12月、宥清寺第二墓地を開設。 1908年(明治41年)ブラジル布教を開始。

1914年(大正3年)朝鮮、中国への布教が盛んになる。

1918年(大正7年)本部親会場の改修が計画。 1919年(大正8年)、仏立教学院を開院。仏立財団を設立。 1920年(大正9年)、講有の輪番制を採用するが、まもなく廃止されたらしい。 1923年(大正12年)12月、本門仏立教会規約が認可。 1926年(昭和1年)、根本道場設立のため用地買収を可決(現在の宥清寺の地)。 1931年(昭和6年)に根本道場落慶。


本門法華宗内での地位向上

1891年(明治24年)2月、本尊拝写問題で妙蓮寺から圧力を受ける。11月には読誦謗法論、起こる。 1892年(明治25年)、「御供水」に対して医療制止の容疑が掛けられ注意処分を受ける。 1897年(明治30年)妙蓮寺中村日輝が福井座で開いた本門仏立講撲滅の講演会に小野山新平が乗り込み反論する。

1899年(明治32年)5月、妙蓮寺が日扇に権大僧正を贈る。

御牧日聞、1903年(明治36年)6月、鷲山寺貫首に就任。1904年(明治37年)本門法華宗管長に就任。

御牧日聞1911年(明治44年)妙蓮寺貫首54世に就任を果たすが、まもなく死去。同年、野原日随が継いで妙蓮寺55世となり、1912年(大正1年)1月、本門法華宗管長。五山会議に諮り、日扇への大僧正追贈を実現。

1933年(昭和8年)、宥清寺を移転。 同年、本門法華宗内に特別教区を設定。これにより本能寺本興寺、妙蓮寺の別々に管轄されていた本門仏立講所属の寺院教会を宥清寺の直轄とすることに成功。宗派独立の基礎となる。1941年(昭和16年)3月28日、合同法華宗の成立と共に宥清寺が本山となり、各寺院と教会はその管轄下となる。 1942年(昭和17年)9月26日宥清寺、寺院規則認可。門末会議を開催。第1回講政会議を開催。 1944年(昭和19年)3月、宥清寺本尊が兵庫県の竹田教会に疎開。

教団独立

1946年(昭和21年)1月12日、本門佛立宗を宗教法人として設立。妙蓮寺と独立交渉を始める。3月、法華宗に脱退届を提出。 1947年(昭和22年)3月15日に協定書を交わして解決した。「一宗独立」が実現した。 宥清寺の山号を青柳山から本門仏立山に改称した。

1948年(昭和23年)、宗教法人令に基づく宗法・宗規を制定。 1949年(昭和24年)、仏立教学院を再設置。

1945年(昭和20年)9月に戦災孤児を宥清寺に収容。積慶園の起源。1966年(昭和41年)、右京区に新施設を建設移転。 1953年(昭和28年)、本山中心信仰の確立、教務陣の拡充強化、弘通区の自主的活動の三大方針を取る。 1955年(昭和30年)、『仏立聖典』刊行。

1967年(昭和42年)4月1日、旧宥清寺を解体終わる。 1968年(昭和43年)3月、仏立霊地の起工式。11月落慶。 1969年(昭和44年)10月、宥清寺の本堂裏に宝蔵起工。1970年(昭和45年)竣工。 1972年(昭和47年)、丹波本門寺に隣接して丹波霊園を開設 1972年(昭和47年)3月、仏立会館竣工。 1976年(昭和51年)4月、全国大会で「きりかえ七ケ条」を諭告。 1980年(昭和55年)百万霊会発足。 (『宥清寺』)

