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江戸・護持院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
護持院(ごじいん)は、江戸にあった真言宗新義派僧録を務めた徳川家ゆかりの寺院。筑波の知足院(大御堂)を移して(寺籍だけ?)江戸神田橋外に創建。当初は知足院と称したが、のち護持院と改称した。江戸触頭(江戸四カ寺)の一つだったが、根生院に譲った。隆光の旧跡。のち焼失して護国寺の子院となった。明治に護国寺に合併。(参考:同名寺院知足院、護持院)
目次 |
歴史
江戸知足院の成立
『知足院由緒并来歴』によると、徳川家康は筑波山は江戸の東北にあたり重視していた。1600年(慶長5年)、家康が長谷寺に祈願した時に願意を成就させた宥俊を取り立て筑波山の知足院を与え朱印地500石を寄進し、祈願所とした。1609年(慶長14年)、弟子の光誉が住職を継いだ。1610年(慶長15年)、光誉は江戸の白銀町(岩井町ともいう)に寺地を与えられ、護摩堂と坊舎を建立。江戸に常駐して江戸城の鎮護の祈願を命じられた。光誉は1614年(慶長19年)と1615年(元和1年)の大坂の陣にも供奉して祈祷した。1615年(元和1年)以降、城内の安鎮祈祷を命じられ、座敷ごとに札を収めたという。1626年(寛永3年)、徳川家光が造営(江戸名所図会)。1639年(寛永16年)4月7日、幕府は護摩堂造営の費用として1300両を与えた()。1674年(延宝2年)から1680年(延宝8年)にかけて3回焼失し、そのたびに幕府によって再建された。1684年(貞享1年)、徳川綱吉は知足院に天下安全の祈祷をさせることとし、周囲が市街地として発展して町家に囲まれるようになり類焼の恐れもあるため、湯島天神の後ろに移転させた。のちの根生院の地。
隆光の活躍と大造営
隆光が徳川綱吉の帰依を受け、知足院住職となる。 1686年(貞享3年)12月1日、隆光、権僧正。 1688年(元禄1年)2月15日、一旦、天樹院邸跡が寺地となるが28日、知足院を神田橋外に変更。明石藩主松平直明が造営を担当する。 9月5日、隆光の班次を「別異」とする。11月4日、造営が終わり大伽藍が完成する。東照宮も建て同日戌刻(午後7時~9時)、遷座祭を行う。 11月18日、知足院東照宮に将軍徳川綱吉参詣。同日、元禄寺の号を与えられたという(天享吾妻鑑)。 12月5日、湯島の旧地を根生院に与えた。 1689年(元禄2年)閏1月25日、将軍綱吉御成。論義を聴聞する。 1691年(元禄4年)閏8月22日、幕府、知足院を無本寺とする。 1691年(元禄4年)6月18日、権僧正隆光、智積院・長谷寺と共に正僧正となり、2本山と同格に近い扱いとなる。 1695年(元禄8年)9月18日、知足院を護持院と改称。真言新義僧録とする。この時、院家になったとも(武江年表)。同年、隆光を大僧正とする。
隆光の失脚
1709年(宝永6年)1月10日、最大の庇護者である徳川綱吉が死去。隆光は失脚した。同年8月、智積院11世の覚眼が護持院住職となる。護持院住職は智山豊山の僧が交代で就任することとされた。
1717年(享保2年)1月20日、大火で護持院焼失。 2月9日、護持院を護国寺に合併。 3月14日、護国寺をもって護持院とし、観音堂を護国寺とする。同日、新義僧録停止。 1724年(享保9年)11月7日、幕府、護持院住職は智山豊山の両派ではなく豊山派から任命することと決める。
伽藍
- 本堂:釈迦堂
- 護持院東照宮
- 千手堂
- 聖天堂
- 護摩堂
- 大師堂
- 書院
- 御札座敷:将軍の座所に置く御札を調進する場所だろうか。1710年(宝永7年)春に撤去。
- 日輪坊
- 月輪坊
組織
住職
- 宥俊(?-1609)<?-1609>:中興1世。長谷寺梅心院の出身。
- 光誉(-1624)<1609-1624>:長谷寺梅心院の出身。宥俊の弟子。慶長15年、江戸に進出。
- 栄増():
- 信全():
- 賢暁():
- 覚永():
- 恵円():
- 俊盛(1612-1680):長谷寺10世。
- 尊如(1622-1684):長谷寺12世。
- 慧賢():
- 隆光(1649-1724):護持院と改称
- 快意():室生寺住職
- 覚眼(1643-1725):江戸・円福寺、智積院11世を経て護持院住職。
- 隆慶(1649-1719):江戸・弥勒寺、大護院を経て宝永5年(1708)長谷寺17世に晋山。正徳5年(1715)護国寺住職。護持院が護国寺に移転してくるとその住職となり、護国寺も兼務。
- 兼澄():
- 恵海(1662-1745):長谷寺21世。
- 主真():
- 覚音():
- 龍岳():
- 圭賢(1669-1749):長谷寺23世。
- 信恕(1682-1760):長谷寺24世。
- 憲清():
- 光星():
- 恵山():以下末代まで護国寺兼務。
- 有慶(1709-1775):長谷寺28世。
- 懐玄(?-1790):長谷寺31世。
- 観算():
- 恵翁():
- 儀貞(1732-1802):長谷寺33世。
- 実自():
- 信応():
- 元栄(?-1802):長谷寺34世。
- 盛尊(?-1804):長谷寺36世。
- 高隆(1737-1808):長谷寺37世。
- 賢慶():
- 通弁():
- 祐澄():
- 令法(?-1827):長谷寺41世。
- 秀陽():
- 栄性(1768-1837):天保4年就任。
- 真淳():
- 信恵(1776-1846):長谷寺46世。
- 法信():
- 長盛():
- 通済(1788-1872):長谷寺49世
- 宥観(?-1866):長谷寺50世。「宥歓」。
- 快照():
- 実盈():
- 隆盛(1801-1872):長谷寺52世。
(富田学純『新義真言宗史』[1])
資料
- 知足院御普請御手伝日記:明石藩
- 知足院由緒并来歴[2]