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江戸・護持院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''護持院'''(ごじいん)は、江戸にあった[[真言宗新義派]]僧録を務めた[[徳川家]]ゆかりの寺院。[[筑波]]の[[常陸・中禅寺|知足院]](大御堂)を移して(寺籍だけ?)江戸神田橋外に創建。当初は'''知足院'''と称したが、のち'''護持院'''と改称した。[[江戸触頭]](江戸四カ寺)の一つだったが、[[根生院]]に譲った。[[隆光]]の旧跡。のち焼失して[[護国寺]]の子院となった。明治に護国寺に合併。(参考:同名寺院[[知足院]]、[[護持院]]) | '''護持院'''(ごじいん)は、江戸にあった[[真言宗新義派]]僧録を務めた[[徳川家]]ゆかりの寺院。[[筑波]]の[[常陸・中禅寺|知足院]](大御堂)を移して(寺籍だけ?)江戸神田橋外に創建。当初は'''知足院'''と称したが、のち'''護持院'''と改称した。[[江戸触頭]](江戸四カ寺)の一つだったが、[[根生院]]に譲った。[[隆光]]の旧跡。のち焼失して[[護国寺]]の子院となった。明治に護国寺に合併。(参考:同名寺院[[知足院]]、[[護持院]]) | ||
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+ | ==歴史== | ||
+ | 1610年(慶長15年)、長谷寺の宥俊と光誉が徳川家康に帰依を受け、江戸に寺を与えられた。その寺は筑波山知足院の宿寺とされた。 | ||
+ | 当初の場所は神田で、岩井町または白銀町(銀町)というが詳細は不明。 | ||
+ | 1614年(慶長19年)の大阪夏の陣には光誉は徳川家康に供奉して祈祷した。 | ||
+ | 1615年(元和1年)徳川家祈願所となる。 | ||
+ | 1626年(寛永3年)、徳川家光が造営(江戸名所図会) | ||
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+ | 1639年(寛永16年)4月7日、幕府は護摩堂造営の費用として1300両を与えた。 | ||
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+ | 1680年(延宝8年)、将軍座所・休息所が完成し、知足院恵賢が安鎮法を修す(以後、座所造営のたびに恒例となる) | ||
+ | 1684年(貞享1年)、湯島に移転。 | ||
+ | 1686年(貞享3年)12月1日、隆光、権僧正。 | ||
+ | 1688年(元禄1年)2月15日、一旦、天樹院邸跡が寺地となるが28日、知足院を神田橋外に変更。明石松平直明が造営を担当する。 | ||
+ | 1688年(元禄1年)9月5日、隆光の班次を「別異」とする。 | ||
+ | 10月29日、駿河台に別院 | ||
+ | 11月4日、造営成る。東照宮を建て幕府により遷座祭を行う。 | ||
+ | 11月18日、知足院東照宮に将軍徳川綱吉参詣。 | ||
+ | 同日、元禄寺の号を与えられたという(天享吾妻鑑) | ||
+ | 1689年(元禄2年)閏1月25日、綱吉御成。論義 | ||
+ | 1691年(元禄4年)閏8月22日、幕府、知足院を無本寺とする。 | ||
+ | 1691年(元禄4年)6月18日、権僧正隆光、智積院・長谷寺と共に正僧正となる。 | ||
+ | 1695年(元禄8年)9月18日、知足院を護持院と改称。真言新義僧録とする。この時、院家になったとも(武江年表)。同年、隆光を大僧正とする。 | ||
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+ | 1717年(享保2年)2月9日、護持院を護国寺に合併。 | ||
+ | 1717年(享保2年)3月14日、護国寺をもって護持院とし、観音堂を護国寺とする。同日、僧録停止。 | ||
+ | 1724年(享保9年)11月7日、幕府、護持院住職は智山豊山の両派ではなく豊山派から任命することと決める。 | ||
+ | ==伽藍== | ||
+ | *本堂 | ||
+ | *護持院東照宮 | ||
+ | *千手堂 | ||
+ | *聖天堂 | ||
+ | *護摩堂 | ||
+ | *大師堂 | ||
+ | *書院 | ||
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==組織== | ==組織== |