寺院

  • 本山
    • 宥清寺:京都府京都市上京区滝ケ鼻町。
  • 由緒寺院
    • 誕生寺:京都府京都市中京区姥柳町。長松日扇(1817-1890)の生家跡にある。
    • 仏立寺:滋賀県大津市追分町。本門仏立宗最初の寺院。
    • 長松寺:京都府京都市下京区俵屋町。開祖長松日扇の隠居所が起源。宥清寺の奥の院とされる。
    • 義天寺:大阪府守口市本町。開祖長松日扇の死去の地。
  • 仏立霊地:京都府京都市上京区下竪町。日扇の墓所。宥清寺の旧地。
  • 開講聖地:京都府京都市中京区百足屋町。
  • 清雄寺:東京都墨田区吾妻橋。関東根本道場。
  • 乗泉寺:東京都渋谷区鶯谷町。東京の大寺院。
  • 親会場:京都府京都市上京区下竪町にあった。

組織

講有

  • 過去には宥清寺住職とは必ずしも一致しなかったが、現在は宥清寺住職を兼務する。
  • その地位を「講有位」という。「御講有」と尊称される。現在の任期は4年らしい。就任日は7月2日で固定されているようで「委嘱伝承の儀」が行われる。就任を披露する講有晋位式・住職晋山式は秋に実施することが定例。退任後は「講尊」と呼ばれる。
  • 2世~19世の名と就任年は『新宗教教団・人物事典』による(4世~8世の就任年は疑義があるので採用しなかった)。なお同書では20世を御牧日勤とするが、現在の教団資料では21世としている。
  • 資料B:『佛立新聞』
  • 資料C:『宥清寺』
  • 資料D:『佛立開導日扇聖人物語』
  • 資料W1:妙深寺ウェブサイト
  • 資料W2:HBSNEWS


