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叡福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2017年10月5日 (木) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
叡福寺 えいふくじ | |
叡福寺 金堂 | |
概要 | 聖徳太子の菩提寺。聖徳太子墓所。 |
奉斎 | |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町太子2146 |
所在地(旧国郡) | 河内国石川郡 |
所属(現在) | 真言宗系単立 |
格式など | |
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目次 |
概要
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある聖徳太子菩提寺の真言宗寺院。聖徳太子墓がある。本尊は如意輪観音。 聖霊院。磯長寺、石川寺。太子堂ともいう。野中寺・大聖勝軍寺と共に河内三太子の一つで上之太子と呼ばれる。聖徳太子建立四十六寺の一つ。山号は磯長山、科長山。、
歴史
古代
聖徳太子らの埋葬後、推古天皇が坊舎を建て、神亀元年(724)、聖武天皇の勅願で伽藍が整備された。 東院と西院に分かれ、東院を転法輪寺、西院を叡福寺と言ったともいう。
中世 太子信仰の興隆
平安時代後期から太子信仰が興隆し、その聖地の一つとして天皇貴族や僧侶の参拝が増えた。特に天喜元年(1053)、『聖徳太子御記文』が発見されて以来、注目を集めるようになった。 天仁元年(1108)、永暹という僧侶が廟前を臨終の地とした。 承安年間、平清盛が修復。建久3年(1192)、慈円が参詣。
後嵯峨天皇中宮の大宮院の遺骨が廟前に納められた。 親鸞、日蓮、一遍も訪れたとされる。 叡尊は寛元4年(1246)菩薩戒を502人に授けている。 弘安9年(1286)、一遍は四天王寺参詣後に叡福寺に参籠 天正2年、兵火で焼失。
近世
慶長8年(1603)、豊臣秀頼が寺領70石を寄進し、江戸時代これを保った。 11月、後陽成天皇の勅願で聖霊殿を再建した。 承応年間、多宝塔再建。 元禄元年、丹南藩主高木氏が二天門、上の御堂を造営した。 享保17年(1732)金堂再建。
近現代
聖徳太子墓が宮内省の管理となる。 叡福寺は金剛峰寺末となる。昭和24年11月、四天王寺と共に「聖徳三経宗」を設立したともいう(『法隆寺の秘話』)。太子宗を名乗っていた時期もあるようだ(国史大辞典)。
(国史大辞典、日本歴史地名大系)
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