2021年2月5日 (金) 時点における版
護持院(ごじいん)は、江戸にあった真言宗新義派僧録を務めた徳川家ゆかりの寺院。筑波の知足院(大御堂)を移して(寺籍だけ?)江戸神田橋外に創建。当初は知足院と称したが、のち護持院と改称した。江戸触頭(江戸四カ寺)の一つだったが、根生院に譲った。隆光の旧跡。のち焼失して護国寺の子院となった。明治に護国寺に合併。(参考:同名寺院知足院、護持院)
目次 |
歴史
1610年(慶長15年)、長谷寺の宥俊と光誉が徳川家康に帰依を受け、江戸に寺を与えられた。その寺は筑波山知足院の宿寺とされた。 当初の場所は神田で、岩井町または白銀町(銀町)というが詳細は不明。 1614年(慶長19年)の大阪夏の陣には光誉は徳川家康に供奉して祈祷した。 1615年(元和1年)徳川家祈願所となる。 1626年(寛永3年)、徳川家光が造営(江戸名所図会)
1639年(寛永16年)4月7日、幕府は護摩堂造営の費用として1300両を与えた。
1680年(延宝8年)、将軍座所・休息所が完成し、知足院恵賢が安鎮法を修す(以後、座所造営のたびに恒例となる) 1684年(貞享1年)、湯島に移転。 1686年(貞享3年)12月1日、隆光、権僧正。 1688年(元禄1年)2月15日、一旦、天樹院邸跡が寺地となるが28日、知足院を神田橋外に変更。明石松平直明が造営を担当する。 1688年(元禄1年)9月5日、隆光の班次を「別異」とする。 10月29日、駿河台に別院 11月4日、造営成る。東照宮を建て幕府により遷座祭を行う。 11月18日、知足院東照宮に将軍徳川綱吉参詣。 同日、元禄寺の号を与えられたという(天享吾妻鑑) 1689年(元禄2年)閏1月25日、綱吉御成。論義 1691年(元禄4年)閏8月22日、幕府、知足院を無本寺とする。 1691年(元禄4年)6月18日、権僧正隆光、智積院・長谷寺と共に正僧正となる。 1695年(元禄8年)9月18日、知足院を護持院と改称。真言新義僧録とする。この時、院家になったとも(武江年表)。同年、隆光を大僧正とする。
1717年(享保2年)2月9日、護持院を護国寺に合併。 1717年(享保2年)3月14日、護国寺をもって護持院とし、観音堂を護国寺とする。同日、僧録停止。 1724年(享保9年)11月7日、幕府、護持院住職は智山豊山の両派ではなく豊山派から任命することと決める。
伽藍
- 本堂
- 護持院東照宮
- 千手堂
- 聖天堂
- 護摩堂
- 大師堂
- 書院
組織
住職
- 宥俊(?-1609)<?-1609>:中興1世。長谷寺梅心院の出身。
- 光誉(-1624)<1609-1624>:長谷寺梅心院の出身。宥俊の弟子。慶長15年、江戸に進出。
- 栄増():
- 信全():
- 賢暁():
- 覚永():
- 恵円():
- 俊盛(1612-1680):長谷寺10世。
- 尊如(1622-1684):長谷寺12世。
- 慧賢():
- 隆光(1649-1724):護持院と改称
- 快意():室生寺住職
- 覚眼(1643-1725):江戸・円福寺、智積院11世を経て護持院住職。
- 隆慶(1649-1719):江戸・弥勒寺、大護院を経て宝永5年(1708)長谷寺17世に晋山。正徳5年(1715)護国寺住職。護持院が護国寺に移転してくるとその住職となり、護国寺も兼務。
- 兼澄():
- 恵海(1662-1745):長谷寺21世。
- 主真():
- 覚音():
- 龍岳():
- 圭賢(1669-1749):長谷寺23世。
- 信恕(1682-1760):長谷寺24世。
- 憲清():
- 光星():
- 恵山():以下末代まで護国寺兼務。
- 有慶(1709-1775):長谷寺28世。
- 懐玄(?-1790):長谷寺31世。
- 観算():
- 恵翁():
- 儀貞(1732-1802):長谷寺33世。
- 実自():
- 信応():
- 元栄(?-1802):長谷寺34世。
- 盛尊(?-1804):長谷寺36世。
- 高隆(1737-1808):長谷寺37世。
- 賢慶():
- 通弁():
- 祐澄():
- 令法(?-1827):長谷寺41世。
- 秀陽():
- 栄性(1768-1837):天保4年就任。
- 真淳():
- 信恵(1776-1846):長谷寺46世。
- 法信():
- 長盛():
- 通済(1788-1872):長谷寺49世
- 宥観(?-1866):長谷寺50世。「宥歓」。
- 快照():
- 実盈():
- 隆盛(1801-1872):長谷寺52世。
(富田学純『新義真言宗史』[1])