世数 生没年 在職年 略歴
1 開導 長松日扇
(長松清風)
1817-1890 1857-1890 本門仏立宗開祖。「開導」「開導聖人」と呼ばれる。妙蓮寺加歴53世。京都出身。1817年(文化14年)4月1日生。小間物屋「えびすや」の大路浄喜の子。母はくに。幼名は遷二郎(仙二郎)。蛸薬師通室町に生家があった(現誕生寺)。幼少から文芸に優れ、1830年(天保1年・文政13年)の『平安人物志』中巻29丁の「画」の部に「大路魚 字士龍 蛸薬師新町東 大路三高」とあるのが日扇のこととされる[1][2]。1833年(天保4年)、国学者城戸千楯(1778-1845)に入門。国学と和歌を学ぶ。この頃から清風と号す。1841年(天保12年)、千種有功邸で源氏物語を講義。同年の母の死を機に仏道に関心を深める。菩提寺は浄土宗だったが、往生の教えに納得が行かなかったらしい。翌年江戸で儒学者松崎慊堂(1771-1844)に師事。帰京後の1845年(弘化2年)、本能寺長遠院で揮毫会を開催。この時、長遠院住職の随宏院秀典日雄の法華経の教えを聴き、即座に入信。1848年(嘉永1年)4月、日雄に紹介され淡路隆泉寺で無著日耀を師に出家得度。無貪と名乗った。尼崎本興寺の檀林に入ろうとするが、風当たりが強くて入学を断念。京都の生家に戻り、今度は細草檀林遠霑寺への入学を企図。しかし友人から出世よりも庶民を救うべきだと言われ思いとどまる。その友人の手配で同年7月、東山西行庵に移り、唱題1万遍を行う。しかし、1850年(嘉永3年)、西行庵を管理していた双林寺からにらまれ、出ざるを得なくなる。この時、還俗したのか、袈裟と衣を脱ぎ、以後、町人の姿で布教する。1856年(安政3年)、皆成論争で同じ久遠派にいた高松藩主兄の松平頼該(1809-1868)に著書『御法のしるべ』を送り信頼を得て高松に招かれた。これが転機となり、翌年1月、京都で在家信者のための本門仏立講を設立。1862年(文久2年)大津追分に法華堂(現仏立寺)を建立。教団最初の寺院となる。1865年(慶応1年)仁和寺宮の内人となり、今大路清風と称す。1868年(明治1年)大津法難。取調をした京都府知事長谷信篤から見識が認められて無罪放免。再出家が許可され、本能寺龍雲院に入った。1869年(明治2年)1月、妙蓮寺の紹介で宥清寺に入る。ただし住職ではなかったらしい。以後、妙蓮寺の傘下で積極的な布教に邁進。1871年(明治4年)竹内栄と結婚。1872年(明治5年)第二の法難。1874年(明治7年)戸籍登録で長松清風と名乗る。1875年(明治8年)長男斯太郎誕生するが夭折。同年、第三の法難。1877年(明治10年)、第四の法難。1880年(明治13年)、宥清寺前に本門仏立講親会場を開設。1881年(明治14年)10月12日妻死去。同年日蓮600回遠諱。1882年(明治15年)11月27日、前妻の姉、ヤス(八尾)と再婚。連れ子のシナ(品尾)を養子とした。弾圧を避けるため1884年(明治17年)、宥清寺を去り、麩屋町の屋敷(現長松寺)に転居。以後「大尊師」と呼ばれる。1886年(明治19年)死期を悟り墓碑を建立。1890年(明治23年)4月10日、大阪の秦新蔵邸親会場(現本成寺)開筵式。5月に病気になる。6月3日、神戸親会場(神戸仏立寺)開筵式。7月9日、自らの坐像を開眼。7月15日、宥清寺の最後の「御修行日」。7月17日、淀川を下り大阪の秦新蔵邸に向かう途中、休憩に寄った守口の茶屋(現義天寺)で死去。74歳。義天院。遺言で御牧現喜に託す。8月5日、宥清寺で葬儀。墓は仏立霊地。大津仏立寺にも分骨墓がある。1899年(明治32年)5月、妙蓮寺が権大僧正を追贈。1913年(大正2年)、講有3世日随の提案で五山会議に図り、大僧正追贈を議決。(資料C、D)
2 御牧日聞 1853-1911 1890-1911 講有2世。宥清寺住職。義天寺開山。本門法華宗管長。鷲山寺83世。妙蓮寺54世。御牧現喜。大津出身。1853年(嘉永6年)1月1日生。大津追分の米問屋「米卯」の二代目御牧卯兵衛の長男。1861年(文久1年)日扇に入門。1869年(明治2年)2月19日宥清寺で出家得度。1884年(明治17年)、弾圧を避けるために転居した日扇に代わり宥清寺住職となる。1890年(明治23年)7月、日扇の遺言により本門仏立講講有2世に就任。1900年(明治33年)光長寺にあった本門法華宗東校の教師となる。1903年(明治36年)6月、鷲山寺貫首に就任。1904年(明治37年)本門法華宗管長に就任。1911年(明治44年)妙蓮寺貫首就任。同年8月25日死去。信解院。(資料C)
3 野原日随 1854-1920 1911-1920 講有3世。京都・誕生寺開山。妙蓮寺55世。1854年(安政1年)3月12日生。1911年(明治44年)9月講有就任。1920年(大正9年)12月12日死去。要種院。(資料B639、648)
4 加歴 御牧日教 1857-1912 (加歴) 講有4世加歴。妙蓮寺加歴60世。1857年(安政4年)生。清雄寺に入り関東布教。1912年(大正1年)1月17日死去。同寺に墓。信隆院。(資料B673、資料W1)
5 小野山日風 1856-1929 1920- 講有5世。妙蓮寺加歴65世。1856年(安政3年)1月18日生。1920年(大正9年)講有就任。1929年(昭和4年)8月20日死去。天事院。(資料B632・656)
6 明田日睿 1874-1928 講有6世。1874年(明治7年)生。1928年(昭和3年)7月21日死去。信行院。(資料B667)
7 中興開基 西村日淳 1872-1956 講有7世。1872年(明治5年)生。1956年(昭和31年)1月6日死去。要解院。
8 加歴 田中日歓 1869-1944 (加歴) 講有8世加歴。1869年(明治2年)生。乗泉寺を中興。妙蓮寺加歴61世。1936年(昭和11年)加歴。1944年(昭和19年)5月30日死去。信広院。(資料B665)
9 亀井日声 1875-1938 1935-1938 講有9世。1875年(明治8年)10月生。1935年(昭和10年)講有就任。1938年(昭和13年)退任。1938年(昭和13年)9月23日死去。隆声院。(資料B669)
10 中興開基 西村日淳 1872-1956 1938-1947 講有10世。再任。教団独立を果たす。
11 梶本日颯 1883-1963 1947-1952 講有11世。1883年(明治16年)生。1947年(昭和22年)講有就任。1952年(昭和27年)退任。1963年(昭和38年)2月9日死去。天真院。(資料B662)
12 御牧日宥 1888-1960 1952-1956 講有12世。1888年(明治21年)生。1952年(昭和27年)講有就任。1956年(昭和31年)退任。1960年(昭和35年)2月20日死去。随義院。(資料B662)
13 亀井日如 1893-1959 1956-1959 講有13世。1893年(明治26年)生。1956年(昭和31年)講有就任。1959年(昭和34年)退任。1959年(昭和34年)2月9日死去。明鏡院。(資料B662)
14 梶本日颯 1883-1963 1959-1963 講有14世。再任。(資料B662)
15 田中日晨 1899-1984 1963-1966 講有15世。1899年(明治32年)10月26日生。1963年(昭和38年)講有就任。1966年(昭和41年)退任。1984年(昭和59年)8月31日死去。信照院。(資料B656)
16 小山日幹 1898-1993 1966-1978 講有16世。1898年(明治31年)生。1966年(昭和41年)講有就任。1978年(昭和53年)退任。1993年(平成5年)3月24日死去。清雄寺に墓。信誠院。(資料B663・665)
17 石岡日養 1902-1986 1978-1986 講有17世。1902年(明治35年)生。1978年(昭和53年)講有就任。1986年(昭和61年)退任。1986年(昭和61年)6月16日死去。信得院。(資料B666)
18 西村日地 1916-1987 1982-1987 講有18世。1916年(大正5年)生。1982年(昭和57年)講有就任。1987年(昭和62年)退任。1987年(昭和62年)5月4日死去。信要院。(資料B665)
19 梶本日裔 1913-2017 1987-1991 講有19世。1913年(大正2年)生。1987年(昭和62年)講有就任。1991年(平成3年)退任。2017年(平成29年)死去。
20 水谷日尚 講有20世。乗泉寺問題。
21 御牧日勤 1916-1996 1992-1996 講有21世。1916年(大正5年)生。1992年(平成4年)講有就任。1996年(平成8年)退任。1996年(平成8年)6月17日死去。(資料B666)
22 井上日慶 1909-2001 1996-1998 講有22世。1909年(明治42年)9月17日生。1996年(平成8年)7月講有就任。1998年(平成10年)11月退任。2001年(平成13年)10月22日死去。92歳。(資料B648・W2)
23 野崎日丞 1920-2009 2000-2004 講有23世。奈良本妙寺住職。1920年(大正9年)7月29日生。2000年(平成12年)講有就任。2009年(平成21年)12月28日死去。著書に『法花経和歌大集』『近代日本の仏教改革者・日扇』『仏立教学選集 第5集』。「野﨑日丞」。(資料B660)
24 小山日誠 1931- 2004-2012 講有24世。1931年(昭和6年)3月8日生。2004年(平成16年)7月2日就任。2008年(平成20年)再任。2012年(平成24年)7月2日退任。
25 山内日開 ?-2019 2012-2016 講有25世。清風寺住職、広宣寺住職を歴任。1991年仏立研究所所長。宗務総長。2012年(平成24年)7月2日講有就任。2019年3月3日死去。85歳。(資料B630ほか)
26 高須日良 2016- 講有26世。2016年(平成28年)7月2日講有就任。

宗務総長

  • 西村日地
  • 佐藤日凰
  • 山内日開
  • 木村日覚
  • 小西日演
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